1956年を迎えました。今年こそは、と大きな期待を持ち、2月、3月を迎えました。苺の方も順調に3月中旬頃からボツボツと出荷が始まり、キャンプ内は急に活気づき、日増しに多忙になりました。多くのメキシコ人の働き人を雇い入れました。キャンプの皆さん方も、また私共も今年こそは、と大いに豊作であるようにと大きな期待をもって仕事に精を出しました。3、4、5月が一番、苺の収穫の多い時です。
ところが、4月頃から雨が降り続き、真っ赤に熟れている苺は雨のために次々と腐って行くのです。毎朝、空を見上げながら、「今日のお天気は?」と曇り空を見上げ、祈らずにはおれませんでした。キャンプの皆さん方も心を痛めておられました。
やがて、やっとお天気になりましたが、畑の中には入れません。水で畑の中はぬかるみです。土が乾くまで2、3日は待たねばなりません。苺が腐っていくのを見ながら、心は焦るばかりです。やっと畑に入れるようになり、腐った苺を取り除けていきます。青い苺までが腐っていて、第一の収穫は雨のため大きな損害を受けました。この年は、カリフォルニア州一帯で雨が多く、サクラメントやメリンスヴィル方面は水害に見舞われたということがニュースにも出たくらい、ひどい年でした。
私達の苺耕作もあまり見込みがなく、その年いっぱいで見切りをつけて、3年目の夏から岡本さんに私達の畑を受け継いで頂き、私達は、1957年、キャンプを出ました。そして、27番街に家を借りて移り住みました。キャンプの皆さん方には大変お世話をかけました。何とかやり通して行かなければと思いながらも、利益がなく、このままだと借金になりかねないはめになります。夢を託して一生懸命に働きましたが、お金を儲けることは出来ませんでした。
しかし、キャンプでの3年間は決して無駄ではなかったのです。初めから私達の使命は「金儲け」ではなく、神様の御旨はもっと貴い、人々の「魂の救い」のためのお導きだったことが分かりました。キャンプの6人の子供たちがサンデースクールに通うようになり、3年後には、苺耕作をやめられた後、清水さんご夫妻、岡本さんご夫妻、松岡さん方が見事にイエス様を信じ、サニーベール教会で、受洗されました。サニーベールからサンタクララ教会へと導かれ、そしてサンタクララ教会で貴いご奉仕をされて、これらの方々は、今は天国へ凱旋されました。松岡さんのご長男夫妻は、サンタクララ教会で受洗され、今も信仰を持ち続け、礼拝に出席していらっしゃいます。 「わたしの思いはあなたがたの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道と異なるからだ。」(イザヤ55:8)道。考え。計画。――全てが神様の御計画の中にあったことを深く知らされました。
苺キャンプをやめて出た時は、私は42歳、それからもまだまだ険しい道は続きました。主人は郵便局に仕事を頂いて、毎日元気よく通いました。長男はハイスクールの2年生、次男は翌年、ハイスクールに行き、長女はジュニアハイの2年生、次女は小学2年生。まだまだ、頑張らなくては、と私も何か仕事を探したいと思いました。子供のこれからの教育のことを考えると、主人にばかり頼ってはいられません。
ある日、主人の知人の、アメリカ人の御婦人で、化粧品を取り扱う方がおられ、その方が私に自分の下で働いてくれないか、と言われました。化粧品の仕事はきれいな仕事だと考えて、「では、やってみましょう」と、色々教えて頂き、一週間後から戸別訪問でセールスを開始しました。皆さん、よく買って下さり、上々の成績でした。
ところが、ある日、教会の若谷師の知るところとなり、「本田さん、お化粧品を売っても、天国には行かないよ」と言われました。私はセールスの後、帰る時は必ず、お客様に教会のご案内をしたり、パンフレットを差し上げていました。時には、イエス様のお話もしましたので、若谷師のその言葉に、ちょっとショックを受けました。しかし、もし、化粧品セールスが伝道の妨げになるのであれば、やめるべきだと思いました。50年前は、米国といえどもまだまだ貧しい時代でした。教会へいらっしゃる日系一世の方々もお化粧をしておられる人は、あまり見受けられず、質素な身なりの方々でした。化粧品は「贅沢品」の一つと見られていた時代でした。ですから、若谷師にすれば、そんな高価なもので装うということは理解できなかったのかもしれません。若谷師は、そんな「贅沢品」を売って歩く私に忠告して下さったのだと、私は深く反省しました。
当時は、開拓伝道でしたから、教会員は7,8人位でした。主人は教会の会計を預かっていましたが、大変、苦しい闘いの中にありました。そのような中、若谷師は、伝道一途で、週日はガーデナーの仕事をしながら、教会会計の不足分を補って下さる月もありました。そのようなこともあって、私は先生のお気持ちも良く理解できました。注意して頂くということは幸いです。その陰には、素晴らしい神様の恵みが隠されています。 「互いに謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを賜うからです。」(I ペテロ5:5)
その後、子供が学校から帰る時間には家に戻れるような、朝9時から午後3時までの、ハウス・ワークの仕事に就きました。上の子二人が大学を出るまで働きました。女の子は学校に行きながらでも仕事が貰えて、ハイスクールから大学まで二人とも同じ歯科医院で働きました。神様は、どんな時でも折にかなう助けを与えて下さいます。
キャンベル時代の教会では、多くの苦難の山、坂がありました。神様の御愛に支えられ、御言葉に導かれ、ある時は涙しながらも、一度たりとも教会から去ろうとは思いませんでした。若谷師は、信仰には人一倍、熱心な方でした。ただ、短気で、あとで奥さんに諭され、謝りに来られたことも度々ありました。今、思うと、懐かしく想い出されます。本当に愛すべきお人でした。その若谷ご夫妻も今は、天国です。本当に長い間の御苦労に心から敬意を表します。先生が、この地で開拓伝道をなさらなかったら、今日のサンタクララ教会はありえなかったのではないでしょうか。私はそう思います。
この教会を守り続けて下さった一世の方の信仰と汗の結晶です。それから50年という歳月が経っています。その間、多くの先生方、多くの信徒の篤い祈りに、神様は、豊かに豊かに溢れる恵みを与えて下さいました。今日のサンタクララ教会が、しっかりとした、揺るがない教会として、なおも神様の御栄光を現わすものと信じ、祈りの手を高く挙げて行きましょう。