2001 9.11
2001年 9月12、13、14日のNEW YOEK POST
あの日からの新聞は、あの現場を撮り続けていました。
あの日を忘れないために私の手元にずうっとあります。
あれから6年.
何事もなく昨日が過ぎ去ったことに
今日は愁眉を開く日になりました。
6年前、大学4年の私は夏休みを利用して、
憧れのNYに行っていました。
あの日、
私は様々な国の学生と
英語の勉強を受けていました。
突然、滅多にならない携帯電話が
何度もなりはじめました。
鳴り止まない携帯の表示を見ると
母の名前が…
急に胸騒ぎがした私は、
先生に理由を告げ、廊下にでて、
talkボタンを押しました。
その瞬間、
母の悲鳴ともとれる声が聞こえてきました。
『大丈夫、大丈夫!!
ニューヨークが大変… …ツー、ツー』
電話をかけ直してもかけ直しても繋がらない電話。
急いで、先生に何かあったのかもしれないと伝えました。
先生はラジオをつけ、
外を見て、状況を把握しようとしました。
私たちがいた場所はミッドタウン・ウエスト、
ワールドトレードセンターから車で15分のところ
10階から外を見るとあまり変わらない様子…
ふと、歩道を見ると
沢山の人の群れがセントラルパークの方に
なにかからのがれるように
流れているではありませんか。
何がおこっているのか?
何から離れようとしているのか?
その瞬間ブッシュ大統領の声がラジオから聞こえてきました。
その時、初めて私たちはワールドトレードセンターに飛行機が
激突したことを知りました。
ただそれが、事故ではなく人為的策略、
テロだというとはまだ知る由も有りませんでした。
それからはじまったニューヨークでの生活は
今の私の指針になっていると常に思います。
ニューヨークを悲しみで被い、
ニューヨークで生活をするすべての人に
戦々恐々の生活を与え、
恨み憎しみが生まれ、
そして人間の尊い命を感じ、
助け合うことを知り、
手と手を取り合うことを学び、
愛することを学び、
国境なき心を持つことを学びました。
この体験をブログで初めて書くことができました。
あの時の体験が私の中でまだまだ
受け止められていなかったのかもしれません。
今こうしてお伝えできるようになったのは、
この経験を受け止め、
自分の進むべき道、進みたい道に歩き出せたからかもしれません。
あの日、犠牲になった方々のご冥福をお祈りします。
2001年 9月12、13、14日のNEW YOEK POST
あの日からの新聞は、あの現場を撮り続けていました。
あの日を忘れないために私の手元にずうっとあります。
あれから6年.
何事もなく昨日が過ぎ去ったことに
今日は愁眉を開く日になりました。
6年前、大学4年の私は夏休みを利用して、
憧れのNYに行っていました。
あの日、
私は様々な国の学生と
英語の勉強を受けていました。
突然、滅多にならない携帯電話が
何度もなりはじめました。
鳴り止まない携帯の表示を見ると
母の名前が…
急に胸騒ぎがした私は、
先生に理由を告げ、廊下にでて、
talkボタンを押しました。
その瞬間、
母の悲鳴ともとれる声が聞こえてきました。
『大丈夫、大丈夫!!
ニューヨークが大変… …ツー、ツー』
電話をかけ直してもかけ直しても繋がらない電話。
急いで、先生に何かあったのかもしれないと伝えました。
先生はラジオをつけ、
外を見て、状況を把握しようとしました。
私たちがいた場所はミッドタウン・ウエスト、
ワールドトレードセンターから車で15分のところ
10階から外を見るとあまり変わらない様子…
ふと、歩道を見ると
沢山の人の群れがセントラルパークの方に
なにかからのがれるように
流れているではありませんか。
何がおこっているのか?
何から離れようとしているのか?
その瞬間ブッシュ大統領の声がラジオから聞こえてきました。
その時、初めて私たちはワールドトレードセンターに飛行機が
激突したことを知りました。
ただそれが、事故ではなく人為的策略、
テロだというとはまだ知る由も有りませんでした。
それからはじまったニューヨークでの生活は
今の私の指針になっていると常に思います。
ニューヨークを悲しみで被い、
ニューヨークで生活をするすべての人に
戦々恐々の生活を与え、
恨み憎しみが生まれ、
そして人間の尊い命を感じ、
助け合うことを知り、
手と手を取り合うことを学び、
愛することを学び、
国境なき心を持つことを学びました。
この体験をブログで初めて書くことができました。
あの時の体験が私の中でまだまだ
受け止められていなかったのかもしれません。
今こうしてお伝えできるようになったのは、
この経験を受け止め、
自分の進むべき道、進みたい道に歩き出せたからかもしれません。
あの日、犠牲になった方々のご冥福をお祈りします。
