Excite エキサイト : 社会ニュース 「ごくせんは不良を讃えるな」 和田秀樹さんがコラムで異論
以下引用 日本テレビ系の人気ドラマ「ごくせん」の一部内容について、精神科医の和田秀樹さんが雑誌コラムで異論を述べ、ネットで議論になっている。不良少年や不勉強を正当化するな、というのが和田さんの主張だ。 「勉強をしている子の方が、不良よりはるかに安全」 「ごくせん」は、俳優の仲間由紀恵さん(28)扮する熱血高校教師「ヤンクミ」が、ワルの生徒たちに体当たりして更生させていく姿を描く。2002年、05年と大ヒットし、08年4月19日から第3シリーズが放送中だ。初回に関東地区で26.4%の高視聴率を出し、その後も安定した人気となっている。 このドラマに、和田秀樹さん(47)が噛み付いた。和田さんは、日経ビジネスアソシエ6月3日号のコラムで、ごくせんについて持論を展開。現代版「水戸黄門」と評されるのも分かる痛快なドラマだとしながらも、「看過できない内容があった」と述べている。それは、「秀才学校の生徒の方が不良より性格がねじ曲がっているように描かれている点だ」という。 そして、和田さんは、こう問題を指摘する。 「(秀才が)勉強のできない人間を、『覆面+鉄パイプ』で『世直し』と称して襲うという設定である。この手の『秀才=悪』『不良=心はきれい』という図式は、ある種の青春ドラマのステレオタイプのようになっている」 問題にする理由として、和田さんは、進学校生徒の犯罪発生率などのデータを示し、「勉強をしている子の方が、不良よりはるかに安全」であることを挙げる。そのうえで、「このような番組は勉強ができない人間の価値観を強化し、ますます格差を広げる結果になりかねない」と危惧し、番組作りを再考するよう求めている。 ごくせんは人気作だけに、和田さんの意見表明は早速、ネット上で話題になった。2ちゃんねるでもいくつかスレッドが立ち、「『ごくせん』は不良を助長する作品」「不良は圧倒的に悪い奴が多いだろ」と、和田さんに同調するような意見が多く寄せられている。 秀才にありがちな欠点指摘する声も 一方で、異論もある。「優等生がほんとうに優等生ならいいが、腐ったことをいったりやったりする奴も多い」「受験競争の過程で挫折した人間が、その後どうなるかについて、 和田の視点は全く欠落している」といった意見だ。 異論をまとめると、優等生だって天下り官僚や悪い弁護士になっている、勉強だけでは創造力がなくなる、お金持ちが進学に有利な社会が悪い、不良はむしろ正義に敏感だから反抗する、勉強できない子はフィクションの中では主役になれる、などがある。 では、和田さんの言う秀才と不良の対立図式は、実際に子どもたちの間で広がりつつあるのだろうか。 これについても、学校現場で見方が分かれた。 「ごく一部に限られる」としているのが、学校裏サイトを日常的にチェックしている全国webカウンセリング協議会理事長の安川雅史さん。「ごくせんは、最後は正義が勝つという設定です。しかし、秀才そのものが悪いとは言っていません。秀才でも悪いことをやっている子は、最後にやっつけられるというストーリーで終わっています。ですから、子どもたちも、重く受け止めないで、スカッとする番組として見ているのでは。裏サイトの書き込みで目立つわけでなく、影響を受けているのは、思い込みの激しい子だけだと思います」 一方、東京・多摩地区のある市立中学校校長は、「現代型のいじめ」だとして、頭がいい真面目な子がバッシングの対象になることが多いと明かす。テレビで金八先生がもてはやされた20年ほど前から言われている話だという。「中学時代は悪くてもいい、その後、立派に成長しているから、とメディアがドラマなどであおってきた影響でしょう。しかし、そんな子はごく一部で、実際は立ち直れない子がいっぱいいるんです。秀才や不良少年の一面だけを描かれると、子どもたちがそのメッセージを強く受け取ってしまいます」 和田さんは、こうした議論に対し、次のように説明している。 「子どもたちの間で、不良少年がもてはやされているとは存じあげていませんし、そこまでなっていないと思います。ですが、私が問題にしているのは、学力低下がみられる時代で、勉強できない子が『人間性がしっかりしていればいい』と勉強しないことを正当化してしまうことです。