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2008-05-27 私ナカタ! ナカタやるから!

アニメやりに東大行ったおれが学歴について語ってみる

404 Blog Not Found:中卒のオレが学歴について語ってみる

umedamochioと同じ大学を卒業したオレが中卒のdankogaiの文章を読んで思ったこと

中卒の私が学歴について語ってみる - $ dropdb 人生

こういう話が出てくると、どういうわけか大卒であることを恥じたり、過度に学歴の低さをリスペクトしたり、果ては高学歴に敵意を向けるコメントが出てきたりして大変もにょる。いや、学歴関係ねえって文脈じゃないのかこういうのは。

大切なのは学校出たあとってんなら、どんな学校で何やってようが当人の自由じゃないのとも思う。自分に自信あるやつが大学で4年間好き放題やったってかまわんのである。4年といわず8年いたっていいさ。時間の無駄だ、という意見が当然出てくるが、それはむしろ金の無駄だと言いたいのではないかな。何のためにお前に投資していると思ってるんだ、みたいな。

どうにも引け目を感じるが、なんだろうな、そういう観点で高等教育を推し量ると、文学部なんかまるっきり存在価値がなくなってしまう。太平洋戦争中の学徒出陣って、文系の学生が徴兵猶予を撤廃されて戦場へ送り出されたわけで。あれって要するに、理系の連中は兵器開発とかやらせて戦争遂行の役に立つけれど、文系なんざこんなときは使い物にならんからさっさと兵隊にしてしまえって話だしなあ。

そういうヘンな功利主義は長い目で見て文化的に社会を貧しくすると思うのだけど、どうか。戦後しばらくして、女子の大学進学率が急激に上昇したのだけど、その大半がただ嫁入り修業で箔をつけるために何の真剣みもなく文学部に進学しやがる連中だ、ケシカランという「女子学生亡国論」が巻き起こった。半世紀近く前の話なのだけど、これは高度経済成長に伴い、そういう進学ができる経済的余裕が社会全体にもたらされつつあったことの表われなのだと思う(中公新書『教養主義の没落』『女学校と女学生』参照)。

結構なことじゃないのさ。無駄を尊べない、許容できない社会はロクでもないよ。

……ひょっとして、すでに今の日本、実用性のある分野で社会に貢献する気のない学生を遊ばせておく余裕はねえんだって話? なんてこったい。


というのはつまり、無駄極まりない学生生活を送った自分を擁護したいのである。ぼくの人生、無駄ばかりなのだ。そんなやつは社会に必要ない、と宣告されてはたまらない。

以下、クソ長くも鬱陶しい半生ガタリなので隠す(しかしこの機能、ブクマ経由で最初から記事単位で読む場合なんかは意味を成さないなあ)。20代の終わりにもなって中高時代や大学受験の話を延々語るのは社会的に成功していない、成熟していない証としか言いようがないが、このあたりのエピソードはまだテキスト化したことがなかったので、半分以上自己満足である。そんなものに付き合う義理はないという方は立ち去るがよろしかろう、学歴に関する主張は上のパラグラフで終わっているし。



1

ここ数年、高校の後輩がサークルに入ってくることがしばしばある。アニメ研の9年後輩にもいる。彼の担任はかつてのぼくの担任だった。初対面のとき、この後輩にぼくの昔話をしたところ、「有村悠」という名を担任から聞いたことがあると興奮気味に語ってくれた。お前みたいなやつが昔東大に行った、と。

複数の教師の口の端に今でもぼくの話題が上るらしい。ある恩師は、アニメをやりに東大に行ったひとがいるんですよ」と授業で語ったそうだ。


ぼくの出身校は久留米大学附設中学校・高等学校という、東京大学に毎年20〜30人くらい現役で合格する田舎の進学校だった。ダン君がCTOをつとめたオン・ザ・エッヂ(現ライブドア)元CEOほっちゃん、もといホリエモンこと堀江貴文氏はぼくの7年先輩である(中高合わせて6年なのでお会いしたことはない)。さらに大先輩にはソフトバンク孫正義氏がいるが、彼は高1の夏に中退して渡米したダン君的な人物だったという。

なんでぼくがそんな学校にいたかというと、公立の中学へやったら間違いなくいじめられると親が判断したためだ。福岡市で小学生やっていたころのぼくは、授業中に席に座っていることすら満足にできず、だいたい教室の後ろで学級文庫を読み漁っているか、着席時は絵を描いているか、飛行機を2機くらい折って自ら空中戦を演じては最後に効果音つきで破壊するかという、たいへんに気違いじみた子供だった。1年の最初の家庭訪問では担任に「困ります」を連発され、彼女が家を辞するや泣き崩れた母親に自室から引きずり出されて散々にぶん殴られたし、授業参観中にとある保護者から「あの子なんね、気違いね?」と指差されたことまである。隣にいた別の保護者が「それが違うとって、あの子天才らしかと」とフォローしたそうだが。

id:shi3z氏と同じく、当時は天才か気違いかという扱いを受けていたのだった。わりと今でもそうなのだけど。以下のようなエピソードがある。

  • 幼稚園の自由時間、保母さんの膝に座って新聞を読んでいた
  • 飛行機の図鑑のロケットの歴史のページに「提供 東京大学工学部」という落書きが1985年の日付とともに書き込まれていた。当時6歳
  • 小学校は家からわずか200メートルほどだったにもかかわらず連日のように遅刻していたが、あるときその理由に「家で新聞を読んでいたら出るのが遅くなった」というのを挙げた
  • 小4くらいのころに適性検査らしきものをやったら「研究者」「芸術家」が突出していて、その他の職業は軒並み壊滅的だった

