足跡(あ・し・あ・と) --
その3--
H.房子さん
三年後(1932年)に妹の正代(当時14歳)が渡米し、私たちの元へ来ました。妹が加わり、家の中は一層明るくなりました。楽しい日々が続き、お料理も買物も一緒にする事ができ、生き甲斐を感じました。17歳の私はフォードの車を運転し、お友達の所へ遊びに行ったり、日系人の集まりで、ピクニック、お花見に行ったりしました。当時、サンノゼは果樹が一杯ありました。3月から4月にかけては、サクランボ、アプリコット、プラム、梨、林檎などいろいろな花が一杯咲き乱れ、“花のサンノゼ”と云われていたのです。自動車もあまり通っていない時代でした。 妹が来て一年位した頃から日本の叔父(実母の弟)から思わしくないニュースが入って来るようになりました。最初のうちは、父はあまり気にとめていない様子でしたが、あまりに頻繁に手紙が来るので、さすがに父も少し心配しだしました。ある日、父は私を呼び、「房子、日本に帰ってみないか」と云うのです。 「えっ、日本へ。何故。」父の顔は少し曇っていました。それでも私は父に「どうして」と再び聞きました。 どこまでも義母を信じ切っていた父は云いました。「お父さんは、お母さんを信じている。でも日本という国は、ちょっとの事でもすぐ噂をする。女が一人でいると、何でもない事でもすぐに話が大きくなる。本当のことを確かめるために、房子、日本に帰ってくれないか。」 その時、私は19歳になっていましたが、世の中のことは何も分からず、この話を父から聞いた時は、恐ろしさと不安とが胸に押し寄せて来ました。「噂が事実であったら、父が可哀想だ。アメリカでせっせと働いて、毎月生活費を仕送りし続けて、4年も過ぎている。」あと1年位で帰国しようと予定していた父でした。 父は心を痛めました。私も日本にいる祖父母、弟妹のことを思うと、不安が膨らんで来ます。多くのことが私の頭の中を駆け巡りました。「この噂が、嘘か本当か、アメリカに居ては分からない。日本に帰ってみよう。私が帰ってもあとは妹の正代が代わって父の手伝いをするから大丈夫。そうだ、日本に帰ろう。」と私は決心しました。 こうして1934年の3月に私は日本へ帰りました。家に帰ると、義母は喜んで迎えてくれました。弟妹達は恥ずかしそうで、それでも嬉しそうな笑顔で皆私のそばに近寄って来ました。みんなをしっかり抱きしめると目頭が熱くなりました。 米国へ行く前と変わっていたのは、義母がまた飲食店を経営していたことでした。妹の静子はその店の手伝いをさせられていました。私は時を見て、静子に云いました。「あなたは女学校に行くべきよ。」彼女は云いました。「春子さん(母の連れ子)は女学校に行っているけれど、私はお金がないからと、やって貰えなかったの。」 それを聞いて私は驚きました。父は仕送りは十二分にずっと続けているのに、一体、どうなっているのでしょう。祖父母に聞いても、何も分かりませんでした。ある日、義母の機嫌の良さそうな時を見計らって聞いてみました。「お母さん、一寸聞きたいのですが、静子はどうして女学校に通っていないんですか。」「あっ、そのことはね、房子さん、春子を女学校に通わせているのは、私の兄が月謝を払っていてくれているんですよ。」と母は言いました。 私が父は毎月充分に学費も送金しているはず、と言いますと、義母はあれでは生活費が精々で、学費までは足りないと答えました。私は、開いた口が塞がらないとはこのようなことを云うのだと思いました。義母と云い合っても仕方ない、と私は口をつぐみました。 私が帰日して数ヶ月は、別に変わったこともなく時は過ぎましたが、6月に入ったある日、一人の男のお客さんが店に入って来ました。お酒を飲んでいたようです。その時はすぐに帰って行きました。気づかれぬように義母の行動に注意するというのは、若い私にとっては、実に嫌な役目でした。そのうち、同じ男の人が来るようになり、その度に店に居る時間が長くなって行くのに気づきました。この男の人が噂の人なのかもしれないという予感がしました。 やがてある暑い日、一人の女の人が私に会いたいと云って来ました。会って見ると、この人はあの男の妻というのです。「夫が家に帰らないのです。小学生の2人の男の子がいて、私は畑仕事に追われ、とても辛いです。どうか家に帰るようにあなたから云って欲しいんです。」と云われます。 私は彼女が気の毒になりましたし、義憤を感じずにはいられませんでした。彼女を慰め、きっとご主人が帰られるように義母から伝えさせます、と云って彼女を帰しました。「やっぱり、あの男の人だったんだ、義母が深入りしているのは。」 私は心が波立っていては話ができないので、二、三日してから義母に男の人の奥さんが来られたことを話しましたが、「房子さんが心配することではないですよ。」 と薄笑いさえうかべている義母でした。義母の生活の乱れも分かりました。その上、弟妹達には学用品のお金さえ渡さない様子も分かって来たのでした。 |