2008年5月26日 (月曜日)

迷わない雑誌

夜中のコンビニには、「スィーツ」という誘惑の他に、新刊の「雑誌」を立ち読みする楽しみがある。
 
かつての僕は、「袋とじ」という雑誌の企画に騙されては写真週刊誌を買っていたことも…(苦笑)
 
「うぅぅ……見たい。どうしても見たい!」
…と雑誌編集者の「ワナ」にマンマと引っかかっていた。(でも、その内容が予想以上だった事はほとんどない。)
 
最近の僕は、そういう「ワナ」への興味も失せて、そういう雑誌もあまり読まなくなっていた。
 
  
しかし、
最近、雑誌の「表紙」に、やたら見かける「顔」がある。
 
  
それは、
イイ年したオッサンの私が何故か気になる
「綾瀬はるか」
である。
  
ホント彼女が表紙の雑誌がやたら多い。
近々、映画が公開になるから、PRも兼ねているのだろう。(そういえばテレビにもよく出てる)
  
   
昨日もコンビニで何冊かの雑誌の表紙に彼女を発見!
  
すると『Smart』という男性ファッション誌に  
「別冊付録 綾瀬はるかスペシャル写真集」  
と書いてある。
  
  
………………ワタクシ、久々に、迷わずに、その一冊を買い物カゴに入れていました(笑)
   
  
映画見たいゾ
来月見に行こう

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2008年5月25日 (日曜日)

この道ひとつ

今日は、毎月最終日曜日に開催しているお寺の「同朋の会(学習会)」の日だった。今月は、僕が担当で、「歎異抄」の第2章を読んだ。

 

京都の親鸞さんが60歳前後の頃のこと。

かつて約20年滞在した関東地方の門弟たちの間に、仏教(お念仏)の理解に対する「迷い」が生まれる。いくら親鸞さまから直接に「教え」を聞いた弟子であっても、いつしか周囲に「念仏は地獄へ堕ちるキッカケになるよ」という「他宗のカリスマ」が出てきたり、「私は念仏の本当の奥義を親鸞さまから直接聞いた!」というような「人物」が登場したりして惑わされると、次第に「根っ子」がグラついてしまうのである。

そして、動揺した弟子たちは、関東からハルバル「命がけの旅」をして京都の親鸞様をたずねて来て、

「本当のところは、どうなの?教えて!親鸞さま」

と訴える、そのあたりから始まるのが、歎異抄第2章である。

師匠・親鸞ならば、「本当はこうなのだよ。安心しなさい」と言ってくれると期待していた弟子たちに、「あなたたちの命がけで京都までやってきた目的は、命を本当にマットウする道を尋ねることだろう?」と問題点をハッキリさせた上で、親鸞さんは言う。

「私は、法然さんという師匠の仰せを受け取っているだけ、何も他に特別なことを知ってる訳でもないし、奥義の書いた経典を所有してるわけでもない。もし、そんなことを知りたいなら、仏教に詳しい学者さんとこに行ってきなさい。」

「この道を行って、うまくいくかどうか、そんなこと知らん。でも、法然さんの仰せを受け取って失敗しても、少しも後悔しないよ。」

「だってさ、この他の道を選んで進んで、うまくいくような才覚のある私なら、後悔もするだろうけど、もともと、救いようのない地獄行き決定の自分だから、うまくいかなくても、地獄こそもともと自分の居場所なのさ。」

「私の言いたいことは、それだけ」 

「だから、皆さんが、この道を行こうと、辞めちゃおうと、どうぞご自由にね」

(すみません、意訳しすぎ?興味のある方は、現本をシッカリお読み下さい・・・)

関東地方の弟子たちの間での「迷い・動揺」に対して、親鸞さんがこうレクチャーしてくれた、という「お墨付き」が欲しかった弟子たちであるが、言われたことは「私・親鸞はこう受け取っているだけ」という事のみ。

過去の比叡山での20年にもわたる修行で「自分のココロの構造」を厳しく見つめられた親鸞さんが、師匠・法然さまとの出逢いにより選んだ「一筋の道」・・・。

  