たしかにこういうやつは、当時不良生産工場として有名だった地元の公立中学ではどんな目に遭うかわかったものではない。母親の英断であった。父親はそもそもぼくにあまり関心がなかったというか、小5のときに単身赴任する前もあまり家で顔を合わせた記憶がない。それでも塾へ通う金は出してくれた。ぼく自身はどこで何をしようとわりとどうでもよかったので、両親の意向にホイホイ従った。

もともと勉強嫌いというか、ひとから言われたことをこなせないぼくだが、中学受験のときだけは真面目に塾に通い、家でも多少の予習はした。「受験生は午前一時、二時まで勉強せよ!」などと、教育勅語のごとく小学生に唱えさせるファッキンな塾だったが、受験期は週6で22時くらいまで通っていた。いやよく我慢できたものだ。このころが人生で最も勉強した時期で、中学に合格するや、ほとんどあらゆる自宅学習と縁を切ってしまった。


1992年に中学生になって、最初の中間テストで151人中110位に甘んじた。そりゃそうだ、勉強を放棄したのだから。「附設を甘く見るな」というメッセージの添えられた成績表を戴いたものの一切気にせず、ぼくは廃部状態だった歴史研究部を再興し、同級生や顧問を引き連れて古墳だの遺跡だのを訪ね歩いていた。当時は考古学者になりたくて、福岡市埋蔵文化財センターに通いつめては発掘調査報告書を読み漁り、データベースを作っていたのである。二年になると歴史研究部は同好会から部に昇格して予算が下りたが、部長のぼくの計画性のなさと横暴っぷりが露呈し、福岡市内から久留米市へ転居したその年の夏休みに行われた、大分方面への研究旅行で続発したトラブルが発端となって部長職を解任されてしまった。

ぼくは激怒して歴史研究部を退部。半年ほどやさぐれた生活を送っていたが、そんな折、たまたま同級生たちが『ソード・ワールドRPG』というテーブルトークRPGをプレイしているところに混ざることになった。なぜか日付をはっきり覚えているが、1993年12月4日のことだ。歴史研究部でのトラブルが原因で歴史研究そのものへの情熱を失いかけていた反動からか、ぼくは恐ろしい勢いでTRPGにのめりこみ、翌年には仲間うちで一番熱心なプレイヤー兼ゲームマスターになっていた。参考文献的に『フォーチュン・クエスト』を購入したのがきっかけでライトノベルにもハマり、1995年に中学を卒業して高校にエスカレーター進学するころには、TRPGのルールブックやライトノベルは計150冊を超えていた。しばらく離れていたアニメも、『魔法騎士レイアース』がなにやらファンタジーっぽいということでまた見るようになった。早い話がオタクになっていたのである。


2

オウムが東京の地下鉄サリンを撒いた数週間後に高校に進学し、外部からの入学者が50人加わって一学年200人ほどになった。

あいっかわらず勉強しなかったぼくの成績は壊滅的で、中間や期末で180位台をマークしたりしていた。理系科目など赤点以外だったことのほうが珍しく、物理で16点取ればどうにか年間平均で赤点を免れるという状況で9点だったり、化学が実は留年決定の成績だったのだけれど、お前は文系ができるし才能もあるようなので見逃してやるという温情判決を押し戴いたりというデタラメさだ。数学に到っては、教師からしばしば暴行を受けた。授業中、数学教師に廊下に引きずり出されて投げ飛ばされるなんていうのは、わりと珍しい体験だろう(その教師自身は、ぼくが教わった中では好感度のかなり高い御仁なのだが)。

教師陣を相当やきもきさせていたことだろうが、ぼくはまるで気にせずスタディフリーで通した。机に何時間も向かって予習復習するくらいなら、小説読むしTRPGのシナリオ作るし絵描くしアニメ見るわ! という按配である。似たような成績だったTRPG仲間(というか、オタク仲間)と揃って見事に落ちこぼれていたわけだが、まったく意に介さなかったどころか、将来は京都大学なり大阪大学なりに進学してグループSNEに入るのだと信じて疑わなかった。グループSNEは『ソード・ワールドRPG』を世に送り出したゲームデザイナー集団で、『ロードス島戦記』を手がけた水野良や、と学会会長・山本弘が在籍していた。

彼らの手がけるゲームやリプレイや小説が面白かった以上に、SNEメンバー同士のやり取りのところどころからにじみ出る内輪の雰囲気が楽しそうでたまらなかったのだ。今思うと、あれはまるっきり古きよき大学オタク系サークルのノリだったわけで、第一世代オタクのメンタリティの刷り込みがそうやって始まっていたのだろう。ぼくもまた、実際にリプレイを制作したり小説を書いたりしはじめていて、そこにはしっかりと有村悠の名を刻んでいた。表現者・有村悠というアイデンティティは13年も前に獲得されていたのである。

そんなところに、『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメがやってきた。高1の秋のことだ。ドラゴンマガジン8月号に予告記事が載っていて、「あのガイナックスがまたまたやってくれました!」という文言と紫色ロボットと黒髪ボブカットのかわいらしい女の子(綾波レイの初期稿)に興味を惹かれ、見ることにした。第壱話放映当日は数学の補習に引っかかり、自転車を飛ばして帰宅してテレビをつけると少年とお姉さんが横転した車を元に戻すシーンだったのだが、それからはきっちり毎週見た。アニメージュなんかの煽りが上手かったこともあって、これはどうやら毎週見るべきだ、というのはすぐにわかった。綾波レイのデザインが黒髪ボブではなく青髪シャギーだったのはちょっと残念だったけど。

