私共一家は、1950年3月に ”大きな家、広い庭、フェンスのある家”、神様がお与え下さった教会の家に移り住むことになりました。3月、4月はまだまだシカゴは寒い日が続きます。外は大雪です。これから私の日常の生活が一変しました。主人は早めに家を出ます。今までは歩いて仕事に行っておりましたが、これからは車で40分はかかりますので、朝は早起きです。彼は車の上に積もっている雪を払い落とし、エンジンを15分位かけたままにしておきます。エンジンが暖まってから出かける、寒いシカゴやニューヨークに住んでいる人たちの気苦労は、暖かいカリフォルニア州に住んでいらっしゃる方の想像をはるかに超えたものがあります。子供達も防寒用のジャケット、帽子、手袋と雪の中で転んでも怪我する気遣いはない位、着込みます。学校へ行ったら全部、防寒用のジャケットは脱ぎます。
私は、教会周りのサイド・ウォークの雪をシャベルでかきます。どんな寒い時でも体がポカポカと温かくなります。時おり大山牧師が2階から顔を出して、「本田さん、精が出ますね」と声をかけて下さいます。私は、「先生も如何ですか。温かくなりますよ」と応えます。このような想い出もシカゴならでは見られない光景ではないでしょうか。実に楽しい想い出でした。若かったのでできたのですね。
それから間もなく、大山先生ご家族は、教会の牧師館に移っていらっしゃいました。お子さん方が10人。17歳を頭に、愛ちゃんと云って2歳になる可愛いお子さんまでいました。教会が急に賑やかになりました。私共の子ども達も大喜びです。私たち夫婦も心から感謝いっぱいです。なんと主の恵みは豊かでありましょう。
私の仕事は、土曜日から準備を始めます。日曜日の朝は、4時に起きます。石炭は、外の小屋に入れてありますので、そこから石炭をバケツにいっぱい入れて運び、石炭ストーブに火をつけます。会堂に2つ、階下に1つ、台所に1つ、火を焚きつけます。風の強い時には、なかなか焚きつかず、煙ばかりが室内に入り込んで目は痛むし、鼻は煙で痛くなり、息切れするし、石炭ストーブなど取り扱ったことのない私には大変な労働でした。それでも何とかやり通すことができました。やっと5月になりました。少しずつ暖かくなります。やっとストーブを焚く日が少なくなり、少しずつ仕事の方も楽になりました。全ては神様からの恵みであり、賜りものです。そして祈りの応えでもあります。主の前に呟いてはいけないと強く反省しました。毎週の水曜日には午後7時から祈祷会があります。終わる頃は大抵、9時頃になってしまいます。それから多くの方達は、バスか電車で家に帰られます。
田中芳子さん(家庭集会でお証しされた方)は、いつも電車で帰って行かれます。電車を下りてから2,3ブロックの夜道を家まで歩かねばならないのです。ある晩、いつものように家路を急ぐ時、一人の大きな男が向こうから歩いてくるのを見ました。その男は彼女の手提げを奪おうとしました。その時、彼女は大きな声で「ジーザス・クライスト」と叫んで、手を高く挙げたら男はびっくりして逃げ出したそうです。田中さんは無事に帰宅できたと、お証しをされました。神様はその様な知恵と勇気を与えて下さったと本当に感謝していらっしゃいました。それ以来、彼女は恐れることなく、夜の祈祷会に来ていらっしゃいました。神に忠実に従う者には神も常に真実をもって守り給うことを知らされたことでした。聖書のみことば「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される」(詩34:7)
さて、礼拝は、10時30分からですが、信徒の方々は10時前からぞくぞくと次から次に来られ、それは、それは皆さんのお顔は輝いています。年代から申しますと、50代から80代以上の方が多くいらっしゃいました。一世の方の時代でした。その頃の人々は、教会にいらっしゃる時は、女の方達は殆ど帽子をかぶっていらっしゃいました。男の方も女性ほどではありませんが、やはり帽子をかぶっておられる方もありました。今は、そのような姿は見られませんね。
聖日礼拝が終わっても皆さん方、なかなかお帰りにはなりません。台所でお食事をされたり、お茶を頂いたりしてゆっくりとお交わりの時を持っていらっしゃいました。時には讃美の練習をなさったりして楽しく過ごしていらっしゃいました。教会は憩いの場所ですね。私たちも皆さん方と共に交わりにあずかり、教会は主にあって一つの大きな家族です。今日では一世の方々は皆、天国に凱旋していらっしゃいます。私もいつの日にか天国にあって再会の時を待ち望んでいます。
1950年5月頃だと記憶していますが、日本から賀川豊彦先生がお見えになり、大山先生の教会で伝道集会が二晩もたれました。その時は、広い会堂も満員の盛会でした。賀川先生は、「死線を越えて」の著者で、全世界に知られる有名な伝道者です。貧しい人々のためにご自分の全てを与え尽くして来られた方です。先生が教会のパイプオルガンをご覧になって、“贅沢“と感じられるほど、当時の日本での伝道は私たちの想像を絶するもののようでした。他にも多くの牧師方が日本からいらっしゃり、貴いメッセージを聞く機会が与えられ、本当に幸いでした。主は、私共に辛いことばかりではなく、恵みも豊かに与えて下さり、主の聖名を崇めました。
恵みの中に1年、2年と月日は流れるように過ぎ去り、1952年の夏頃から私の体調が思わしくなく、このままではご奉仕は続けられそうもなくなり、2年半で教会の仕事を止すことになりました。こうしてまた、アパートへ移り住むことになりました。フール熱から腎臓炎を起こしてしまったのです。アパートに移ってからも熱が下がらず、とうとう入院しました。少し良くなり家に帰ると、やはり体を動かすのでまた入院となりました。その上、夏になるとアレルギーになり、それが高じて喘息になったりで、それは大変でした。ドクターは「本田さん、乾燥したところに行けば治りますよ」とアドバイスして下さいました。それで思い切ってシカゴから住み慣れた、懐かしいカリフォルニアに戻ることになりました。
主人は私に言ってくれました。「房子は、サンノゼで生まれ、育った。サンノゼに行こう」。彼の思い遣りのある温かさに感謝して、1953年8月にサンノゼに引っ越すことになりました。その時、ドクターは、私がまだ完全な健康体になっていなかったので、「ミセス・本田は、飛行機で行かれた方が良い」と云われましたが、やはり車で家族一緒にシカゴを出発し、カリフォルニアへと向かいました。