足跡(あ・し・あ・と)= その4 =

H. 房子

 日本の家族に送金するために必死で米国で働いている父には想像もできないような、義母の日本での生活でしたが、義母には自分のしていることに恥じるようなそぶりは全く見られませんでした。何一つ反省の様子も見られず、「恥も外聞も彼女の心の中にはないのだろうか」と私の心は義母への憤りで一杯になりました。もし、あの時、私が信仰を持っていたら、義母のために祈りに祈ったことでしょう。でも当時の私は、義母の乱れた生活を見ていると、彼女の不貞をとても許せませんでした。何とか義母にあるべき姿に返って欲しいと、どんなに願ったことでしょう。米国の父にはその事実を知らせたくはありませんでした。“あれは、ただの噂でした”と知らせたかったです。でも、それでは私は何のためにわざわざ米国から日本に帰って来たのか、、、と自分に言い聞かせました。父に書かなければならない、本当のことを、、、と思いました。父に義母の様子を伝える手紙を書く私の心は重く、ペンはなかなか運びません。妻を心から信じ切っていた父が、この手紙を読んだら、どんなに気落ちするかと思うと、父が可哀想になって来ます。何とか書き上げて出した私の手紙に米国の父からは何の返事もありませんでした。

 4,5ヶ月も過ぎた頃でしょうか、ある朝、家の前にタクシーが停まりました。義母は家の中からタクシーが停まったのを見て、「誰だろう、今頃、タクシーが停まる筈はないのに、、、。」と独り言を言いました。車から降りて来た父と兄の姿をみて、母はびっくり仰天、裏口へ駆け込んで「あんた、あんた、田上さん(父のこと)が帰って来た!」と叫びました。その頃には家に入り浸るようになっていた、相手の男性は、「何!田上が帰った?」と言うが早いか、家を飛び出して、裏庭の高い塀を飛び越えて、隣家へと逃げ込んだのです。義母は、表口へ出て行って、父に「お帰りなさい。知らせて下されば、お迎えに行きましたのに、、、。」と挨拶をしていました。父の様子は平静に見えましたが、母に対しては、一言の言葉も掛けることはありませんでした。そんな父を前にして、さすがにしょんぼりとした義母の姿を見ると、今度は、義母が哀れで、可哀想に思えて来ました。父は米国の繁盛していた豆腐店を閉じ、帰国して来たのでした。間もなく弁護士との話し合いの上、義母と離婚しました。言い開きもできる訳のない母は、連れ子の娘を連れて、実家へ帰って行きました。哀れで、哀れで本当に悲しいことでした。

 やがて、父は私に米国に一人残っている妹を連れて帰るようにと、再び私を米国に送りました。ところが、米国で学校に通った妹は日本には帰りたがりません。それなら、私一人で帰国しなければと思い、帰りの旅費を作るために白人家庭で housekeeper として働きました。旅費ができた頃、盲腸炎になり、入院、手術で貯めたお金はすっかり消えてしまいました。そんな予想外の出来事にも楽天家の私は、“また働けば良いわ”と思った程度でした。私が housekeeper として働いた家庭は、日系人の小作人を大勢抱える大地主の白人家庭でした。当時、日本人の housekeeper は真面目で良く働くので信用されていました。私の雇い主の家族は、私を使用人扱いせず、夏には山荘にも一緒に連れて行ってくれるなど、とても親切にしてくれました。

 私はその家庭で白人社会の生活や文化、マナーなどを学びました。その家庭の夫人は心の温かい人で、私が何か失敗しても決して人前で注意することはなく、あとで2人きりの時に自分でやって見せて、私に教えてくれるような人でした。私のことを「Fusha」と呼んでいました。ある日、ランチでお客さんが何人か集まった時のことです。夫人が私に "melt butter" を持って来て、と言われました。私は「メル・バター」って何だろうと思いましたが、若かった私は、人前で「それは何ですか」と聞くのが恥ずかしくて、そのままキッチンに戻りました。「メル」って "milk" のことかもしれないと思い、何とミルクの中にバターを浮かべて、夫人の元に持って行きました。そんな私の勘違いを笑ったり、怒ったりすることもなく、夫人はキッチンに私を連れて行き、「Fusha, こうしてmelt butterを作るのよ」と言って、教えてくれたのでした。このご家族が、私が生まれて初めて出会ったクリスチャンでした。

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