1944年8月、家族で再び収容所に戻りましたが、強制収容初期とは違って、だんだん収容所から出ることも許されるようになってきていました。若い人たちは大学に入るために収容所を出て行く人達も多く、また新しい仕事を見つけて出て行く家族も増えていました。我が家も主人だけが先にシカゴへ出て、家を探し、家を借りたら家族を迎えに来るこという手続きをして、主人だけが先ず、シカゴへ出ることになりました。Boulderで2人の子供が生まれていました。1942年に次男がうまれ、44年に長女が生まれました。母親の私と子供の親子4人は収容所に残り、主人が迎えに来てくれるまで、そこで待つことになったのです。長男Michaelは3才、次男Arthur2才、長女直美2ヶ月でした。
収容所では子供用に卵とミルクは十分与えられましたので、子育ては食べるものでは苦労はしませんでした。でも住居はバラックで、音も筒抜けですから、子供が夜中に泣いたりすると「うるさい、泣かせるな」と言われたりするので、小さい子を持つ親は辛い思いでした。また、病気になった時など熱のある子供を抱いて、遠くにある病院棟まで歩いて行かなければならず、着いてからも長時間待たされました。また、お風呂は、洗濯棟の流し台にお湯を張り、子ども達を洗ってやりました。
キャンプは一棟6家族用になっていました。右隣はお年寄ご夫婦の福島さん。左隣は高田さんご夫婦。私達親子は真ん中に挟まれていました。朝の食事では8時に食堂が開いて食事の時間を知らせる鐘がなります。入り口には毎朝、立っていて下さる高田さん。笑顔で、入って来られる皆さんに必ず“おはようございます”と挨拶されていました。この方は、どこか他の人たちとは違う、いつも謙虚な方だと思いました。収容所の中に大勢の人々が集団生活をしているといろんな人々がいて、心まで荒んで来るのです。自分本位になる人、ささいなことで喧嘩になったり、それを根に持ったりで、人間関係の中で醜さも見えてしまいます。そんな中で、高田さんは、私の子供にもよく声をかけて下さって、心に残っています。
私達がBoulderからアマチの収容所に入ったのは1944年8月で、翌年の1945年3月にいよいよ主人が私達を迎えに来るという通知を受けました。7ヶ月間、待つ間の永かったこと。子供達も「ダディがお迎えに来る」と云って心待ちにしていました。待ちに待った日が訪れ、お隣近所の方々とのお別れはやはり、涙の別れでした。お隣の福島ご夫婦とのお別れは本当に悲しかったです。お年を召していらっしゃる方々です。再びお会いできる日はないだろうと思うと私の心は痛みました。
このご夫婦には、こんな事もありました。お二人には一人息子さんがいらっしゃって、アメリカの兵に取られ、イタリアで戦っておられました。ある日、軍から電報が来ました。奥さんがそれを持っていらして、「本田さん、電報が来ました。読んで下さい。何と書いてあるか、読んで下さい。」心配そうな顔をして一枚の紙切れを持っておられました。私はそれを受け取り、読んでみますと、本当に簡単に息子さんの名が書いてあり、「現在、行方不明。現在、捜索中。分かり次第、連絡する」と書いてありました。そうお伝えすると、「そうですか、どこかに居ればいいんですが、、、。」と心配そうで、私も心から早く居場所が分かり、良い知らせがあるようにと、お慰めして力づけるより他、ありませんでした。それから二、三週間経った頃にまた、電報が来ました。それは、息子さんの戦死の通知でした。「何と書いてありますか。」との問いに私はすぐ返事が出来ず、彼女の顔をじっと見つめて、「福島さん、お気の毒です。息子さんは戦死だと書いてあります。」と伝えました。彼女は「何かの間違いでしょう。もう一度読んで下さい」と云われました。私が間違いないことを知らせると、彼女は大声で泣きくずれてしまわれました。私も一緒に泣きました。本当にお気の毒で、どうすることも出来ません。ご主人も泣いておられました。7ヶ月の間、お隣同士で親しくさせて頂き、お別れする間際にこんな悲しい出来事に会うなんて、本当にお気の毒で、どうお慰めしたら良いか分かりませんでした。後にも先にもたった一人の息子さんと、もう永遠に会うことが出来ないなんて、親としてどんなに心痛むことであるかは、想像を絶することでしょう。どうか、お元気であって欲しいと願い、お二人の上に神様の平安を祈らずにはおれませんでした。