母の急死の一年半後、世話する人があり、父は再婚しました。相手は隣町で飲食店を経営していた人で、9歳になる春子という女の子のいる未亡人でした。父は再婚したら、新しい妻と一緒に再びアメリカへ行く心づもりのようでした。昭和4(1929)年3月、夫婦で福岡のアメリカ領事館へ渡米の手続きに行きましたが、運悪く、母はトラホームだったらしく、まず眼の治療をしなければいけないとのことで、渡米は一時延期となりました。数ヶ月後、再度、領事館を訪れた時、夫婦を待っていた答えは、数日前に米国の移民法が変わり、米国の市民権を持たない者は米国に入国できないというものでした。その時、父達はどんなに失望したことであろうかと思います。
父は、米国生まれで市民権を持つ兄と私の2人だけを連れて渡米することに決めました。共に渡米できなくなった義母は、日本に残り、新しい家族(私の弟妹5人、祖父母、義妹を含めて8人)を守って、暮らさなければならない立場に置かれたのでした。兄は通っていた簿記学校も中途で退学し、私は何とか日本で小学校を卒業したいと思いましたが、6年生になる前に学校をやめるよう父に云われたのでした。
1929(昭和4)年10月、私達親子3人を乗せた「大洋丸」は、長崎港から途中、ハワイに寄港し、サンフランシスコ港までの14日間、大勢の出稼ぎの日本人を乗せて太平洋を進みました。船には一等、二等、三等船室があり、乗船料は三等船室でも、実に高いものでした。私たち親子は三等船室に入りましたが、そこには堅い二段ベッドが作りつけられていました。私は3日ほど船酔いで、ぐったりしていましたが、父に「起きなければダメだよ。」と言われて起き上がりました。でも三等船室には調理場からの臭いが、よく漂ってきました。その臭いを嗅ぐとまた気分が悪くなるので、新鮮な空気を吸いに甲板に出ました。船には出稼ぎのため渡米する家族の子供がいましたが、小・中学生位の年齢で、米国に居る親元に呼び寄せられ、一人きりで船旅をしている二世の子どももたくさんいました。私はそうした子どもたちと友達になり、船で一緒に遊びました。
サンフランシスコの港が見えるのが待ち遠しくてたまらなかった、ある日の昼頃、遠くに大きなビルが見え、やっと着いたことを知りました。私は、父や兄と一緒でしたので、未知の世界に入って行くことに何の不安も抱いていませんでした。下船すると移民局の人たちによって健康診断がなされました。健康に問題がある人や初めての渡米で保証人が迎えに来ていない人などは留め置かれました。サンフランシスコの町を初めて歩いて驚いたのは、アメリカ人の背の高いことでした。五尺足らずの私から見上げると恐いくらい高かったのです。また、髪の赤い人、金髪、銀髪の人、、、。田舎娘の私には目に入って来るもの一つひとつが驚きでした。向こうの人が子どもの私を見てニコッと笑ってくれても、私はビクッとしてばかりいました。
日系人経営の「熊本屋」旅館に一泊し、翌日からサンマーティンという、ギルロイの近くにある小さな町にある、父の友人で茂見さんと云う方のお家に一週間ほどお世話になりました。そこから父は毎日、家を探しに出かけました。そしてミルピタスに一軒の家を借りることが出来ました。早速、その家に移りましたが、豆腐を作るところは住居の一部を充てるのではなく、別に建てなければいけないことが分かり、父は急いで増築の手配をしました。11月から始まった建築が、1月過ぎには完成し、立派な一軒の豆腐製造所が出来上がりました。その翌日から私は朝の4時に起こされて父の朝食の支度をし、父が食事する間、私が代わって豆腐作りをしました。父の食事が済むと、兄と私は一緒に朝食を食べましたが、食後は兄は学校へ、私は家で父の仕事の手伝いと決められました。父は、「兄さんは男だから勉強しなければいけない。房子は女だから結婚したら、ちゃんと主人が何でもしてくれるから、、、。」と云い、私は学校に行くことが出来ませんでした。16歳の兄は、英語が出来ないため小学校に入れられ、小さな子供達と一緒に机を並べなければならず、兄の学校生活は辛かったろうと思います。父はギルロイやサンロレンゾまで仕事の足を延ばし豆腐の商売をしました。父は毎日張り切って、一生懸命働きました。豆腐一丁10銭、ガソリン1ガロン17銭という時代でしたが、毎月日本の家族にかなりの額の送金をしていました。父が出かけた後、私は、あと片付けなどで忙しい1日でした。でも、私と同じ年頃の子供達の、学校帰りの姿を見ると、『いいなあ、私も学校へ行ってみたいな』と何度思ったことでしょう。
1929(昭和4)年、米国は不景気の只中にありました。フーバー大統領からルーズベルト大統領に代わった年でした。多くの実業家達が破産し、大きな銀行が閉鎖され、シカゴやニューヨークから多くの失業者が毛布一つ持って、カリフォルニアに職探しに来ていました。ミルピタスの町を通過する貨物列車に、無賃乗車なのでしょうか、溢れるほどの人々が乗っていました。ある朝、見るからに上品で教養もありそうな白人の人が私の家にコーヒーを恵んでくれ、と云って来ました。私は気の毒になり、パンも一緒にあげました。すると、人づてに聞いて何人もの人が物乞いにくるようになりました。ある時、何もあげるものが無くて、揚げたての油揚げをあげたら、「これは何?」と聞くので、私は「ビーンズケーキのフレンチフライ」と言いました。私が醤油をかけてやると一口食べましたが、あまり嬉しくなさそうでした。それからはあまり物乞いの人も来なくなりました。(今の不景気な米国の町もホームレスの人たちで一杯です。この人たちのためにも祈らなくてはなりません。)