1935年、私が20才を迎えようとしていた、9月下旬、弟のロイが日本からアメリカに来ることになりました。まさか父がロイをアメリカに送るとは思ってもいなかったので、本当に驚きました。芝おじさん(私の両親が以前に世話をしたことから、何かと私達姉妹を助けて下さっていた方)、妹の正代と私は、ともかくサンフランシスコの港へ出迎えに行きました。
ロイは、父にアメリカへ行って働くようにと言われて、来たと言いました。しかし、彼はわずか15才、今の中学にあたる、高等小学校を卒業したばかりです。アメリカで働くといっても、何が出来るでしょう。私は芝おじさんと相談して、ロイを学校へ通わせることにし、入学の手続きをしました。1ヶ月後、15才のロイは小学校の2年生から勉強を始めることになりました。初めの頃は、本人は、小さな子供たちと一緒のクラスなので、いやいや通っていましたが、そのうちに少しずつ授業を理解できるようになり、1年、2年と勉強に励んで、3年目にはジュニア・ハイに入学できたのです。その時の喜びは、今も忘れられない想い出となっています。彼の努力が実ったのです。弟の顔は輝いていました。
妹の正代は、スクール・ガール(住込みで家事を手伝いながら、通学する女子学生)として白人家庭に入り、ロイは芝おじさんの家から学校へ通わせて頂きました。私は白人家庭に住込み、弟妹を見守りました。やっと全てが落ち着いて、貧しい中にも芝おじさんの温かい愛情に守られました。週末には3人でおじさんの家で楽しい休日を過ごすことができるようになりました。芝おじさんには心から感謝しています。おじさんの助けがなかったら、私達3人はどうなっていたでしょう。(その間も、私は自分の月給50~60ドルの中から20ドルを日本の父に送金し続けていました。それは日本円にして60円以上にもなっていた時代でした。)
そんな中にあって、私の人生に転機が訪れようとしていました。ある休日に芝おじさんの家で新聞を読んでいますと、“Stockton通信”のところの記事に目が留まりました。私は、自分の目を疑いました。なんと、日本で知り合いになっていた、ある人の名前が大きく掲載されていたのです。その人は、日本に留学中の日系2世で、私が日本に居た頃、熊本で会ったことがありました。その記事には、「Stockton葬儀社、日本人支配人
本田義一氏」とあり、その活字の上には見覚えのある彼の写真が載っていました。確かに私の知っている本田さんであることが分かりました。(まさか、義一さんが?
アメリカへ?)彼がアメリカに戻って来ておられるとは夢にも思っていませんでした。まだ、日本の明大で学んでおられるとばかり思っていましたので、この新聞を見て、どうしてアメリカに、と大きなクエスチョン・マークが頭を巡る思いでした。
それで、とにかく彼に手紙を書いてみました。すると、彼から折り返し返事が来ました。それによると、1937~38年頃から日本の情勢がおかしくなり、何となく日米戦争になる気配を感じたので、学校をやめて帰米したということでした。そうした不思議な巡り合わせで再会の日が与えられ、彼とは1938年から40年と2年間の交際が続きました。
そのうちに彼の叔母さまを通して彼との結婚のお話がありました。でも、私は「今すぐには結婚に踏み出せません。まだ在学中の弟妹がおり、せめて彼らが学校を出て一人前になって仕事に就いたら私の責任は果たされたことになります。それまでは、結婚のお話はお断りするよりほかありません。」と叔母さまに申し上げました。それからしばらくは、結婚の話は出なくなりました。
ところが、ある日、彼と叔母さまが芝おじさんの家にいらっしゃいました。彼と私が結婚して、弟妹も私達と一緒に住み、彼らは、そこから学校に行ったらどうかというお話でした。結果的には妹の正代は芝おじさんの所に居て、弟のロイは私の嫁ぎ先から通学するということで、トントン拍子に彼との結婚話が進みました。1940年の9月に結婚へとゴールインし、叔母さまの家でのホーム・ウエディングで、ささやかながら、50人前後の方々の祝福のうちに式を終えることが出来ました。彼が27才、私は23才でした。今、思えば、本当に若く、世の中のことは何も分かっていない娘時代であったことを思うと良く決心がついたと、今更ながら感慨深く、当時を偲んでいます。
両親の助けはなくても、周囲の方々の助けによって新しい人生の第一歩を踏み出すことが出来ました。それは友や、また思い遣りがあり、優しい叔母さまの、言葉に表すことの出来ない、心配りがあったからこそと思います。あの日のことを思い、感謝の念は尽きません。一生涯忘れることは出来ないでしょう。
「人は、一人立たず」という言葉があります。一人の人間が、その一生を全うするためには、どれだけ多くの人々がその周囲にあって、その人を助け支えたかは、とても数えることが出来ないでしょう。私が今日まで来られたのも、そこには多くの人の温かい労わりと慰め、励まし、また支えがあったからです。感謝の思いは尽きません。