足跡(あ・し・あ・と)= その8 =

H. 房子

 1945年3月、待ちに待っていた待望の、シカゴへ行く日が訪れました。いよいよ収容所の皆さんとお別れとなると名残りは尽きません。多くの方々に見送られ、収容所をあとにして、Granada駅に向かいました。寒い朝、雪が降っていました。1時間遅れで汽車はシカゴへと発車しました。

 まだ日米戦争は終わっていません。汽車の中には大勢の米兵が乗っていました。日本人は、私達親子5人。他には日本人の顔は見えません。そんな中でも、米兵達の表情は温かいものでした。いつも笑顔で子供達にも良く話しかけてくれました。私達もあまり緊張することなく、無事にシカゴ駅に到着しました。下車の折には、荷物を抱えた私達の代わりに、米国人が次男のArthur(2才)を抱いて助けてくれました。戦時中、しかも私達は日本人。彼らからすれば、敵国人です。私達が、日系アメリカ人であったとしても、それは、なんと温かい、また広い心の人たちだろう、と心から有難うございました、とお礼を申しました。彼らは、笑顔で "Good luck!" と言って、手を挙げて別れました。 神の国と言われている米国。アメリカ人は隣人愛を知っています。この時の親切はいつまでも心に残り、思い出しています。私達は人の親切と愛の行為を学びました。後日、クリスチャンになってから知った、神の言葉です。「何ごとでも自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)これが本当の隣人愛ですね。

 やっとシカゴのアパートにたどり着きました。South Side 75th St.。 ユダヤ人経営の大きな7階建てのアパートでした。私達の住まいは4階で、このアパートは古いビルディングで、エレベーターはケーブル式です。うちは1ベッド・ルーム、居間、台所で親子5人が住むには真に狭いものでした。大都会では、あまり贅沢は言えません。主人が苦労して探してくれた所です。狭くとも楽しい我が家にしましょうと、有難く感謝しました。このアパートには沢山の日系2世の若い人達が住んでいました。管理人も日系2世の人でした。20〜30代の方が多く、又、同じ年齢の子どもさん達(0〜6歳)といったご家族がほとんどでした。この方たちもそれぞれ違った収容所からシカゴへと移って来たところで、仮の住まいです。

 収容所から出ても、戦時中はもちろん、戦後もしばらくは日本人移民、日系人はカリフォルニアに戻ることはできませんでした。というのも、いろいろな迫害や嫌がらせがあることを聞いて知っていたからです。日本人移民の家に銃弾が撃ち込まれたり、野菜を売りにいくと、「ジャップの野菜など買えない」と言って、ひっくり返されたりしたのです。

 一方、シカゴのような大都市では、徴兵のため労働力が不足し、いろいろな工場などで労働力が必要とされていました。収容所から出た日本人、日系人はこうした職場に新しく仕事を得て、シカゴ、デトロイトのような大都市部に住むようになりました。主人は保険会社で働くようになりました。シカゴには戦前は、数百人ほどだった日本人、日系人が戦後は数千人にもふくれあがりました。でも、皆、いずれはカリフォルニアへ帰ることを望んでいました。

 アパートでは、子ども達も友達がたくさん出来て、大喜びでした。子ども達の遊びと云ったら、戦争ごっこでした。その遊びの中でも、誰も日本兵役にはなりたがりません。ある子が自分は「アメリカ兵だ」と言うと、他の子は「ノー、お前は日本人だ。」と言います。親同士は顔を見合わせて笑っている光景をよく見ました。日本を知らない子ども達、日本語も話せない3世の子ども達の心は戦時中でも天真爛漫です。同じアパートに住んでいた白人の人たちも、「子どもって無邪気でいいね。」とニッコリ微笑んで話していました。このようなことも、あの時代でなければ体験できない、1つの想い出です。その子ども達も今はもう初老になっていることを思うと、何と歳月の流れるのは早いことでしょう。

 さて、私達のお隣には遠藤礼子さんとおっしゃる、クリスチャンの未亡人がいらっしゃいました。この方の所で、月に一度、家庭集会が持たれていて、その度に私の所にもご案内に見えました。ある朝、戸を叩く音がしましたので、(あっ、また遠藤さんだ)と思いました。戸を開けると、遠藤さんがニコニコして立っています。今日は何と云ってお断りしようか、と考えながらいるところに、主人がキッチンの方から出て来て、「房子、行って来なさい。今日は僕がうちにいるから、子ども達を見てるよ。」と言って、私に集会に行くことを勧めるのです。これでは、もうお断りのしようがありません。遠藤さんは、すっかり喜んで「良かったですね。では、お待ちしていますよ。」と言って、喜んで帰られました。

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