足跡(あ・し・あ・と) その6
H.房子さん


  
 先ず、お話を進める前に、少し伯母様の事を説明しておきましょう。
伯母様の名前は林サキと云って、主人の父のお姉様です(前回、叔母様と書きましたが、訂正させて頂きます)。林の伯父様の亡き後、「林商店」という、大きなgrocery店を一人で経営されていました。その店に行けば、何でも揃う、と言われるほどでした。使用人も二人位は居ました。Sacramento Countyにある小さな町で、Walnut Groveという町です。Sacramentoから流れて来る大きな河があり、日本を思わせるような町です。 そこに住んでいる人達は、日本人、中国人、白人、フィリピン人で、殆どが季節労働者です。Walnut Groveに住んでいる日系の若い人達や子ども達は皆、日本語が達者です。両親が日本語ばかりで話すからです。小学校も日本人と白人の子供達は別々の学校で学びました。面白い所です。ハイスクールになれば、皆、同じ学校です。

 林の伯母様には子供がありませんので、主人の妹を赤ちゃんの時に貰って、自分の子供として籍に入れ、それはそれは可愛がって一杯の愛情を注いで教育されていました。お琴からピアノ、踊りと習わせていました。 主人の兄姉は8人です。男子4人、女子4人の大家族です。今から70〜80年前の、昔のことです。その頃は日本人も白人も大家族でしたから、決して珍しいことではありません。お子さんの多い家では10〜12人ということもありました。私も8人兄妹です。私達の時代は家族の絆が強かったと思います。お互いに助け合い、学び、愛し合い、心の温かい家族でした。そんな境遇の中に主人も育まれ、愛されて来たのでしょう。いつまでも学生肌から抜け切らなかったようでした。

さて、私達は多くの方々の助けを頂いて新しい人生の第一歩を歩み出しました。Walnut Groveから新婚の楽しい住まいをStockton市に移しました。弟のロイはWalnut GroveからSacramentoのジュニア・カレッジへ通わせて頂いていました。翌年の初夏に長男のMichael* が誕生しました。出産の時は、妹の正代が手伝いに来てくれました。学校も夏休みであり、本当にどんなに助けられたか、感謝と嬉しさで一杯でした。このままの日々が続いていたら、どんなに平和な日々だったでしょう。

1941年12月7日の出来事です。朝のラジオを通して、日本のパール・ハーバー攻撃のニュースが入って来ました。本当に驚きでした。初めのうちは誰も信じませんでした。悪い悪戯だろうと言っていましたが、それから2, 3日してからお隣の方がFBIに引っ張られて行きました。暫くは行き先も告げられず、家族の方達は心配して、奥さんは泣き出したりして、それは大変なことが次々に起こってきました。日本がパール・ハーバーを攻撃したニュースが伝えられてから、日本人は全員、足止めされました。自分の町から5マイル以上離れたところにはどこへも行けなくなりました。私達はその前に、Walnut Groveの伯母様の近くに移っていました。

1942年2月、当時のFranklin D. Roosevelt大統領の命令によって、西海岸の日本人移民及び日系人が収容所に収監されることになりました。一週間足らずの間に送還されるのです。収容所に持っていけるのは、手に持てるだけの衣類、身の回りのものだけです。家を持っている人は家財を全てガレージに入れ、家を人に貸しました。(戦後、戻ってみると多くの家財が盗難に遭っていたようです。)また、自宅を持たない人は家財道具一切を安くで売らなければなりませんでした。私達も、結婚後やっと揃えてきた家財でしたが、足元を見て値切ってくる地元の人たちに安値で売らなければならず、夫婦で涙が出る思いでした。銀行に預けてあったお金もやがて凍結され、引き出せなくなりました。

住み慣れた土地を追われるように出ました。“戦争は必ず終わるから、それまでの辛抱”と思っても、皆、不安に大きく襲われました。でも、中には食べるのがやっとだった季節労働者の日本人移民には食事、寝場所が提供されるということでホッとする人たちもいたようです。 行き先はMercedと云う所でした。1,000人近い人々、あるいはもっと多くの人が居たかもしれません。とにかく大勢の人でした。一体、これだけの日本人がどこから来たのか不思議に思ったほどです。

私達家族は伯母様達と一緒に同じキャンプ(収容所)に入りました。(妹の正代は、友達と一緒にLos AngelsからWyomingの収容所に入りました。)私達は、MercedからAmach、Coloradoへ送られました。9月中旬頃になっていたと思います。見渡す限り荒地の砂漠にバラック棟が散在しています。10月の末からは雪が降ります。寒い風が吹きつけ、窓の外には雪が積もるのです。収容所は、まだ道など不完全で、雨でも降れば泥道になり、足場が悪く、滑り易くて本当に危険でした。男の人達は道作りにかり出されて、毎日が重労働の連続でした。そして、夏にはまるでオーブンの中のように焼けるような暑さが襲うところです。 ワイヤーが張り巡らされ、監視塔の立つ、収容所の敷地内には住居棟、シャワー棟、トイレ棟、洗濯棟、食堂、日用品を売る店などがありました。収容された人達の中に学校の先生や病院の医師、看護婦などがおられ、収容所の中でもそうした仕事が任されました。 収容された多くの家族の中には大きな問題を抱える場合がありました。あくまでも日本に忠誠を尽くしたい思いの父親と米国への忠誠を願う日系二世の息子との対立です。様々な葛藤の中で、多くの日系2世の若者達が米国兵としてヨーロッパの戦地に向かいました。(多くの2世が戦死しましたが、この時の勇敢な戦いぶりが報じられ、戦後の日系人への再評価に大きく貢献しました。)

そういう中にあって、主人は仕事があり、Colorado州のBoulder大学で日本語の読み書きを教えることになりました。私達はキャンプからBoulderへ転居しました。生徒は米国海軍将校でした。1942年11月から1944年8月までの2年間、私たち一家はBoulderで過ごしました。日本人に対する嫌がらせなどの迫害があったカリフォルニアとは違って、ここは白人の人達も私達一家に優しく接してくれました。やがて戦争も下火になり、新しく入学する生徒もなくなり、本田の仕事も終わりを告げました。それで私達家族はまた、収容所に戻ることになりました。

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