TRPG仲間はエヴァにはわりと冷淡で「人間ドラマぁ? ガンダムにかなうわけねえだろ」などと言っていたが、むしろそれ以外のちょっとオタクがかった連中が次々と転び、年が明けるころにはエヴァ派が徒党を組み、『残酷な天使のテーゼ』を歌いながら校内を闊歩していた。ちょいオタ連中の中に、アホみたいにギターの上手いロッカーの親友がいたが、X JAPANBlankey Jet Cityを弾きこなしつつハイデガーやらニーチェやらを読みこなしていたこの男が、96年に入ったころからエヴァを語りだし、ぼくと並んでエヴァ派の筆頭となったのである。というか、ぼくより裕福だったのでしっかりビデオソフトを購入し、ライナーノーツをコピーして学校に持参していたので、ぼくよりも地位は高かったかもしれない(ファミコンソフトをたくさん持っているやつほど偉いというノリだ)。ちなみにライナーノーツ声優に関する濃い記事を書いていた小川びい氏、大学に入った直後のアニメ新歓コンパでリアルに遭遇し、今では同業者になってしまったのだが、それはさておき。


エヴァの放映が終わったころには、ぼくはすっかり、よく訓練されたオタクになっていた。ライナーノーツやフィルムブックの書き方が上手くて、ここを担当したスタッフの○○氏は××という作品で……というふうに、読者の興味を広げやすい内容になっていたのだ(この点では実に画期的だった)。そこに引っかかるか否かは個々人の資質によるが、ぼくはものの見事に釣られ、久留米市内に増えつつあったTSUTAYAなどのレンタルビデオ店を最大限に利用して温故知新しはじめた。もちろん『天空のエスカフローネ』やら『機動戦艦ナデシコ』やら、コンテンポラリーアニメも見ながら録画保存していた。ナデシコのころにはもうスタッフに注目する見方になっていて、あかほりさとる脚本はまーたこんなノリかァだの、ルリ回は傑作ばかりなのに江上夏樹作監は趣味に合わねんだよなァだの、毎週ぶつくさと呟いていた。もちろん当時、インターネットなど周囲には影も形もなく、例のロッカーの親友くらいしか開陳する相手がいなかった。

そんなふうにアニメオタク道を邁進していたが、そのころ何になりたかったかというと、実は小説家だったのである。やっぱり根っからの活字人間だったということか、エヴァの最終回サブタイトル予想がきっかけでSFに触れてからは、小説の趣味が急速にSF純文学に移行。さらにエヴァの衒学趣味や、件のロッカーが貸してくれた『御先祖様万々歳!』の録音テープの影響で哲学だの心理学だのに目覚め、それ系の新書にも手を出しはじめた。相変わらずライトノベルも読みまくっていたけれど、筒井康隆だの講談社現代新書だのも本棚に並びだして、蔵書はハイペースで増えた。そして、そういうものを書くひとになりたいと漠然と思っていた。

当時は学校でアニメ談義をして絵を描き、放課後はゲーセンTRPG仲間が格ゲーに興じるのを数時間観戦し、彼らと別れてからはさらに久留米市内の本屋やTSUTAYAを放浪し、19時台や20時過ぎにようやく帰宅してからも、アニメを見たり本を読んだり小説を書いたり絵を描いたりしているうちに0時を回り、そのまま就寝――というライフスタイルだった。相変わらず自宅学習などまるでしていなかったわけだが、そこは進学校のこと、高2(1996年)の夏ごろには高校の学習課程を終え、そろそろ志望校を決めろやガキどもという雰囲気になっていた。

そのころ、京大阪大へ行きたいという志望を母親にあっさり否定されていた。そんなところへ行くのならば一切援助しない、地元の九大か、祖母が住んでいる首都圏の国立大、可能ならば東大にしろ、金はないので私大は滑り止めとしても受けさせないし行かせない、現役で合格しなければ即就職だ。そんな宣告を受け、かなり不貞腐れていた。


不貞腐れたタイミングで河合塾主催の東大チュートリアルのお知らせがやってきて、渋々それに出かけた。要するに現役東大生の河合塾OB東大の勧誘を行なうのである。ナンボのもんじゃいと福岡市薬院にある河合塾へ乗り込んだが、なかなかどうして、これが面白かった。各科類・学部の説明が興味を惹いたのもさることながら、駒場キャンパスの専門用語を解説したくだりが実に楽しげだったのだ。「駒猫=駒場キャンパスに生息する猫。文二生と同類」だとか「ウィンブルドン=成績表の評価をAで揃えること。『全英(全A)オープン』に由来」だとか「撃墜王=学生から単位をもぎ取ることを至上の喜びとする教官」だとか。なんだか楽しそうなところだ――グループSNEを楽しそうだと思ったときと同じ気持ちになった。

その直後、オタク仲間の友人たちと5人で、久留米から鈍行で上京するという企画があった。青春18切符を駆使した、まさに若気の至りである。1日半かけて東京入りしたぼく、その足でTRCで行われている同人誌即売会に乗り込んだのを皮切りに、それから東大駒場キャンパスだの本郷キャンパスだの、永田町だの神保町だのとうろつきまわった。宿泊は新橋神田カプセルホテルを転々と。4泊5日の、10代の最も尊い記憶のひとつだが、このとき実際に駒場キャンパスを訪れたのが、その後のぼくの人生を決定づけた。当時は駒場寮が健在で、荒れ果てた広場に駒猫がいた。夏の陽射しの中、まだ子猫のそいつを写ルンですに焼きつけながら、傍にいた女子学生と会話を交わした。夏休みでも大学には学生がいるんだなあ、と思った。

