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研幾堂の日記

Quemadmodum desiderat cervus
ad fontes aquarum,
ita desiderat anima mea ad te, "Veritas".

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2005-11-14 Of things some are in our power, and others are not.

 何か考え出すと、詰まらない気持ちにすぐに満たされてしまい、少し書いては、放り出すことを繰り返している。世の中がこんなに堕落した破滅的なものになると、自分の劣弱な条件と環境を意識すると、戦慄的な恐怖が押し寄せようとしてくる気配を感じてしまう。そんなものを怖がってみても、と奮い起こそうとしてみても、次から次へと見せられるのは、義や理に則ってあるよりは、利と欲にまかせての行動ばかりで、遅れをとれば、約束されていたものでさえも、他人に奪い去られていく勢いであり、奮い起こしのつもりで、おかしいでしょう、と言ってみても、あちらのあまりのあけすけさに、こちらの言葉は、ただやみくもに憤るところと変わらなくなってしまい、澄まし顔の奴らには、それは無知と無教養、つまるところは、負け犬だから、と言われてしまうことになる。それが、ますます、詰まらない。

 世間が面白く無くなると、思い出す言葉がある。関口存男が、昭和六年に完結した「独逸語大講座」全六巻の最終巻に、

「いつまでも初歩の辺でうろついてゐないで、はやく原書に沈没して、四五年後に顔を上げて下さい。世間が面白く無いときは勉強にかぎる。失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ。」

と監修者として記しているのを、ドイツ語の勉強の為にと、この本を手に入れた若いときから、何かにつけて思い出す。ああ、そうだ、勉強だ、勉強だ。つまらない世の中などを眺めていないで、四五年、いや、何年でも、本の中に潜み込んで、そこで得られるだけのものを得て、そこから学べるだけを学んで、そこで自己の精神をより堅牢にして、そうして、ひょいと顔を上げたら、今の時勢では、楽観出来ないけれども、それでも、もしかしたら、良い具合のものが現れているかもしれない。その時は、ちゃんと勉強して過ごしていたのであれば、何事か為すところもあるだろうし、そして、その時も面白く無ければ、また勉強に耽るだけだ、ということで、顔を埋めるのに、ちょうど良いものはないかと机の廻りや書棚を探してみれば、そのつもりで買い集めてきて、本にしても、待ちくたびれたよ、早く読めよ、と控えていた本が、身の回りに押し寄せている。

 本気になって、それらに付き合っていたら、何十年と沈潜しなければならないぐらいの数の本が、押しかぶさって、「本気かね、どうせ気まぐれな君だもの、しばらくすれば、外の賑やかなのに気を引かれて、ほうりだすのだろうよ。」とつぶやく。いやさ、まあ、そうでしょうけれど、今度はひとしお本気なんですよ、と取り繕って返事してみれば、「気まぐれなのは、側に居て、十分承知しているから、とにかく、読みたいと思うなら、しばしでも読みなさいよ。」と、まことにありがたい、やさしいご返事である。

 そんなご厚情に甘えて、あれやこれや読んでいるものの一つが、エピクテトスのエンケイリディオンである。岩波文庫では、「人生談義」上下巻の下巻に「提要」と訳されている小篇である。Pierre Hadot というフランス学者が、フランス語訳と解説を付けた小著を 2000 年に出したのを、買い求めてから、折々、読み進めてきたけれども、哲学というものに就いて教えてくれる、なかなかな良篇で、なんとか紹介を出来ないかと、心に思い描いてみては、私の実力では、やりきれないと尻込みしてきた。尻込みさせる実力のなさは、もうどうしようもないので、ぽつり、ぽつり、と手は悪いが、ここに置き並べていこうと思う。

 手順正しくすれば、その第一章から始めるのであろうけれど、それが、エピクテトスの哲学の根本原理を含んで記されたものであるから、自分の中で、それをよく咀嚼してから、などと意識していると、先の尻込みの気分が、むくむくと私を押し込めてしまう。となると、いつ紹介出来ることになることか、という次第であるから、手の悪いのは覚悟して、後回しにすることにした。幾つかの章を示した後で、その並びの具合が上手く運んで、中身を付けるにふさわしいときが来てくれるのを期待して、今は、第一章の、最初の一文だけを紹介して、その原理を示しておく。すなわち、それは、

