迷わない雑誌
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今日は、毎月最終日曜日に開催しているお寺の「同朋の会(学習会)」の日だった。今月は、僕が担当で、「歎異抄」の第2章を読んだ。
京都の親鸞さんが60歳前後の頃のこと。
かつて約20年滞在した関東地方の門弟たちの間に、仏教(お念仏)の理解に対する「迷い」が生まれる。いくら親鸞さまから直接に「教え」を聞いた弟子であっても、いつしか周囲に「念仏は地獄へ堕ちるキッカケになるよ」という「他宗のカリスマ」が出てきたり、「私は念仏の本当の奥義を親鸞さまから直接聞いた!」というような「人物」が登場したりして惑わされると、次第に「根っ子」がグラついてしまうのである。
そして、動揺した弟子たちは、関東からハルバル「命がけの旅」をして京都の親鸞様をたずねて来て、
「本当のところは、どうなの?教えて!親鸞さま」
と訴える、そのあたりから始まるのが、歎異抄第2章である。
師匠・親鸞ならば、「本当はこうなのだよ。安心しなさい」と言ってくれると期待していた弟子たちに、「あなたたちの命がけで京都までやってきた目的は、命を本当にマットウする道を尋ねることだろう?」と問題点をハッキリさせた上で、親鸞さんは言う。
「私は、法然さんという師匠の仰せを受け取っているだけ、何も他に特別なことを知ってる訳でもないし、奥義の書いた経典を所有してるわけでもない。もし、そんなことを知りたいなら、仏教に詳しい学者さんとこに行ってきなさい。」
「この道を行って、うまくいくかどうか、そんなこと知らん。でも、法然さんの仰せを受け取って失敗しても、少しも後悔しないよ。」
「だってさ、この他の道を選んで進んで、うまくいくような才覚のある私なら、後悔もするだろうけど、もともと、救いようのない地獄行き決定の自分だから、うまくいかなくても、地獄こそもともと自分の居場所なのさ。」
「私の言いたいことは、それだけ」
「だから、皆さんが、この道を行こうと、辞めちゃおうと、どうぞご自由にね」
(すみません、意訳しすぎ?興味のある方は、現本をシッカリお読み下さい・・・)
関東地方の弟子たちの間での「迷い・動揺」に対して、親鸞さんがこうレクチャーしてくれた、という「お墨付き」が欲しかった弟子たちであるが、言われたことは「私・親鸞はこう受け取っているだけ」という事のみ。
過去の比叡山での20年にもわたる修行で「自分のココロの構造」を厳しく見つめられた親鸞さんが、師匠・法然さまとの出逢いにより選んだ「一筋の道」・・・。
そんな内容の歎異抄の第2章を集まった皆さんといっしょに読みながら、約2時間の「講義?」を終えた。
帰る皆さんを玄関まで送り出していると、ちょうどお寺の外に女性2人の姿が・・・。それは10年くらい久しぶりに会う友人だった。驚きながら、玄関先で立ち話をする。近況を報告しあいながら、しかし、やがて、彼女はこう切り出したのだった。
「話を聞いて欲しいんです。実は、私、ある宗教をオススメしているんです。」
と「ビラ」を1枚手渡してくる。少しビックリしたし、見知らぬ人なら、反射的にキツイ言葉で撃退してたかもしれないけど、昔からの友人なのでそうもいかない。逃げられないので、話を聞くしかない状況・・・。
「因縁というものがあって、断ち切れないまま過去からずっと続き、そして、今の私を悩ませるのです。この宗教でその悪縁を絶ちきり、すべて解決できます・・・」
そういった内容。語る彼女の瞳は「死んだ魚」のようだ。
「私、やっと結婚するんです。そうなれたのはこの教えのお陰でして・・・KONOさん、結婚していないですよね???それは過去からの因縁を断ち切っていないから。KONOさんはお坊さんだから・・・でも、九州のお坊さんも仏教にプラスして私たちの宗教で解決した人がいるんですよ・・・だからKONOさんにもぜひ・・・」
「あなたのいう解決って何?」って質問したい衝動にかられる。でも、噛み合わない会話が継続していくのも、正直めんどくさい。
さっきの「歎異抄」の親鸞さんが浮かぶ。
-----もともと地獄行きだった私には、法然さまの仰せになった「この道」しかない----
僕は、こう答えていた。
「わかった。でも、俺は、親鸞さんの仏教をいただく浄土真宗の寺の住職になり、今も、皆さんと”学習会”をして終ったところなんだよ。」
「うん、アナタの教えはよく分からんけど否定はしない。わざわざ足を運んで他人にオススメするあなたに敬意を表する。」
「でも、親鸞さまの教えをいただいている俺には、アナタの言う教えは必要ないんだ。」
そう言うと、
「KONOさんには必要なくても、先祖が必要としています・・・」
いかん、まずい、噛み合うわけがない。でも、僕は、こういうしかなかった。
「ごめんな。あなたはあなたの信じる道を進んでください。俺は、今、自分にいただいた道を歩むだけだから。申し訳ない。ありがとう。」
彼女の瞳の奥に、
「(私の言う教えを信じないなんて、お気の毒に・・・)」
という「哀しみ」が感じられた。
彼女は帰っていった。
その背中を見送りながら、僕は何とも言えない気分になった。
凝り固まって、瞳の輝きを失い、訳の分からん話をして友人を失ったり、他の教えをいただいている場所(人)に土足で踏み込んできたり、周囲と噛み合わなくなっていくのが、「宗教」なのではないと思う。
でも、彼女のお陰で、
「この道ひとつ」・・・という親鸞さんの「受け止め」を考える事ができた。