旅行中で浮かれていたこともあり、ぼくは駒場キャンパスを含め、東京そのものの雰囲気にすっかり気をよくした。なるほど、ここに住んで通うのも楽しそうだ、と。少なくとも福岡にとどまる気はさらさらなかった以上、選択肢はひとつしかなかった。2学期が始まり、ぼくは東京大学文科三類を第一志望として模試を受けた。もちろん、何ひとつ備えずに。

たまに「実力テストを受けるのならば一切対策をせずに受けねば、おれの実力は測れない!」と称してノーガードで模試を受け、見事に玉砕するバカがいる。実力テストどころか校内テストでさえろくに対策しないぼくだったが、どういうわけかこの進研模試でA判定が出た(Bだったかもしれない)。ぼくを含めて誰もが首を傾げたが、考えてみたら昔から模試になると普段とは打って変わって好成績を記録する特異体質だったのだ。それは真の実力ってやつだと言われて、なるほどそうかもしれないと思い、じゃあ受かるんじゃないのと楽観視することにした。その模試の全国3位が「フルハタ ニンザブロウ」だったのは余談。


そのころ、ぼくの学年のオタクサブカル系勢力はエヴァ派を中心に20名近くにのぼっていた。高一の終わりからそのメンツで文芸同人誌を作りはじめた。英語の教材に出てくる"eternal beef"(連日の牛肉料理という意味)を直訳した『万年ビーフ』というタイトルで、顧問を迎えるでもなく、とにかくテーマを決めて何かしら書こうというプリミティヴな衝動だけで動いていた。ぼくも小説だの随筆だの評論だの、ずいぶんいろいろ書いた。文章のスタイルはたぶん、根本的には当時と変わっていない。昔から、読むひとが読めば一発でぼくの文章とわかるらしい。

どいつもこいつも、クリエイティヴな気分をもてあましていた。ぼくと哲学ロッカーの親友は夜毎、数時間にもわたって電話していた(もちろん家電である。ケータイなどまだ誰も持っていなかった)。何を話していたのやら、とにかく何か形にして表現しないと気がすまなかったように思う。

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』1巻にこんなくだりがある。坂本竜馬桂小五郎がはじめて会ったときの話だ。

坂本さん

 と、桂小五郎はいきなり竜馬の手をにぎった。小五郎は、十分に若いのだ。ふつふつとこみあげてくるものに堪えかねて、手がふるえた。

「やろう」


 相州の山中の百姓家で竜馬と小五郎が手をにぎりあって、

「やろう」

 と誓いあったのは、別に何をやろうという目的があったわけではない。何かやるには時勢がまだ熟していなかったし、それに二人はまだあまりにも若すぎた。

少なくともぼくはそんな気分だった。いつも斜に構えて衒学的な言い回しばかりしていた哲学ロッカーもそうだったに違いない。ぼくたちのやっているわけのわからん活動などどこ吹く風、と真面目に勉強していた連中だって、たぶんは。これくらいの時分には大なり小なり誰だってそうだと信じたい。この気分に名前をつけ、目的を与えて形を整えていけるか否かが、その後の社会での成否を分けるのかもしれない。……目鼻口を与えられた混沌は7日目に死んだけれど。


3

1997年、高三になった。

その直前の春休みに『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 DEATH & REBIRTH シト新生』、いわゆる春エヴァが公開された。ぼくと哲学ロッカー含め、エヴァ派の5人くらいで前夜から並んだが、最終的には15人くらいの同級生がやってきて、みんなで初日に数回見た。日本中がエヴァに狂っているように見えた。すべてがおかしかった。インターネットのおかげで、一昨年から昨年にかけてのハルヒブームは社会現象のように錯覚されるかもしれないけれど、中高生なんかはまだまだインターネットとは縁のない暮らしをしていた時代に、既成マスメディアを通じて本当に社会現象になったエヴァとは比較にならないと、三十路も近いぼくは思う。

96年夏の段階で『デラべっぴん』がいきなり極太明朝体バリバリのコアなエヴァ特集を組んだのを皮切りに、『Quick Japan』の背表紙庵野秀明ウルトラマンのポーズを決め、『Studio Voice』の表紙にシンジ君が載って、そういうのの中ではトサカ頭のパンクや野球帽かぶったテクノがなぜかエヴァを語っていた。デリダ研究者東浩紀とかいう『うる星やつらファンクラブ上がりの哲学者まで出てきて、『ユリイカ』やらなんやらでアニメの話をしていた(東氏も今では、コミケで挨拶して長話するような間柄だ)。ヘンなところでは、当時ネクラな中高生のアイドルは村崎百郎なる電波系鬼畜ライターだったが、彼が日課にしているゴミ漁りでエヴァを録画したビデオを拾ったばかりに、ロフトプラスワンのイヴェントで突如「シンジ君の魂の救済を云々」と語りだして客がドン引きした、なんてエピソードも聞いた。春エヴァ公開前夜にはNHKニュースで報じられたりもした。

なんだかすごいことが起こっている、と福岡の片田舎でぼくは手に汗握っていた。手に汗握って、4月の文化祭ではエヴァ上映会を決行した。エヴァキャラを描き起こした大量のポスターを校内に貼って回りながら、これではダメだ、と思っていた。東京に行かなければ。行って何をするのかまだわからないけれど、東京に行かなければ。だから東大に受からなければ。