「諸々の存在のうち或る物はわれわれの権内にあるが、或る物はわれわれの権内にない。」

というものである。この鹿野治助訳で「権内」とされているところが、随分と意味の深いところで、それを解き明かすのも、訳語として、それにふさわしいものを選ぶのも、簡単には、決められない。これに続く文を見れば、我々の自然本性の活動であるものが、「権内にあるもの」であり、(エビクテトスがそこで挙げる実例は、ギリシャ語では、hupolepsis, horme, oreksis, ekklisis であり、鹿野訳では、それぞれ、意見、意欲、欲望、忌避とされている。参考に、Hadot の訳で挙げれば、jugement de valeur, impulsion à agir, desir, aversion である。)他方、そうでないものが、「権内にないもの」である。(これも、挙げられている実例は、肉体、財産、評判、役職地位である。)

 参考に、二つの英語訳、Oldfather のものと、George Long のものとを附しておこう。

Some things are under our control, while others are not under control. [O]

Of things some are in our power, and others are not. [L]

 Hadot の仏訳も、(ブラウザによっては、アクセントを欠いた仏文になってしまうが、)ここに並べておくと、

Parmi les choses qui existent, les unes dépendent de nous, les autres ne dépendent pas de nous.

である。それぞれの訳で、日本語訳に「権内」と訳されるところに、工夫のあるのを見て頂きたい。そして、そこから、ギリシャ語で eph' hemin, ouk eph' hemin と簡素な表現の意味するところが、中身を付けて、現代語で言い表すのが難しい深さを有しているのを、受け止めて頂きたい。

 ところで、この「権内にある、権内にない」という区別を、自己に関係しているものどもに対して、ちゃんと付けられることが、(その解説をちゃんとしないでは、なんとも心もとなく感じるであろうが、)エピクテトスの哲学では、「第一の、何よりも大切なこと」であり、この区別ができるならば、幸福と心の平静が得られ、できないならば、不幸となるものであり、第二十一章まで、その区別に関する記述が続いていく。

 二十二章から二十四章で、その区別の付けられるあり方を獲得できることが、哲学者としてあることを意味することが確認され、その意味付けを踏まえて、ふたたび、二つの区別をきちんと定めてある人のあり方が、特に行動指針の原則となるものを示しながら、二十五章以下で述べられていく。五十章で、それらの規則の提示は、ひとまずの完結を見せ、

「五〇 およそ規定されたこれらのことは、もし踏み越えるならば、冒涜と思って、法律を守るように守るがいい。だが君について人が云うことは注意せぬがいい。というのはそれはもはや君の仕事ではないからだ。」

と結ばれる。さらに、その後へ三つの章が全篇の結びを見せ、五十一章は、哲学の営みへの美しい勧告の言葉であり、五十二章は、哲学の営みの正しいあり方を示し、最終の五十三章は、二つの詩と、プラトンからソクラテスの言葉を引用し、あたかも哲学への讃偈、親鸞教行信証に於ける正信偈の如き味わいのあるものである。

 今は、その最後の言葉だけを引用する。

「アニュトスもメレートスも私を殺すことが出来よう、だが私を傷つけることは出来ない。」

というものであり、これに就いて、Long の紹介する Simplicius の注を引くと、

Epictetus connects the end with the beginning, which reminds us of what was said in the beginning, that man who places the good and the evil among the things which are in our power, and not in externals, will neither be compelled by any man nor ever injured.

とある。これを読んでみると、私は、エピクテトスの哲学の流れを学び受けた、マルクス・アウレリウスが、内なる砦と呼んだものを思い起こされてならない。すなわち、それは、

「我々の指導理性が難攻不落になるのはどういうときかというと、それが自分自身に集中し、自己の欲せぬことはおこなわず満足している場合である。これはたとえその拒絶が理性的なものでないときでもそうであるが、まして或ることに関して理性をもって、よく見極めた上で判断する場合にはどんなであろう。それ故に、激情から解放されている精神というものは、一つの城砦である。一度そこへ非難すれば以後絶対に犯されることのないところで、人間にこれ以上安全堅固な場所はないのである。故にこれを発見しないものは無知であり、これを発見しておきながらそこへ避難しない者は不幸である。」(第八巻、四八)

に記されたものであり、哲学の営みを為し得ている人のあり方を言い表したものである。シンプリキウス並びにアウレリウスが述べる、自由であり、損なう能わざるものを有している人、これが、古代の哲学の理想であり、エピクテトスの哲学もまた、そのようなあり方を目指しているところのものである。(これはまた現代に於いてもまた、変わらず、その理想とするところである。)

 では、それが、冒頭の「権内にあるもの、権内にないもの」の区別に出発して、どのように示されていくのか、つまり、どんな態度と理解とが、様々な事柄に関して積み重ねられて、それによって、自由で犯されることなき存在へと人をもたらすのか、これら数多くの、しかも、なかなか私などには説明の難しいことどもを、これから、エンケイリディオンをあちらこちらに飛びながら、述べてみようというのが、今しばらく私の目標とするところである。

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