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・さぁ、30日だ。頑張れだめぽ。応援してないよ。
・「犬肉バーガー」韓国で外国人対象試食会」
日本では鯨肉の試食会をして、食文化問題も共同開催したらいいのに。
・今日はこれだけ。みずほの件だけ更新しておきたかったので。
・ヘッドライン用日記ファイルの方に日記をコピペする時に、タイトルの更新をよく忘れる。困ったことだ。
・25日(そして翌日)みずほの結果。
とりあえず、大本営発表「人為的ミス」でアホな投資家をごまかすことには成功したようですが、30日は乗り切れるのか?3行間の確執は如何に?これからも「だめぽ」からは目が離せません。
・「ポテトチップスに高濃度の発がん物質=スウェーデン研究◇ロイター」
で、一酸化二水素(DHMO)の規制はまだぁ?
・日本(の俺の部屋)にもぜひよろしく。3,000万くらいぱーっと。そしたら絶対にアルカイダに協力しませんから。
・さて、運命の1日その1の25日です。「みずほ」はまたも大失態を晒すのでしょうか?
ちなみに運命の1日その2は30日です。おたのしみに。
・shimotsuke.co.jpより「ゆとりと学力 学びからの逃走」
弱まる「学習意欲」
個性重視、価値観に変化
いつまでたっても、原稿用紙は白いままだ。
小山市内の小学校。四年生の国語の主題は「作文を書く」だった。児童数人が鉛筆を握りしめたまま、固まっている。
見かねた三十代の女性教師が助け舟を出す。
「サッカーをやったとき、どんな気持ちだった?」
「…楽しかった」
「じゃあ、『サッカーをやって楽しかった』って書けるよね」
女性教師の言うがまま、やっと升目が埋まった。「話さない、考えない、書けない。とにかく言葉が貧弱。コミュニケーション不足、読書不足が原因なのかな」。女性教師は首をかしげた。
子どもたちの「意欲」が弱まっている。
県央の小学校。休み時間だが、校庭で遊ばない。教師が理由をたずねると「疲れるから」。体験学習でも、自分から動くことはない。
■日本は学力上位
内容が三割削減される新学習指導要領の実施が決まると、一部の学者やマスコミから「学力低下」論が噴出した。一九七七年の学習指導要領の改定で、知識偏重の「詰め込み教育」から、教科内容を絞り込み個性を重視する「ゆとり路線」に転換。「ゆとり」が「学力低下」につながったという批判は強い。
しかし、国際的な調査では日本はトップクラス。学力が低下しているとは言い切れない。
県教委は毎年、学習状況調査を実施しているが、対象科目や学年にばらつきがある上、問題も異なり、単純比較できない。高校入試の平均点の推移も、公表しない方針で、県内で学力低下を証明するデータはない。
にもかかわらず、教育現場は「学ぶ力」の低下を危ぐする。
中学生で分数の足し算、引き算ができない。国語で「わ、た、し、は」と一文字ごとに読む。中学三年なのにアルファベットがおぼつかない…。
■家庭での学習減少
「家庭学習を自主的にやる量が減っている。与える宿題の量は変わらないのに」と県央の小学校女性教師。
例えば、漢字練習のドリル。昔なら、全員がこなした。今は量が多いと、やり残す子がいる。もちろん個人差はある。だが「根気強さみたいなものが落ちている」。女性教師は強く思う。
「ゆとりが重視され、『勉強しなくてもいい』という風潮が広がった」
教師らはそろって、環境の変化を指摘する。家に帰れば、ゲームやテレビ。部活動や塾、習い事もあって、毎日が忙しい。大学入試の受験科目も減った。「個性重視」が、「好きなことだけやればいい」という価値観を生んでしまった。
四月から導入された学習指導要領は「ゆとり路線」の総決算だ。大きな目玉は「総合的な学習の時間」。自ら学び、考える力の育成を掲げている。
これを読んでおかしく感じないだろうか?J8Cf$G「国際的な調査では日本はトップクラス。学力が低下しているとは言い切れない」
としつつも「教育現場は「学ぶ力」の低下を危ぐする」
と続くのだ。
この文脈を考えてから、この文章を最初から読んでみると、あまりに「教師」に偏った内容であることに気づく。だいたい、明確に客観的データを取ったOECD(という名前すら記事中には出てこない)のデータと主観に過ぎない教師の印象を同等に扱っていること自体がおかしい。
そしてこのおかしさの大根本はこの記事を作成するのに当たって、この記者(記名なし)は「小山市内の小学校の三十代女性教師」にしか話を聞いていない点である。結局のところ、この記事は記者の雑感程度の話でしかなく、ジャーナリストとしての意欲がまったく感じられない。まったくこれもゆとり教育の弊害であろうか。(笑)