手段を目的化してしまった典型例だ。


けれど、あと1年くらいは高校生活を続けなければならなかったし、それは高校生活というより受験生活だった。そのコースから外れるという発想は結局なかったあたり、自分に自信のない学歴厨と言われてもやむなしではある。あるけれど、あの面白そうな東大に行きたかったのも事実なのだから仕方がない。ちょうどそのころの『ああっ女神さまっ』で、「面白そうじゃないですか」という螢一の一言で千尋先輩が独立を決意するというエピソードがあったが(うろおぼえ)、そんな理由で大学行ったって構わないじゃないか、と当時から思っていた。あいっかわらず勉強などかけらもしておらず、少しはマシになった成績も基本的に半分より下だったけれど。

それでも、形だけでも受験勉強っぽいことはやろうと思ったぼく、和田秀樹氏の『新・受験技法』を買ってきて毎日読みふけった。当時、東大前期試験におけるセンター試験は今より1教科少ない800点満点で、それを110点換算、二次試験の440点と合計した550点満点で入試を行っていた。和田氏は言う、センターなんぞ600点台後半あれば十分、何なら8割の640点でも構わない。二次試験に到っては理三以外、半分取れていれば合格する、と。文三の場合220くらいあればOKということになっていた。そして、受験勉強のタイムスケジュールと各教科ごとの必須参考書・問題集を挙げていた。

早速参考書と問題集を取り揃えたが、アホなことにそれらを所有した時点で満足してしまい、机の上の本棚に陳列した背表紙の列を眺めて悦に入るばかりだった。そして時々『新・受験技法』を読んでは早々に受かった気になり、前年の東京旅行の際に購入したガイドブックの地図を見つめては、いずれ生活するかもしれない東京のどこかの町並みに思いを馳せていた。『ほしのこえ』のモノローグにある、「夕立のアスファルトの匂い」「夜中のコンビニの安心する感じ」「遠くのトラックの音」のような抽象的な憧憬を、郊外ならぬ東京に抱いていたのである。あああ田舎者。ってか夢想する前に勉強しろ。


もちろんするわけがなく、ぼくはアニメと読書と絵描きと執筆に現を抜かしながら実力で模試を受け続けた。駿台河合塾代ゼミ、各2回計6回。ちなみにこれ難易度の順である。

結果から言うと、最後の1回以外一貫してA判定が出た。校内の成績は時々2ケタ台の順位が取れるもののやっぱり3ケタ台ばかりという状況でナゼこの判定??? と、ぼくも含めて誰もが理解に苦しみ、クラスメイトに責め立てられることさえあった。自宅での予習復習こそまったくしないものの、授業中だけはわりと熱心にノートを取っていたので、なんだかんだで本質的な内容は頭に入っていたのだろう、おそらく。とはいえ数学ミジンコ並で、国語・日本史世界史・英語という文系科目で点を稼いでいる状況だった。数学教師は「きみは数学0点でも受かるから大丈夫ですよ」と言った。彼が体よく指導を放棄したのだということに、最近になって気づいたのだけど、ぼくはこの台詞を真に受けた。これだけA判定出ているならこのままやっていれば受かるだろうと思い、ライフスタイルをほとんど変えなかった。放課後はゲーセンへ行き、久留米中の本屋をうろついたし、帰宅すればアニメを見て本を読んで絵を描いて小説を書いた。一日3時間以上の自宅学習というのは、年が明けるまでまったくしなかったと思う。

例外として、ドイツ語はずいぶん勉強した。もともと語学に興味があり、中三のころふと気が向いたのでNHKラジオのドイツ語講座を聴き始めた。そのまま高一でドイツ語検定4級、高二で3級をとった。秋ごろ、検定試験の直前期にはみっちりと問題集をやり、学校でも現代文や英語の授業中にドイツ語のテキストを開いていた。ぼくのやることだから、と先生方に見逃していただいたのはありがたい。たとえば麻布のような、首都圏進学校のフリーダムさには遠く及ばないが、私立の進学校らしいおおらかな校風だった。頭髪規定が「清潔に保て」のみだったのをいいことに、ぼくも哲学ロッカーも髪を伸ばしていたし(もちろんぼくは完全に冴えないオタクの外見だった)、別のギタリストの同級生は腰までの茶髪をなびかせていた。まるでオタクではないそいつをはじめ、一般人の同級生ともけっこう話せたのは、ぼくがオタクではなく「ヘンなやつ」フォルダに入っていたからだろう。奇矯さにはそういうメリットもある。


夏休みに『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 THE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に』、通称夏エヴァが公開され、日本中を狂わせたエヴァにケリがついた(と思ったんだけどなああああ)。2つの試写会福岡で催されたが、ぼくは数十枚のハガキを送って玉砕した友人たちを尻目に、両方とも1枚ずつ送って当選してしまい、哲学ロッカーと一緒に見に行った。見終わって、庵野秀明にレイプされたような気分で、ほとんど叫ぶように語り合いながら夜の中洲を歩いて帰ったのを今でも覚えている。その後公開初日にも普通に並び、久留米のしょぼくれた映画館も含めて3回くらい金を払って見た。

あのラストに呆れたのか、エヴァ派の多くは潮が引くように興味を失い、現実に還ろうとばかりに受験勉強に戻っていったが、ぼくはもう人格レベルで捻じ曲げられてしまっていた。そのころ妙に情緒不安定で、やがて20代を棒に振ることになるメンヘルの兆候を示していたのだが、揺らぐ気持ちの拠りどころをまるっきりエヴァにおいていたように思う。皆さん、第三世代オタクエヴァ厨は実在するのだ――おれがエヴァ厨だ。

