足跡(あ・し・あ・と)
H.房子さん
1900年代の初め頃、カリフォルニアには九州や広島などからたくさんの日本人が出稼ぎにやって来ていました。熊本出身の父もその中の一人でした。(父の兄弟はハワイに出稼ぎに出ました。)父は、鉄道会社で車両等の点検の仕事をしましたが、しばらくして一度帰国し、母と見合い結婚しました。この時、豆腐屋になることを決め、豆腐作りの修業を積んだ後、今度は夫婦で米国へ渡って来ました。古いトラックに豆腐を積み、まだ一日に数台しか車の通らなかった細い道を運転し、小作農として働く日系人の間を回って商売をしました。その当時、日本人の出稼ぎ人の多くは白人の地主に雇われていましたが、英語ができないために収穫の取り分をごまかされても、泣き寝入りするしかなかったような時代でした。 あたり一帯が、りんご、梨、あんず、サクランボ、苺畑だったサンノゼの日本町で1916年(大5)に第二子、長女として私は生まれました。私が生後6か月の頃、母は兄と私を連れて日本に一時帰国しました。母はその時、第三子を妊娠しておりました。兄とやがて生まれてくる子を母方の祖父母に、私を父方の祖父母に預けるための帰国でした。当時、日本の出稼ぎ夫婦の多くは、このように子供達と別れざるを得なかったのです。歯を食いしばって何年かの重労働に耐え、そうして蓄えたお金を日本に持ち帰ることが出稼ぎ夫婦の責任だったのです。母は1年程、日本に滞在し、妹を産み、私が2歳の時に子ども達を日本に置いて、カリフォルニアに戻りました。母親が渡米する時、子供心にも母親との別れが分かったのでしょう、私は祖母の背中で大泣きし、やがて疲れて寝入ってしまったそうです。 兄と妹は熊本県甲佐町、私は熊本県上益郡という田舎で別々に育てられました。両親が懸命に働いてそれぞれの祖父母宅に生活費を送金してくれました。父方の祖父は中途失明をしており、祖母も白内障のため、かすかにものが見えるという程度でした。私が幼い頃は隣家の本家に貰い水をしていましたが、私が小学校に上がってからは水汲みが私の仕事になりました。学校が終わると両端に水桶を下げた天秤棒を肩にかつぎ、歩いて10分ほどの共同の井戸まで水を汲みに行きました。家の大きな水瓶を一杯にするには、その井戸まで3、4往復しなければなりませんでした。でも子供だった私は、それを特に苦にするわけでもありませんでした。ただ、雨の日は滑りやすく、坂道で石につまずいて転んだりした時は情けなくて、ワンワン大声を上げて泣いてしまいました。また、かまどの焚きつけの柴や杉の枯葉を集めるのも私の仕事で、一人で歌を歌いながら集め、それらの仕事を終えると友達と遊びに外に出て行きました。 ある夏の日、いつものように水桶を担いで家に戻る途中、家庭訪問で我が家を訪れた小学校の先生の姿が見えました。私は天秤棒を担いだ自分の姿が恥ずかしくて、顔を真っ赤にしたまま、立ちすくんでしまいました。先生はニコニコして「偉いねえ、ばあちゃん孝行してるねえ。」と褒めてくれましたが、私は恥ずかしくてどうしていいか分かりませんでした。次の日、学校へ行くのが嫌で、嫌で、足が重かったのを覚えています。学校で授業中、先生が「今日は皆さんにお話ししたいことがあります。田ノ上(旧姓)房子さん、前へいらっしゃい。」と手招きされます。おずおずと前へ行くと、先生は「房子さんは、学校から帰ると目が不自由なお祖母さんに代わって、毎日水瓶をいっぱいにするのに何回も井戸から水運びをしているんですよ。皆さんはどうですか、おうちでお手伝いできていますか。」とおっしゃり、「みんなで房子さんに拍手しましょう。」と言われました。みんなが手を叩いてくれたのですが、私は照れくさく、恥ずかしい気持ちで顔が真っ赤になりました。先生のお話のお蔭で放課後、急に大勢のお友達が私の周りに集まるようになったのでした(それは三日とは続きませんでしたが、、、。) お手伝いが終わると、活発な女の子だった私は、蜜柑や栗の畑を駆け回ったり、木登りをしたものでした。ある日、柿の木から落ちて足を怪我しました。それを見た祖母は「柿の木に登ってはいけないよ。柿の木から落ちると、3年経ったら死んでしまうんだよ」と言いました。私はその言葉が怖くて頭から離れませんでした。1年経つと、「ああ、あと2年で死んでしまうのか」と怖くて仕方ありませんでした。そして3年経ったとき、「私、死んでしまうの?」と聞くと、祖母は「お前がもう登らないようにと思って言ったんだよ。」と言いました。私は、ほっとして「私、死なないね。」ともう一度、確かめました。「ああ、死なないよ。」と祖母は繰り返しました。柿の木の枝は折れやすく危ないから、もう私が登らないようにということを祖母はそんな形で教えてくれていたのでした。秋になって柿の木を見ると、今もこの祖母のことが懐かしく思い出されるのです。 祖父の思い出としては、失明した祖父の手に肩を貸して時々、一緒に町へ出かけていったことです。ある引退した教師の方に父宛の手紙を代書して貰うためでした。「おとっつあんに手紙を送らなきゃ」と祖父が言うと、祖父の手を私の肩にのせ、その人の家までゆっくりと歩いて祖父を連れて行くのが私の役目でした。