足跡(あ・し・あ・と)= その 14 =

H. 房子

 9年間住み慣れたシカゴ。多くの想い出を残して、また多くの友達に別れを告げて、シカゴをあとにする私たちの心は、名残り惜しい気持ちで一杯でした。ミッドウェイ高速道路を車で走り、「サヨナラ、サヨナラ」と町々に立ち並ぶ木々に、ビルディングに、手を振りながら別れを惜しみました。主人は私の病のために前途有望な仕事を犠牲にして、カリフォルニアへと移住する決断をしてくれたのです。また病身の私の、長い車での旅のために、思い切って大型のBuick Road Masterを購入していました。4泊5日かけての、カリフォルニアに帰る、大陸横断の旅を始めました。

 8月、真夏の暑い日盛りです。ちょうどその頃、アイオワ州、ネブラスカ州は、トウモロコシの花粉が舞い飛ぶさかりでしたので、私の喘息が急に苦しくなりました。やっとモーテルを見つけ、そこで1泊しました。子供たちは私のことを心配して隣室で祈っています。「マーミの喘息が悪くならないように神様守ってください。明日はカリフォルニアへ元気になって行けるようにして下さい。アーメン。」3人の子供の声が聞こえて来るのです。泣けて涙が頬を流れ、私は、家族のためにも病に負けてはいけない。何としてでも神様、私を強めて下さいという祈りのうちに、弱った体力と旅の疲れのためにいつか眠ってしまいました。

 目が覚めたのが明け方の6時頃でした。主人も子供たちも前日の疲れでまだ眠っています。私は皆が目を覚まさないように静かにトイレに入りました。またまた血尿です。トイレ・ボールの中は真っ赤な血尿です。咳と疲れのため、また血尿が出たのです。けれどもよく休めたためか、気分は大変よく、これなら今日一日、旅は続けられる、と思いました。朝、8時にモーテルを出発しました。ウラキ山脈に着いた頃からは私の息遣いも楽になりました。

 祈りながらシカゴを発って5日目の午後、カリフォルニアのユーバ・シティの、主人の妹夫婦の家に着きました。妹の西川夫婦と4人の子供たちに私たち親子6人、合わせて12人の大家族になりました。田舎ですから広々としたオープン・プレイス。見渡す限りトマト畑があり、果樹園があり、裏の方に行けばいろんなフルーツが畑の中に転がっています。いろいろなメロン類が植えてあります。

 このような恵まれた地でゆっくりと西川夫婦に助けられ、私たちは1ヶ月の長い間、お世話になりました。その間、主人はサンホゼに行き、家を探しに行き、友人の助けにより1軒の家を借りることができました。そこはサンタクララの果樹園の中でした。

 9月の初めに懐かしいサンホゼに帰って来ました。カリフォルニアでも一番、気候の良いと言われているサンホゼ。しかも果樹が青々と繁った畑の中です。その畑にはいろんな野生の小さな花が咲いています。子供たちは生き返ったように大喜びです。シカゴでの狭いアパート住まいから解放され、広々としたサンホゼの、空気の綺麗な澄みきった青い空。小鳥の囀る美しい田舎に1軒の家が与えられたことは、大きな神様の御恵みと心から感謝の祈りを捧げました。

 子供たちの学校もまもなく始まります。主人はすべての手続きを済ませてくれました。さて、落ち着いてみると、さあ、聖日には教会へ行かなくては、と皆で話し合い、母教会、シカゴ・イエス・キリスト教会の大山牧師に紹介されていたサンノゼ、メソジスト教会で礼拝を初めて守らせて頂きました。

 ちょうどその頃、大山先生の週報で私たちのことを知った、福永あやのさんの案内で若谷牧師夫妻の訪問を受けました。若谷師のお話によると、今、キャンベルの地で開拓伝道をしておいでになるとのことで、集会のご案内を頂きました。ミセス・若谷は、日本語が不得手のようでありましたが、それでも聞いている私の心には、人を惹きつける心温まる、霊の力を感じました。再会を期してお帰りになりました。

 それから数週間が過ぎ、初めてキャンベルの信徒の方々が借りて、集会を持っておられたアッセンブリー・ゴッド教会に行きました。15,6名の信徒の方々の集いでした。その中の5,6名の方はサンロレンゾ教会の信徒の方であるとお聞きしました。土曜日に礼拝が持たれていました。私ども一家はミッション開拓伝道しておられる若谷師のところで信仰の道を歩ませて頂く決心をし、定期的に各集会に出席し、1954年11月、正会員として加えて頂きました。

その13 目 次 その15