ぼくは当時、岡田斗司夫の『オタク学入門』に感銘を受け、自分も彼らのようになろうと自覚的に振舞っていたけれど(おかげでこのありさまだ)、岡田氏や唐沢俊一氏が年少の伊藤剛id:goito-mineralをコケにしまくるのだけは我慢がならなかった。「シンジ君は僕だ」という伊藤氏の発言がずいぶん揶揄されていたが、正直言ってぼくも同じ思いだったのだ。その後伊藤氏には2003年のオフ会で対面し、『網状言論F改』に東浩紀氏と並んでサインをいただくことになるが、高校時代に知ったオタク言論人にお会いしてきた中で最も感銘を受けたのは、実は彼なのかもしれない。


すごい作品やクリエイターに出会ったとき、ひとは二種類の反応をする。

  • これはすごい、自分は凡人だからこんなものは作れないしこんなひとにはなれないと諦めをつける
  • これはすごい、自分もこんなものを作りたいしこんなふうになりたい、否、超えたいと発奮する

ぼくはほとんど常に後者である。エヴァに参ったあと浮かんできたのは、自分もアニメを作ろうという考えだった。GAINAXへ行って、庵野秀明の後を継ぐ。これはエヴァよりもむしろ、レンタルして何度も見た『王立宇宙軍 オネアミスの翼』に奮い立たせられたほうが大きい。あの映画の画面じゅう、動画の一枚一枚、脚本の一言一句に横溢する「クリエイティヴな気分」に当てられてしまったのだ。ああいうものを見てやる気を出さないオタクはクズだと、今でも臆面なく言える。

97年秋、ぼくは年明けから滞っていた『万年ビーフ』の最終号を企画。受験勉強の邪魔スンナ! と邪険にする友人たちや教師陣から原稿をかき集め、二分冊100ページ超の『THE END OF ETERNAL BEEF』を出した。思わず草を生やしたくなるようなタイトルだが、当時のやる気の発露だったのはたしかだ。その活動に一区切りつけたので受験勉強に集中しよう――とはまったくならず、やっぱり週5本はアニメを見ていたし、ドストエフスキーやら司馬遼太郎やらクソ長い小説ばかり読み漁っていたのだけど。


4

しかし、気がつけばセンター試験が間近に迫っていた。数学はさんざやらされたおかげで、センターレベルならどうにかごまかせる程度の成績になっていたが、理科がまるっきり手付かずだった。文系はたいてい生物か地学を選択履修することになっていて、附設は珍しく地学に力を入れていたのでぼくも含めて半分くらい地学をやっていたが、マーク模試でも50点台しかとれず、いい加減対策を練らなければならなかった。高三になってから数学と英語のみ、河合塾の日曜講習を受けに行っていたが、年明けから地学の講習も毎日受けることにした。意図的に行った受験勉強らしい受験勉強はおそらくこれだけだ。2週間かけて、地学を頭から勉強しなおした。

で、河合塾センター試験を受けた。2日目はちょうど庵野秀明の実写映画『ラブ&ポップ』の公開日で、試験終了後、数学II・Bの理不尽な難易度で討ち死にした同級生たちが咆哮を上げているのを尻目に、ぼくと哲学ロッカーともうひとりで中洲の映画館まで見に行った。こんな受験などさっさと終わらせて、一刻も早く東京へ行かねば、という思いは募るばかりだった。何のためにわざわざ東大を受けるのかなんてのはもはやどうでもよくなっていた。実は年末の駿台東大模試でC判定が出てしまっていたのだけれど、それまで5回A判定出てるんだから大丈夫だろうと高をくくっていた。

さて、和田秀樹氏の教えに従ってセンターは640点取れればいいやと思っていたが、結果はたしか681点だった。可もなく不可もなく、ただし2週間勉強した地学は100点。我ながら驚いたし、生物で苦戦した級友には切れられた。ぼくのやることなすこと本当に無駄が多いのだが、このときばかりは要領がよかったのかもしれない。


それからの1ヶ月をどう過ごしたのかはあまり覚えていない。アニメを見続けて本も読み続けたことは確かだ。何かを我慢するという回路が、ぼくの脳内にはまったく形成されていない。

とまれ。1998年2月下旬、雪の積もる東京に1年半ぶりにやってきたぼくは同級生たちと池尻大橋のホテルに宿を取り、二次試験を受けた。いわゆるエヴァ派やオタク仲間連中の大半は九州大学や地元私大の受験組で(あの哲学ロッカーもそうだ)、もともと学業優秀な連中に混じってひとり場違いなぼくがいるという感じだったが、この世に生を受けて以来常に場違いなので今更気にもならなかった。そうして初日……出来はひどく悪かった。数学は15分眺め、ちょろちょろと書き込んだだけで放棄し、あとは見直しもせずに問題用紙の裏に絵を描いてすごしたのだけど、国語の手ごたえがよくなかった。国・数合わせて70点程度しか取れていまい(配点は国語・英語120、数学80、地歴60×2科目)、明日140ないし150は取らないとおれは終わりだと、このときはじめて不安を覚えた。受験において感じた、最初で最後の不安だった。

