隣家の遠藤さんがメンバーである、シカゴ・イエス・キリスト教会から三人の長老の方々が熱心に毎月一回、訪問して下さるにもかかわらず、私共はなかなか教会へ行こうとはしませんでした。家庭集会での田中芳子姉のお証しに感激し、もし私が信仰を持つのだったら同じ神様を信じたいと主人に言った、あの恵み、神への思いは一体どうなったのでしょう。
それから幾週間が過ぎた頃、私はある晩、夢を見ました。──ある日私たち一家が車でドライブに出かけました。シカゴで有名なミシガン湖に沿った、レイクショア・ドライブとも呼ばれる高速道路を車は走っています。夢って可笑しいですよね、気が付いてみると私達はいつの間にか道の横に車を停めていて、車の窓から外を見ると、そのミシガン湖に大きな船が横付けされているのです。よく見ると船から岸辺に板がかけてあります。そして船の入口に一人の人が立っておられる。顔ははっきり分からないけれども、私達に向かって手で合図しておられるのです。(この船にお乗りなさい)と。そこで目が覚めました。その朝は、別に気に留めませんでした。そして次の晩にも同じ夢を見ました。朝になって、おかしな夢を主人に話してみようと思いながらも朝の忙しさに忘れてしまいました。三日目の夜も同じ夢を見たのです。翌朝こそは主人に夢の話をしました。そうしたら、主人は嬉しそうな顔をして言うのです。「ああ、それはイエス様だよ。房子が教会に行くようにイエス様が招いておられるんだよ」と。
(イエス様?)今まで主人は、聖書のことも、教会のことも一切、話したことはありません。それが、いきなり「イエス様」という意外な言葉を言うので、とても不思議に思いました。
「それがどうして貴方に分かるの?」彼は、「ああ、分かるよ。僕は小さい頃から教会のサンデー・スクールに行っていたんだから」「だったら何故、今まで私にイエス様のことを話さなかったの?」「話しても、房子はたぶん信じなかったと思うよ」と主人は言ったのです。
私の実家は仏教徒でしたし、私達夫婦が大変お世話になった伯母様も熱心な日蓮宗の信者で、私達の結婚式もお坊さんの司式によって挙げたのでした。そんなこれまでの私の環境を思うと、主人の言葉に納得できました。彼は、私がイエス様を知って信じるまで待っていたようです。
では、今度の日曜日から早速、教会に行ってみよう、と。それから一家揃って、シカゴ・イエス・キリスト教会へ行くようになりました。聖書の御言葉の如く。──「あなたがたが私を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。」
一番喜んで下さったのは、宮川兄でした。長老の方々、三人共、温厚で謙遜、教会になくてはならない人たちでした。牧師の相談相手であり、多くの方面にあって、主への働き人でありました。教会生活も毎週楽しく、子供達もサンデー・スクールで喜んで讃美歌も覚え、祈りもするようになりました。恵まれた、平穏な日々が続きました。
主人は、シカゴの生命保険会社に勤めていました。最初の二年は良い成績を上げて、売上げも上々でしたが、一九四七年頃から売れ行きが下り坂になり、だんだんと落ちました。その原因の一つには、人々がそれまで保険の話に耳を貸してくれた夜の時間に、当時、出始めたテレビを見るようになって、主人の仕事がしにくくなったからでした。収入は減り、私達の生活に困難が押し寄せて来ました。週払いのアパート代も何週間も滞るようになり、夜遅く帰宅する主人の顔をみて、(ああ、今日もだめだったのか)と思う日々が続きました。主人もとても心を痛めていました。
そんなある日、主人は歯が痛いと言って、歯医者に診てもらったところ、医者は「本田さん、貴方の歯は別に悪いところはありません。何か心配事があるのでは。これは神経から来ていますよ」とのことでした。それほどの心労だったのです。
その頃、私達はクリスチャンになっていましたが、聖書を読むことの少ない日々で、祈ることもしていませんでした。「苦しい時の神頼み」の諺にある如く、その時から聖書を開くようになり、祈りにも導かれました。
ある朝、聖書のマタイ六章六節に「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父があなたに報いてくださいます。」とありました。──私の奥まった部屋(密室)はどこにあるだろう。ある筈がありません。三人の子供達は、元気をもてあまして家の中を走り廻っています。たった一つあるクローゼットが私の祈りのための密室となりました。主人の仕事、子供達の日毎の糧、アパート代の滞りが払えるようにと祈りました。そんな時も、子供達は「マミーがおらん」と探しまわり、クローゼットの中に私を見つけると「ここにおった」と、かくれんぼうをしているつもりだったのでしょう、無邪気に喜びました。
そうした闘いの中で祈り、聖書を読むことが私の生活の中で、なくてはならないものとなりました。神様は、願う前から私達の必要をご存じであり、全能の神であられる天の父です。私の必死の祈りに確実に応え給うたのでした。
ドクターのオフィスからの帰り道に主人の目に入ったのは、ある大きなCOOPグローサリー店のウィンドウの「店員入用」というサインでした。すぐ店に入り、応募用紙をもらって、そこで記入し、次の日の面接でO.K.が出て、何と新しい仕事を得たのでした。家から歩いて行けるほど近い所で、主のお取り計らいは、本当に私の願いにまさる恵みと憐れみ深いものでした。──「主は恵み深く、そのいつくしみはとこしえまで」──全てを祝福へと変えて下さいました。主に心から感謝を奉げました。
「まず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ六・三三)