20~30年前なら社会的に意味のある番組だったかもしれませんが、時代によってテレビのあり方が変わらなければいけないということです。また、優等生に悪いやつがいるというのは、確率論の問題です。悪いやつもいればいいやつもいる。しかし、子どもに勉強させた方が、犯罪者の比率が低い、確率が高いですよ、ということです」 久しぶりに、ニュース記事から。 ドラマについての記事だ。 僕は、ドラマ、とくにテレビドラマはほとんど見ない。 ドラマ自体は見ないけど、ドラマの視聴率について喧々諤々するのは、興味がある。2chのスレッドなどでも、テレビドラマの視聴率に関するスレッドがあり、各ドラマの各回の視聴率の詳細が書き込まれており、その数字についての分析をネラーが得々として語っていたりする。その真剣な議論がとても面白くて時々ROMってるんだけど、それでもドラマ自体は見る気にならないな。 だから、この「ごくせん」というドラマも高視聴率だ、というのは知っているけれど、見たことが一度もないので内容はまったく知らない。 記事によると、精神科医がこのドラマを評して、不良を讃えるな、と注文をつけているそうな。 頭が悪い不良は、心が綺麗。頭が良い奴は汚い心を持っていて悪いことをする奴だ。簡単に言えば、そういう図式でこのドラマは成り立っているらしい。 僕の個人的な体験を振り返ると、たしかに、小学校、中学校のころは、そういう図式が共通感覚として生徒の中にあったように思う。勉強ができなくてやんちゃ坊主だけどスポーツはできる、そういう奴は、異性からも人気があって学校では勝ち組の存在になれた。勉強の(勉強だけ)できる奴は、がり勉と周りからは嘲笑されるようなそういう雰囲気があったと思う。もちろん中には、やんちゃな面も持ち、スポーツ万能、勉強もできる、いわゆる「神童」と呼ばれる少年もいたのだろうが、それは稀有な存在だったと思う。それに、同じ小学校中学校といっても名門の国立私立の学校はまた違った環境にあったのではないだろうか。僕が言ってるのは、普通の公立学校での話しだ。それにあくまで個人的な体験に基づく話だ。普遍性もないし一般化もできはしない。 ところがこの共通感覚は、いつからかガラっと一変する。やんちゃ坊主はタダの人になってしまう。俺は不良だ、だけど心は綺麗なんだ、と嘯いても嘲笑されたりしてしまう。逆に、がり勉と嘲笑されてた奴が、進学校なんかにいって、周りから認められたりして市民権を得たりしてしまう。そして、いつの間にやら、不良少年と頭の良い生徒は、対立することもなくなり、関わり合うことこともなくなり、それぞれの人生を歩むことになる。 この価値の転換(もっとぶっちゃけていえば、頭の悪い奴は心が綺麗で人間的にも上だともてはやされていたのが、突然梯子を外される如く評価されなくなる)というのは、いつを境に起きるのか。これも個人的な主観だけを頼りにいえば、中学と高校を境にしてなのではないだろうか。高校は偏差値別にいわば階級化されている。それはもう歴然としている。だから、中学生はそれぞれの偏差値に対応した高校に振り分けられるようにして入学する。当然、それぞれの高校には同じような能力の人間が集うようになる。単純に言えば、偏差値の高い学校には、頭の良い奴らだけが集まり、偏差値の低い学校には頭の悪い奴らだけが集まるようになる。 こうなれば、偏差値の悪い学校で、俺はやんちゃ坊主だ、だけど心は綺麗なんだ!と中学生の時と同様粋がってももはやそれはなんの価値をも生み出さぬ言説となってしまうのだ。俺はやんちゃ坊主だ、だけど心は綺麗なんだ!といっても周りはやんちゃ坊主しかいない。不良少年は心は綺麗なんだ、ということに価値があるのは、不良少年と比較できて好対照をなす根暗ながり勉がいてこそなのである。ところが、がり勉はもう周りにはいない。がり勉もそれぞれ自分の能力にあった学校に進学し、同じような集団の中で楽しい学校生活を送るようになるのだ。そして、残るのは、偏差値を基準にした学校間格差という現実なのだろう。 これはよくよく考えると不良少年(具体的に言えば、不良であっても心が綺麗ならば人間的な価値は上なんだ、と信じていた不良少年)にとってはとても残酷な話なのではないか。頭が悪くても、心が綺麗なんだ、だからがり勉よりもイケテルぜい、そうやって中学生まで優越感を持てたものが、それらの信念がまったく無意味であったということが否応なく突きつけられるのだから。 