まだまだ「他の道を行けば、うまくいくのでは?」という可能性にうぬぼれたり、「この道ひとつ・・」と言い切れない自分がいたり。
でも、僕は、迷いながらも、「命を本当にマットウする道」を、これからも尋ね続けるのだ。
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またひとつ歳を重ねる。
「住職」になって夢中で駆けだした「38歳」のこの1年。
心も体も不安定な時期もあったけど、
なんとか「支えられ」て、歩いてこれました。
ありがとうございます。
去年の5月末日、
「住職」の任命を戴く為に参加した京都・東本願寺の「研修会(住職修習)」でご一緒した石川県の”ぐり♪さん”のブログで、以下の文章に出逢った。
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『心を仏地に樹て』
人間が人間であるよりどうにもならぬのに、その「人間」をうけとっている人もまた少ないのである。人を貶(けな)すことは、その人を自分がうけとれないことを表現していることだ。
私は私の人生をうけとれる人間になりたい。そして周囲の人を貶(けな)さないで、人や出来事をよく味わっていく生活がしたい。
そして最後に一人死ぬこともうけとっていきたい。うけとるということは、なにごとも「よい」と思うことではない。よく心に消化する意味である。
人間が人間の条件から逃れることができないのに、どうしてその人間を肯定することができないのであろうか。
人よ、友よ、すべてを肯定して ことあげすることなく、人生を楽しもうではないか。 私どもの人生は、またとない、よい機会なのだから。
※【高光一也著 『別冊ひとりふたり これでよかった ~私の歎異抄ノートより~』(昭和59年 法蔵館)P.41】
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これは、ぐり♪さんのお爺様がお書きになった著書である。
そして、僕はさっそくこの本をインターネットで取り寄せて、日々、味わい読んでいる。
この1年の日々の中で、こんなにまっすぐに僕に問いかけ、突き刺さってくる「言葉」はなかった。
僕は僕の人生をうけとれる人間になりたい。
色んな状況を如実に知見し、喜びも、そして哀しみ・苦しみ・イヤな事も、「よく心に消化」していく・・・、
そんな歩みを、
明日からの39歳の「またのない、よい機会」の人生の中ででも、
味わって往きたい。
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例えば、
ある「会」の役員の任期切れが近づいて、次期の「新役員」の候補を探している状況だとする。
でも、たいていの人は「新役員」になんか選ばれたくない。「役員」になんかなってしまったらめんどくさいし、目の前の事に忙しい毎日だし、誰だって断りたい。自分がやらなくなって、他に相応しい人がいるはずだ!
そして、断る為の色んな「言い訳」をする。
※例えば、僕が何かの「役員」に選ばれそうな場合なら、以下のように言うだろう。
(1)すみません、去年、「住職」になったばかりで、「外」の事をやる前に、今は「ウチ」の事をいち早く軌道に乗せるべく頑張らなければなりません・・・。余裕がありません。
(2)すみません、父である「前・住職」が年老いて、実際は、私が1人でお寺の法要や葬儀、月参りに飛び回っている状態です。余裕がありません。
(3)すみません、私の不徳の致すところで未だ「独身」でして、ほんと、何でも自分でやらなきゃならない状態です。余裕がありません。
(4)すみません、ここ数ヶ月、体調がよくない日が多くあります。余裕がありません。
以上の(1)〜(4)は決して嘘ではない。(実は、まだココには書けない「余裕がありません」もあるのだが・・・。)
でも、そんな私の以上のような「言い訳」なんか一切通らず、
「余裕がない」のは「みんな同じ」なのだよと、
結局、僕は、ある会の「役員」に選ばれた。
「みんな同じ」という意見に、正直、僕は賛同できないのだけれど、
ま・・・・。選ばれた以上は、自分のできる限り、頑張るつもりだ。
で、
今回の話は、僕のことではない。
ある「会」の会長をしている私の近しい知り合いが、次期の会長候補が見つからず、苦労しているのだが、
色んな人に打診しても、誰も彼もが「言い訳」ばっかりで、なかなか承諾してくれないらしい。
どの「言い訳」も嘘ではないだろう。そして、みんな「余裕がない」くらい大変なのだろう。
でもな、
俺に言われた言葉をそのまま引用させてもらうけど、
「余裕がない」のは「みんな同じ」なのだよ。
だから、俺は、その人に言っている。
他の誰かがやってくれるだろう・・・
なんて、どいつもこいつも辞退して「次期会長候補」が見つからないような「会」ならば、
そんな「会」、今期で、あなたの代で解散しちゃえばいいのだ!
それでスッキリするんじゃないの?!
と。
やりたくない一心で「言い訳」なんて、誰だってなんとでも言える。
要は
やるか、やらないか、
その「会」が必要なのか、必要ではないのか、
ということ。
なんのために「恩徳讃」を歌っているのだ?
※この投稿に関しては、めんどくさいので、コメントは受け付けません。
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