その夜、部屋のテレビをつけると深夜アニメを放映していた。『吸血姫美夕』と、再放送の『機動戦士ガンダムZZ』最終話1話前だった。面白かった。面白かったあまり、不安があっさり吹っ飛んで逆に元気が出た。96年ごろから深夜アニメはぽつぽつと現われていたが、まだまだテレビ東京1局か、せいぜいテレビ大阪も含めた2局でしか放映しておらず、地方民はアニメ雑誌に載る『EAT-MAN』や『剣風伝奇ベルセルク』の記事を指をくわえて見ているしかなかったのだ。それらを見るためにも東大に受かって東京へ行かねば、と思っていたぼく、深夜アニメの実物をはじめて目にして発奮したのである。

これだ。これを見なければならない。4月から新番組も始まるし。おれには志あるアニメを見る義務があるし、よいアニメはおれのような志あるオタクに見られるべきだ。ならば、毎年3000人も受かる大学におれひとりが受かる程度のこと、明白なる天命ではないか。

で、試験二日目。英語が異常なほど簡単だった。どう考えても110点以上取れた自信があったが、おそらく100点越えが続出しただろう。日本史世界史においても好調で、合わせて100点は取れたはずだ。今ならやる夫のAAを貼りつけたくなるほどの大勝利であった。ちょうどそのころ行われていた長野オリンピックになぞらえて、「初日は原田雅彦の1回目失敗ジャンプ、二日目は2回目のK点越え大ジャンプだ」と当時豪語して回っていた。ヤなやつだな。

3月初旬、卒業式のあと天神へ打ち上げに出かけて深夜1時ごろ帰宅し、泊めた友人2人ともども母親に殺されかける(翌日、お詫びの電話を入れてきた友人の母親に『ウチが母子家庭だからと馬鹿にしているのか!』と泣きながら怒鳴っていた。こういう親を持つと苦労する)というエピソードがあったものの、9日に東京入りしたぼく、翌日本郷キャンパスの掲示板で合格を確認した。二次試験の手ごたえから合格をほぼ確信していたのでまさに確認作業であり、「フム」と一言呟いて写ルンですで撮影していると、不審に思ったらしい胴上げ隊の人々に「受かったんですか?」と訊かれ、イエスと答えるとたちまち囲まれて空中に放り投げられ、ああ本当に胴上げされるんだなあと至極冷静な感想を抱いた――という話をたまに知己にすると、その反応が実にお前らしいと言われる。そういうものか。


3月下旬から、川崎の祖母宅を拠点に家捜しだの手続きだのを行なった。

手続きの時点でクラス分けが行なわれ、4月に入ると同じクラスの2年生によって歓迎コンパが催された。オリエンテーション合宿の前に行なわれるという意味でプレオリと呼ばれるこの飲み会、たまたまぼくの真向かいに座ったメガネの優男がオタク寄りな文芸サークル・新月お茶の会の月無朔夜氏で、彼とすっかり意気投合したぼくはコンパ後連れ立って、お茶会の例会が行なわれている下北沢の喫茶店へ向かった。隙あらば己をアピールしようと肌身離さず持ち歩いていた『万年ビーフ』掲載原稿や小説の設定資料を自慢げに開陳し、「きみはまさにこのサークル向きだ!」と、やたら貫禄ありそうなメガネのひと(7年も駒場にいて卒業したばかりの大御所だった)に太鼓判を押された――のが、10年後の今でも毎週のごとく例会に赴くお茶会との付き合いの端緒である。オリ合宿では月無氏ともども早くも勧誘側に回り、「ねえきみ小説とか興味ある?」「文芸サークル入らない?」と地味めの女の子を囲んだ挙句、ルビー文庫を愛読する腐女子だと判明して玉砕したのも、今は昔。今じゃあコンパ長がリア充オタクだったり、クラスの取りまとめ役が腐女子だったりするらしいからなあ。

数日後、サークルオリエンテーションが2日にわたって行なわれた。本命はあくまでアニメ研だったぼく、本来理系の日である初日に駒場キャンパスの1号館に乗り込むや、まっすぐアニメ研に突撃。こう宣言した。

「『オネアミスの翼』のような自主制作アニメが作りたいです! 一緒にやりましょう!」

庵野秀明の後を継ぐ野望は本気だったのである。アニメ研の人々、目を白黒させていた。一日中スペースに居座ったぼく、翌日もまたやってきて口角泡を飛ばしたため、なんだかとんでもないのが来た、と先輩方の間では話題になったらしい。先日アップしたそれは上澄みだ。コメント欄には、当時応対した先輩のひとりの感想が残されている。

アリムラさんがサークルオリに来たときのことを思い出しますねぇ(笑)<DAICONとかオネアミスとか


5

これ以後のことは、すでにいくつかの記事で触れてきたことなので駆け足で記す。

周囲にひどく痛がられつつも、1998年のぼくはアニメ鑑賞とアニメ制作に没頭した。たとえば佐藤竜雄監督などを輩出した早稲田大学アニメ同好会とは違い、東大アニメ研はアニメを作りたいやつなどほとんどいない「見る専」のサークルだったのだが、そんな空気など読めるはずもなく、おれが監督をやるからお前ら原画描け動画描けとわめいていた。先輩までふんづかまえて。結果、1998年から1999年にかけて2作半を自ら監督し、その後も2001年冬ごろまで5作くらいに、編集協力・ED作画・背景といったクレジットでかかわった。そんなことをやっていたものだから、サークル内では「カントク」というあだ名がついてしまった。最近そういう名前のイラストレーターを見かけるようになって、その名前はおれが先につけられたんだよ! と内心思うことがあるが、意味はない。

あれあれ? GAINAXに行くとか大口叩いていたわりにはずいぶんしょぼくれた結果だね?