 

そんな内容の歎異抄の第2章を集まった皆さんといっしょに読みながら、約2時間の「講義?」を終えた。

帰る皆さんを玄関まで送り出していると、ちょうどお寺の外に女性2人の姿が・・・。それは10年くらい久しぶりに会う友人だった。驚きながら、玄関先で立ち話をする。近況を報告しあいながら、しかし、やがて、彼女はこう切り出したのだった。

 「話を聞いて欲しいんです。実は、私、ある宗教をオススメしているんです。」

と「ビラ」を1枚手渡してくる。少しビックリしたし、見知らぬ人なら、反射的にキツイ言葉で撃退してたかもしれないけど、昔からの友人なのでそうもいかない。逃げられないので、話を聞くしかない状況・・・。

 「因縁というものがあって、断ち切れないまま過去からずっと続き、そして、今の私を悩ませるのです。この宗教でその悪縁を絶ちきり、すべて解決できます・・・」 

 そういった内容。語る彼女の瞳は「死んだ魚」のようだ。

 「私、やっと結婚するんです。そうなれたのはこの教えのお陰でして・・・KONOさん、結婚していないですよね???それは過去からの因縁を断ち切っていないから。KONOさんはお坊さんだから・・・でも、九州のお坊さんも仏教にプラスして私たちの宗教で解決した人がいるんですよ・・・だからKONOさんにもぜひ・・・」

 「あなたのいう解決って何?」って質問したい衝動にかられる。でも、噛み合わない会話が継続していくのも、正直めんどくさい。

 さっきの「歎異抄」の親鸞さんが浮かぶ。

 -----もともと地獄行きだった私には、法然さまの仰せになった「この道」しかない----

 僕は、こう答えていた。

 「わかった。でも、俺は、親鸞さんの仏教をいただく浄土真宗の寺の住職になり、今も、皆さんと”学習会”をして終ったところなんだよ。」

 「うん、アナタの教えはよく分からんけど否定はしない。わざわざ足を運んで他人にオススメするあなたに敬意を表する。」

 「でも、親鸞さまの教えをいただいている俺には、アナタの言う教えは必要ないんだ。」

 そう言うと、

 「KONOさんには必要なくても、先祖が必要としています・・・」

 いかん、まずい、噛み合うわけがない。でも、僕は、こういうしかなかった。

 「ごめんな。あなたはあなたの信じる道を進んでください。俺は、今、自分にいただいた道を歩むだけだから。申し訳ない。ありがとう。」

 彼女の瞳の奥に、

 「(私の言う教えを信じないなんて、お気の毒に・・・)」

 という「哀しみ」が感じられた。

 彼女は帰っていった。

 その背中を見送りながら、僕は何とも言えない気分になった。

 凝り固まって、瞳の輝きを失い、訳の分からん話をして友人を失ったり、他の教えをいただいている場所(人)に土足で踏み込んできたり、周囲と噛み合わなくなっていくのが、「宗教」なのではないと思う。

 でも、彼女のお陰で、

 「この道ひとつ」・・・という親鸞さんの「受け止め」を考える事ができた。

 

 まだまだ「他の道を行けば、うまくいくのでは?」という可能性にうぬぼれたり、「この道ひとつ・・」と言い切れない自分がいたり。

 でも、僕は、迷いながらも、「命を本当にマットウする道」を、これからも尋ね続けるのだ。 

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2008年5月23日 (金曜日)

誕生日に免許証更新

今年は、5年に1度の「運転免許証」の更新の年。
  
今日は日中お参りが空いたので、チラッと札幌まで車を走らせました。
  
せっかく更新するなら、誕生日当日がいいでしょ!
  
更新手続きができる「札幌中央警察署」に向かう。
  
着いて、申請用紙をもらい、名前を書いて、印紙を貼って、写真を撮って、講習を30分受けたら、すぐ新しい免許がもらえた。
 私は決してマジメなドライバーではないはずだが要領が良い「優良ドライバー」なので、30分講習で楽!
  