でも、時折、町まで買い物に祖父を案内するのは、とても嫌でした。それは、たまたま同級生に出会ったりすると、「めくらの爺さん、めくらの爺さん」とからかわれるのが辛かったのです。「お菓子を買ってあげるから」という祖父の言葉につられて、出かけるのですが、同級生にからかわれたりすると急いでとっと、とっとと歩くので、祖父の手が私の肩から離れてしまい、祖父は困って「そんなに怒らないで、房子。」と言うのでした。今から思うと祖父に可哀想なことをしたと思うのですが、7,8歳の子供だった私には、そこまで考えることはできませんでした。 「6年だけ子供達を預かって」と言って再渡米した母でしたが、予定は1年延びて私が9歳の時、両親は日本へ帰ってくることになりました。「もうすぐお母さん達が帰ってくるよ。そしたら、『お祖母ちゃん、お祖母ちゃん』といつもばあちゃんのとこへ来てはいけないよ。お母さんのことをちゃんと『お母さん』って呼ぶんだよ。」と祖母は私に何度も言い聞かせました。母の顔すら覚えていない私は、よく分からないまま、「はい」と答えるしかありませんでした。帰国してきた両親には第二の家族が出来ていました。4歳、3歳、2歳の二人の妹、一人の弟を連れて帰ってきたのです。私はまるで知らない人達の中に放り投げられたような気持ちで恥ずかしくて、家族の顔も見られず、また両親のことを「お父さん、お母さん」とはなかなか呼べませんでした。初対面の弟妹たちにいきなり親しみを感じることもできませんでした。しばらくしたある日、勉強の邪魔を続ける幼い妹を思わず手で払いのけたのですが、たまたま持っていた鉛筆の先が妹の額にあたり、芯がささってしまいました。大声で泣き出した妹を見て、母は訳も聞かずに「あんたは姉さんでしょ。」と私を叱りつけました。いつもそうでしたが、私は一言も言葉を返すこともできず、あまりに悲しくて祖母のところへ行きました。でもそこでも「弟、妹がいるんだから我慢しなさい」と諭されました。いつでも「姉さんだから、、、」と言われ続けました。 私が11歳になると、私の家族は甲佐町へ転居し、米国での稼ぎを元に呉服屋と雑貨店を開きました。使用人も4,5人抱え、手伝いの人も雇い、恵まれた生活をしました。呉服屋の屋号は「恵神屋」と言いましたが、米国帰りで商売には不慣れな母は、客に値切られると駄目とは言えず、お客は多かったのですが、やがて赤字ギリギリの状態になりました。父はそんな状態を見て、もう一度、米国で1年だけ稼いで来ようと思ったようでした。母は父の再渡米を反対しました。母はもう一人の子をお腹に宿していたのでした。せめてその子が生まれてからと言う母に、父は「初産じゃないのだから、、、。」と言って予定通り一人で米国へ旅立ちました。その後、子供達と残された母は妊娠7ヶ月の時、腎臓を悪くしました。もう妊娠を続けることは母子の命に関わる危険があるということで、8月に母のお腹の子どもを取り出すことになりました。その手術のため熊本市の大きな病院へ移る前に、町の病院にいる母に私は呼ばれました。母の元に行くと、母は私の顔をじっと見つめていました。やがてその両目に水晶のような涙があふれ、ポロポロッと流れ落ちました。その母を見ながら、私は子ども心に"一体、何だろう。大変なことが起こるのだろうか"と不安で一杯になりました。母は、「房子、明日はお母さんは手術で市の病院に行くので、しばらく家には帰れないから家のことを頼んだよ。」と私に言うのでした。12歳だった私は「はい、わかりました」としか言えませんでした。すると母はにっこり笑いました。それが、私が見た母の最後の笑顔でした。 母のお腹の子どもは妊娠7ヶ月で手術で出されましたが、当時の医療技術は進んではおらず、生後一週間で短い命を終えました。「露子」とつけられたその名のとおり、はかない命でした。大きな手術に臨んだ母は、手術は無事に乗り越えました。しかし、術後数日して熊本で大地震がありました。天井から吊るされた電灯は大きく揺れ、ぶつかり合って粉々に割れ落ち、付添いの看護婦も逃げてしまったのでした。母は、怖くてベッドから下りようとして倒れてしまいました。術後の容態が悪化したのか、地震によるショックか定かではありませんが、数時間後、医師が病室に来た時にはもう息が絶えていたそうです。家に帰って来た母の遺体は毛布に包まれ、まるで丸太のようにドンとおかれました。その光景は私の脳裏から離れません。私は、これがあの母かとびっくりして、変わり果てた母の姿を見ました。茫然として、泣くに泣けない思いでじっとしていました。米国の父に「キヨシンダ スグカエレ」の電報が打たれましたが、父が、商売の店をたたんで整理し、帰国できたのは、翌年の4月でした。その間、母方の叔父は父の許可もなしに店の品物を売り払ってしまい、帰国した父は「何でこんなことを、、、。」と絶句しました。こうして12歳の私は、やっと一緒に暮らせた母ともたった数年で永遠の別れをし、父は米国で懸命に働いて得た蓄えと苦労を共にした妻とを失ったのでした。 |