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房総の伝説民話紀行

新田家臣の落人集落

2007年11月27日

 元弘3(1333)年、鎌倉幕府が滅亡。後醍醐天皇による建武の新政が始まるが、天皇と足利尊氏の対立へと進む。一度は敗れ九州へ落ちた尊氏は、勢力を盛り返し都を奪還。後醍醐天皇方の新田義貞は、態勢立て直しに越前へ向かう。新田勢には、千葉介貞胤も加わっていたが、建武3(1336)年10月、雪の木芽峠で足利方の斯波高経の説得を受け入れ貞胤は降伏した。

 そんな歴史を背景に成立した集落・木積を訪ねた。数年前から春には「おせん様のふじ祭」を開催。下総台地と谷津田が織り成す静かな集落である。

 木積の伝説は、次のような話だ。

 雪の木芽峠で千葉勢は足利方に降伏し、さらに建武5(1338)年には大将の新田義貞が越前国藤島(現、福井市)で戦死。義貞の家臣、敗残の16人は、故郷に戻ることもできず、共に戦った千葉氏に身の振り方を相談した。その結果、領地である下総国香取郡千田庄(多古町あたり)の東、木積の地を与えられた。16人は白山神社を勧請し、落人として暮らし始めた。

 匝瑳市の中心部・八日市場から多古町へと県道を行き、バス停・木積に。そこから左手へ小道を進めば、緩やかに下り白山神社と龍頭寺に着く。ここで待ち合わせたのが、行木(ゆうき)光一さん(57)。「ふじの会」の代表であり、ふじ祭を主催してきた。「村の草分けを16苗(びょう)と呼びます。ウチもその分家で」と行木さん。竜伝説も残る龍頭寺も、16苗が再興し菩提(ぼだい)寺としたようだ。観音堂の左手には、菊の花が供えられた「おせん様の墓」という小さな墓石が。江戸中期、草分けの子孫・おせんが箕(み)作りを村人に広めたという。山で採れる篠竹と藤蔓(ふじづる)の皮で編む箕は軽くて丈夫。「木積の福箕」の名称で、戦後の60年代まで広く販売され、遠くは静岡のお茶農家で重宝されたそうだ。「ウチは出口屋という屋号で、福箕の問屋でした」。田畑の乏しい落人の暮らし。箕作りは、貴重な収入になったはずだ。

 新田家臣の落人との伝説を、行木さんたちは誇りにしている。集落に藤を植え、福箕の技術も伝承。春、桜の花が散れば、お寺の大藤を中心に、木積は藤の花房で彩られることだろう。

文 さいとう・はるき

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