ちなみに俺だったら、この取材だけでも、もう少し突っ込んだ記事を書くことができる。
まず「宿題をやってこなくなった」
という話から、塾など「教科を教えるプロ」が増えたことによって、学校の勉強の価値や先生の価値が相対的に低下したのではないのだろうかという点を指摘する。発展して、勉強というものが生活ではなく受験に直結してしまっている現状も指摘できる。
(これが下野の記者にかかると「「個性重視」が、「好きなことだけやればいい」という価値観を生んでしまった」
である)
あと、実際には「学力の低下」が見られないのにもかかわらず、教師のなかで学力低下が叫ばれているのはなぜかという点も興味深い。俺は単純に「ゆとり教育カリキュラムでは総合教育などの「教師が教師としての力を試される」点が多くなるために、教師が面倒くさがっている」と想像するのだが、どうだろうか。
とにかく、ゆとり教育の切り口はたくさんあるのだから、「学力」なるものの話だけではなく、もっとさまざまな点から問題を提起して欲しい。つーか、そういうまともな仕事をしてこなかったからこそ、突然メディア規制3法案に反対みたいなことをアピールしても、結構な数の人に「単に利益を守りたいだけだろ」などと言われてしまうわけで。
・ありがとう「コトノハのシズク」。
いやね、昨日さ「安倍晋三」とかいう売国畜生のおかげですごくムカついてたんだわ。それこそ「自爆テロこそ現代社会に人類が持つ唯一の希望だ」とか言わんばかりに。
でも「コトノハのシズク」の、
つまり、いかに戦争状態が馬鹿馬鹿しい笑劇か、そして当事者以外にとってはいかに意味の無いモノであるか、ってことをね。
というコメントを見た時に、すごく楽になった。それは「戦争状態は異常である」という原則を思い出したから。そしてこのカップルをバカにする連中は、間接的に戦争を賛美(「常態」として黙認)しているということに気づいたから。生誕教会という祝福された場所に旅人が自由に出入りできないなどという事が正しいはずがなかろう。
何をたじろいでいたんだ、俺は。
人類は平和の中で競争し、その中で勝者敗者は生まれるが、いつでも勝者が敗者に、敗者が勝者に変わりうる緊張感の中で発展していくのがBestに決まってるじゃないか。
戦争は「人の死」をもって、すべてをゼロサムゲーム的に換算してしまうから、すわわち社会の流動性を失わせるから、たとえ一時期に激しく揺れ動くとしても長期的には停滞を示すからこそ、罪なのだ。
平和であることと、停滞することは違うのだ。中東は戦争状態を示して停滞しているじゃないか。
話は戻って、今回のカップルの件を逆手に(?)とって、平和をうったえるような団体が、大人数で戦地に観光に行ったらどうだろうか?アロハシャツかなんかのどうにも緊張感のない格好で何百人もの人間が歩き回れば、戦争独特の緊張感なんか消えうせるかも知れない。
そう考えると「金を払って戦場を見に行く」とも揶揄されるピースボートは意外と核心をついた活動をしていたのかもしれない。まさか。(笑)
・プレゼントで殴られるってのも前代未聞だよな。ンムフフフフ。
・サイゾー5月号。M2対談「「新学習指導要領」から何が見える?」
宮崎の話に出てくる「OECDのPISA調査」を見ると、授業時間等の削減によって、日本の「学力」とやらが低下したとはまったく言えないですな。
ちなみに同じ「OECDの調査結果」などと言いつつ、それを明確なデータとして利用していないのが「教育"バカ"フォーラム」。
「学力の崩壊を食い止めるための、教育政策に関する緊急提言書」なるものの中で、
2002 年の新指導要領では、逆に学習内容をさらに3割削減するとしている。この決定をまず撤回しなければならない。OECDの調査結果でも明らかなように、日本の授業時間は先進諸国中で最低なのである。
などと取り上げ、決して学力そのもののデータを提示しないばかりか、時間の表記なのだから「最短」とすべきである語句を「最低」とするなどという次元の低い言葉の置き換えによって、さも日本の教育水準が低いものであるかのように曲解させようとしている。笑っちゃうね。
あと、宮台の言う「夏目漱石も東京帝大の学力低下を嘆いていた」という話は、今言われいる学力低下という言葉が「最近の若い者は」という言葉と同じ意味を持っていることを示唆しています。
最後に少し抜き出しておきます。
宮崎 実に簡単なロジックで、いろんなモノサシが認められれば劣敗者は少なくなるってだけのこと。どうしても彼らは「学力」とか「階層」とかといった高度経済成長型の一元的なモノサシ観から抜け出ることができないね。
激しく同意。