そう考えれば、むしろ、頭が悪い奴は心が綺麗だ、という式は、不良少年にとっては不利益をもたらす言葉でしかないのではないだろうか。 そして、どういう思想からなのか、こういう言説を生徒に流布し、洗脳し、自己満足するような教師はいやしないだろうか? このように考えてくれば、和田氏の見解にも一理あると思う。そして、ごくせんというドラマは、不良少年の味方をしているように見えて、(実際に、不良少年を自分達はイケテルんだという気持ちに意識的にも無意識的にもさせるのかもしれない)実は不良少年の大敵以外のなにものでもないのかもしれない。ドラマを見てないので揣摩臆測するしかないが。 もっともこうえらそーにのたまってる僕が一番最悪な小学生、中学生だった(汗) ヤンチャ坊主でもなく、かといって勉強もできず、心も澱んでいたのだから。先生も手に負えないような人種だっただろうwこういう僕みたいな人間にとっては不良少年にとってよりももっと学校は大敵だったのかもしれない。。。。 学校を捨て 街へ出よう! 記事読んでて おもしろかったです。 >通りすがり様 読んでいただいてありがとうございます。 コメントが消えている。 仕方ないなーせっかくだから分かりやすく書き直してみようか。 まずTmoegiさんが「勉強もできず」ってのは間違い」だよね? なんてったって大阪府立北野高等学校合格だもんね。 (おっと。個人情報を洩らすな!と言うかもしれないけれど 自分で言ってるよねえ橋下弁護士と同じ高校出身だって。はいソース。 http://kotohira.exblog.jp/6760779/ そんなの隠したうちに入らないよ。ちょっと調べればすぐに分かる。) 「大阪では進学校ということになっている」って書いているし。 だから「中学校では」先生が困るほど勉強も出来ない生徒だった、 っていうのはあてはまらないよね。 自己評価はともかく周囲から見れば勉強が出来たと言っていいじゃないかな。 まして「一番最悪な中学生」なんかじゃないだろう。 つまり①Tmoegiさんはむしろ高偏差値。ということになるね。 つづく。 さて、ここでTmoegiさんは 偏差値の悪い学校で、俺はやんちゃ坊主だ、だけど心は綺麗なんだ!と中学生の時と同様粋がってももはやそれはなんの価値をも生み出さぬ言説となってしまうのだ。俺はやんちゃ坊主だ、だけど心は綺麗なんだ!といっても周りはやんちゃ坊主しかいない と書いているね。 偏差値の低い高校に行く人はみんな不良だ、と思っていないかな? それこそ偏差値の低い高校の生徒とは関わりがなくなっちゃったから想像で書いているんじゃないか? 偏差値の高い奴が全員がり勉なわけじゃないだろう? スポーツも出来て偏差値が高い奴だって別に稀有な存在じゃなかったし 偏差値の高い学校にだって不良(不良の線引きはおいておくとして)がいるところもある それと同じで偏差値が低い奴が全員不良なわけじゃない。 いい高校は出られなかったけれどまっとうに生きている人間だってたくさんいるんだ。 だけどここでは偏差値が低い高校はやんちゃ坊主(不良)しかいない。 と決め付けている。これは偏見だろう。違うか? ②Tmoegiさんは偏差値が低い高校(とその生徒)に偏見がある。 つづく ①と②は読んだかな?はいそれではここでその結論を並べてみようか
①Tmoegiさんはむしろ高偏差値 ②Tmoegiさんは偏差値が低い高校(とその生徒)に偏見がある。 で、この二つが並ぶと 偏差値の高い奴(Tmoegiさん)が偏差値が低い奴に偏見をもっている。 ということになる! 違うかい?だったらなんで勉強が出来る、偏差値が高いことを「頭がいい」 勉強が出来ない、偏差値が低いことを「頭が悪い」と書くのかな? 勉強が出来ることと頭のよさが必ずしも直結しないことを分かっている人は そんなことは書かないよ。和田秀樹氏だって勉強が出来る子のことを「秀才」と 書いているじゃないか。偏差値だけで判断するから「頭がいい」なんて言うんじゃないのかい?そして実は「自分は頭がいい」と思っているんじゃないか?そうとしか思えないんだけどね。 また削除かねこりゃ。
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