所要時間1時間で全部終了!早い。
 
帰ってから、
今まで20年間の免許証を並べてみた。
 
右から20歳→23歳→26歳→29歳→34歳→39歳…の約20年。
 
免許証の大きさとか、文字の雰囲気とか、更新年の間隔も変化してきたが、こうして写真をズラッと並べると面白い。
  
「体重」は15キロほど増量・・・
「顔の輪郭」も変わり、
「メガネ」も昔はデカい・・・
「髪」が黒から茶へ。
「首」も太くなったなぁ。
  
ほんと、年とったなぁ。20年だもんなぁ・・・。
 
でも、
一応は『ゴールドドライバー』のワタクシ・・・
これからも安全運転を心がけていきたい。
  
 
 
そして、本日、私の誕生日に際し、色んな方達からメッセージやお言葉、お手紙をいただきました。
   
特に携帯メールでのメッセージは、今日の免許証更新の30分講習が終わって、帰るときに電源をONにしてみたら、まとまって着信して、びっくり。札幌中央警察署の玄関にしばし立ったままの状態で読んでました(笑)
 
みなさん、あたたかいメッセージ、ありがとうございます。
また頑張って行きます。
  
  
あと、その帰りに、久しぶりに「PPFM」へ行きました。すっかり店内は夏物の季節。新作を見るのは楽しい。(サイズが合えばもっと楽しい。)ハーフパンツやサンダル、パーカー、シャツなどを購入。
(ありがちな言い方ですが、自分への誕生日プレゼントなのさ!)

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2008年5月22日 (木曜日)

さぁ!

 またひとつ歳を重ねる。

  

 「住職」になって夢中で駆けだした「38歳」のこの1年。

 心も体も不安定な時期もあったけど、

 なんとか「支えられ」て、歩いてこれました。

 ありがとうございます。

  

 去年の5月末日、

 「住職」の任命を戴く為に参加した京都・東本願寺の「研修会(住職修習)」でご一緒した石川県の”ぐり♪さん”のブログで、以下の文章に出逢った。

  

************************************************************ 

   『心を仏地に樹て』  

  人間が人間であるよりどうにもならぬのに、その「人間」をうけとっている人もまた少ないのである。人を貶(けな)すことは、その人を自分がうけとれないことを表現していることだ。

 私は私の人生をうけとれる人間になりたい。そして周囲の人を貶(けな)さないで、人や出来事をよく味わっていく生活がしたい。

 そして最後に一人死ぬこともうけとっていきたい。うけとるということは、なにごとも「よい」と思うことではない。よく心に消化する意味である。

 人間が人間の条件から逃れることができないのに、どうしてその人間を肯定することができないのであろうか。

 人よ、友よ、すべてを肯定して ことあげすることなく、人生を楽しもうではないか。  私どもの人生は、またとない、よい機会なのだから。

※【高光一也著 『別冊ひとりふたり これでよかった ~私の歎異抄ノートより~』(昭和59年 法蔵館)P.41】

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  これは、ぐり♪さんのお爺様がお書きになった著書である。

 そして、僕はさっそくこの本をインターネットで取り寄せて、日々、味わい読んでいる。

  この1年の日々の中で、こんなにまっすぐに僕に問いかけ、突き刺さってくる「言葉」はなかった。

  

 僕は僕の人生をうけとれる人間になりたい。

 

 色んな状況を如実に知見し、喜びも、そして哀しみ・苦しみ・イヤな事も、「よく心に消化」していく・・・、  

 そんな歩みを、

 明日からの39歳の「またのない、よい機会」の人生の中ででも、

 味わって往きたい。 

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2008年5月21日 (水曜日)

カーナビと人生

 
遅ればせながら、愛車ビートル君にカーナビをつけました。
 
車上荒らしもコワいし、今さら上級モデルを付けるのももったいないから、使わない時には取り外しがカンタンな「ポータブルタイプ」にしました。
 
見知らぬ場所に行かなきゃならない際に、場所を教えてくれるだけで充分なのです。
 
 
*現在地が分かること。
*目的地への進むべき方向が分かること。
 
うん、
人生にも通ずるテーマだと思います。

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2008年5月20日 (火曜日)

言い訳よりも。

例えば、

ある「会」の役員の任期切れが近づいて、次期の「新役員」の候補を探している状況だとする。

でも、たいていの人は「新役員」になんか選ばれたくない。「役員」になんかなってしまったらめんどくさいし、目の前の事に忙しい毎日だし、誰だって断りたい。自分がやらなくなって、他に相応しい人がいるはずだ!