返す言葉もない。見合う結果を出してはじめて、誇大な夢だの目標だのは語るに値する。オネアミス作ろうと言いながら乗り込んできて、作ったものが色もついていない5分程度の自主制作アニメ数本では失笑にも値しない。その後一枚絵に興味が移ってCGイラストと同人活動に打ち込み、そっちで一度はプロデビューした……というのはやはり、言い訳の一種ではあろう。2003年に、小川びい氏に誘われたアニメスタイルのイヴェントでGAINAX今石洋之氏(『天元突破グレンラガン』監督)にお会いする機会を得たのだが、およそ物怖じというものをしないぼくがこのときばかりは恐縮した。というより、すでにアニメ制作から離れていたことが後ろめたかったのである。

引け目だ。イラストの挫折と7年に及ぶメンヘル生活を経て、今でこそアニメ雑誌で文章を書き、業界の端っこでほんのわずかながらお力添えさせていただいているつもりではあるけれど、結局作り手に回れてねえじゃんという引け目はやっぱりある。自分にはできない、そんな能力がないからすっぱり諦めたのだとは思っていない。思っていないけれど、それなら何か作るしかない。作って世に問わない以上、ないものと同じだ。


id:fromdusktildawnは思想的に宿敵だが、ひとつだけ心の底から共感できる記事がある。「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法ってやつだ。あんな感じに、ぼくも気の赴くままにいろいろなことをやってきた。金にはならなかったけれどアニメを作って多少の評価は得たし、はした金ではあったけれどイラストとマンガで収入を得た。で、いまは文章を書いてお金をもらっている。ごくごくごく狭い範囲ではこのブログ、評価もされているようだ。たまに絵も描くし、たとえばアイマスキャラを使ったアニメの構想は常にある。

まあ列挙したところで、成功の度合いも何もかも、fromdusktildawnには較ぶべくもないけれど。というか社会的成功度で計るなら、ダン君にもdropdb姉さんにもshi3z氏にも、この話題に言及したあらゆるひとにもぼくは劣る。ナンボ言いつくろっても現状ただのプレカリアートだし。学歴が意味を成さないことの、悪い意味での典型例だ。

それでも――こんなやつでも生かしておいてほしい、と思う。社会の皆様。生産性の低い、どうしようもなく無駄な、歯牙にもかけられない人間だけど、読んで面白い文章や見て萌える絵くらいは現状でもわりと生み出せるのです。オタクがらみなら少しはお役に立てる、実用性のある記事が書ける自信はあります。あいっかわらず、将来クリエイティヴな方向でビッグになる妄想だけは持っています。もしかしたら実現するかもしれません。たぶん素質はあると思うから。

だから、クソみたいな自意識自己顕示欲と承認欲求に取りつかれた負け組のぼくみたいのが、こうしてはてな村の片隅で過去のデタラメな人生を綴っていても、勝ち組ギークの陰にこういうのがひとりくらいいてもいいか、くらいに思っていただけると嬉しいのです。


6

ここ数年、高校の後輩がサークルに入ってくることがしばしばある。アニメ研の9年後輩にもいる。彼の担任はかつてのぼくの担任だった。初対面のとき、この後輩にぼくの昔話をしたところ、「有村悠」という名を担任から聞いたことがあると興奮気味に語ってくれた。お前みたいなやつが昔東大に行った、と。

複数の恩師の口の端に今でもぼくの話題が上るらしい。別の恩師は、「アニメをやりに東大に行ったひとがいるんですよ」と授業で語ったそうだ。

少なくとも嘘ではない。ぼくはアニメをやりに東大へ行って、東大アニメをやった。

だからいま、ここにいる。


やったアニメの例*1

D


教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

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新ロードス島戦記〈6〉終末の邪教〈下〉 (角川スニーカー文庫)

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竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)

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ああっ女神さまっ 36 (36) (アフタヌーンKC)

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  • 出版社/メーカー: 講談社
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新・受験技法 2009年度版―東大合格の極意 (2009)

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網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

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王立宇宙軍 オネアミスの翼(Blu-ray Disc)

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*1:1999年3月の、能登半島沖に出現し、巡視船や哨戒機の追跡を振り切って逃げていった北朝鮮工作船をネタにした作品。6人くらいに『妨害を乗り越えて逃げる船』をテーマに好きに描かせて、スキャン後Adobe Premiereで適当に編集した。ぼくが担当したのは、つなぎの疾走する工作船2カットと北の偉いひと、地図、あと最後の∀ガンダム出現→工作船と一騎打ち→爆発のパート。個人情報保護の観点からぼく以外のスタッフの名前にモザイク処理を施したが、おかげで異常に自己顕示欲の強い動画になってしまった……。

匿名希望匿名希望 2008/05/28 10:41 「努力はしたが駄目だった」という「結果」を評価しても良い

という文章が最近読んだ小説の中にありました。
好きなことに全力を出したのは来たことはすばらしいと思います。
それに加え「東大に行った」「文章を書いている」といった結果を残しているなら人間として既に十分だと思います。

好きなことにすら全力を出していない人間の方が多いのですから。

社畜社畜 2008/05/28 13:17 アニメ見ました。
技術的な面ではもちろん見るべきところはないんですけど
そういったものを超越したもっとプリミティヴな
「衝動」というのでしょうか、言葉にはできないけど
本質的な部分に熱いものを感じて、底抜けの明るさ
に少し涙腺が緩みました。
で、こういう作品を作れることや、多方面に興味を
持ってそれなりの物を作ることができるというのは
やはり才能なのだと思いました。
社会的には負け組でも、こんな才能をもった
有村さんが僕は羨ましいです。本当に。

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