  

そして、断る為の色んな「言い訳」をする。

 ※例えば、僕が何かの「役員」に選ばれそうな場合なら、以下のように言うだろう。

(1)すみません、去年、「住職」になったばかりで、「外」の事をやる前に、今は「ウチ」の事をいち早く軌道に乗せるべく頑張らなければなりません・・・。余裕がありません。

(2)すみません、父である「前・住職」が年老いて、実際は、私が1人でお寺の法要や葬儀、月参りに飛び回っている状態です。余裕がありません。

(3)すみません、私の不徳の致すところで未だ「独身」でして、ほんと、何でも自分でやらなきゃならない状態です。余裕がありません。

(4)すみません、ここ数ヶ月、体調がよくない日が多くあります。余裕がありません。

以上の(1)〜(4)は決して嘘ではない。(実は、まだココには書けない「余裕がありません」もあるのだが・・・。)

でも、そんな私の以上のような「言い訳」なんか一切通らず、

「余裕がない」のは「みんな同じ」なのだよと、

結局、僕は、ある会の「役員」に選ばれた。

「みんな同じ」という意見に、正直、僕は賛同できないのだけれど、

ま・・・・。選ばれた以上は、自分のできる限り、頑張るつもりだ。

 

で、

今回の話は、僕のことではない。

ある「会」の会長をしている私の近しい知り合いが、次期の会長候補が見つからず、苦労しているのだが、

色んな人に打診しても、誰も彼もが「言い訳」ばっかりで、なかなか承諾してくれないらしい。

どの「言い訳」も嘘ではないだろう。そして、みんな「余裕がない」くらい大変なのだろう。

でもな、

俺に言われた言葉をそのまま引用させてもらうけど、

「余裕がない」のは「みんな同じ」なのだよ。

 

だから、俺は、その人に言っている。

他の誰かがやってくれるだろう・・・

なんて、どいつもこいつも辞退して「次期会長候補」が見つからないような「会」ならば、

そんな「会」、今期で、あなたの代で解散しちゃえばいいのだ!

それでスッキリするんじゃないの?!

と。

やりたくない一心で「言い訳」なんて、誰だってなんとでも言える。

要は

やるか、やらないか、

その「会」が必要なのか、必要ではないのか、

ということ。

なんのために「恩徳讃」を歌っているのだ?

  

※この投稿に関しては、めんどくさいので、コメントは受け付けません。

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ラブソングが聞こえる寺

明日は、法話ライブツアーの「追加公演・第一弾」(笑)として、ウチの寺で歌う。
  
17日(土)の投稿ネタにも通ずるんだけど、(ブログと同様に)「ライブ」も身内とか、近しい人とか、例えば檀家さんの前では、やりにくいのです(^^;)
  
なので、ヨソのお寺とか学校とかに呼ばれ「法話ライブ」に張り切って行くくせに、今まであまりウチの寺でやったことがない。
  
 
明日(20日)は、ウチの寺の「婦人会」主催の《お花見(聞法と懇親のつどい)がある。花見の宴会の前に、法要と法話がある。余興で毎年「一曲」くらい披露してきたが、住職になって初のお花見だし、ある程度采配が許されるから、法話部分を思い切って「法話ライブ」にすることにした。
  
実際に私のライブ(歌)を初めて聴く檀家さんもいるから、どんな感想をくださるか楽しみである。
  
  
それにしても、ヨソに出掛けていく場合と違い、ウチでやるのはセッティングが楽だ。
さっき機材の設置をして、「音出し」しながら、誰もいない本堂で大音響で歌いすぎるくらい歌っていた(笑)
  
  
今夜は、本堂から「お経」じゃなく「ラブソング」が聞こえる寺だった……。

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