アーラヤ識に眠る「品格」
はじめまして。
奈良・興福寺に奉職しております夛川良俊(たがわ りょうしゅん)と申します。
1966年10月19日生
1979年 得度
1990年 興福寺に奉職
2003年 法相宗竪義加行成満
2005年 興福寺執事就任
生まれて已来、日記なんぞ書いたこともないのに、浄土真宗の知人からプログの依頼がきてしまった・・・・・
これも”縁”のめぐり合せと思い、拙文を承知の上で、よろしくお付きあい願いたい。
最近、”品格”という言葉をしばしば耳にする。
”国家の品格””社長の品格”、また”ハケンの品格”というテレビドラマもあった。
そして今話題となっているのが”横綱の品格”。
そもそも”品格”とは一体何なのか。
思うに、その人がこれまでに培った人生経験が身体の内外に醸し出す特定できないもの――、と言うことはできるだろう。
これまで何を経験し、その時どう感じたのか、そうした行為の積み重ねが人間形成の大きな要素だと言える。
法相宗唯識の教えに、”アーラヤ識”という我々が自覚(意識)できない心の領域があり、そこには、過去における個々人の身体的な行為や、心の中で思った事柄のすべてが種子というカタチで蓄えられていて、それが因となって、ただ今の行為をつくりだしていると説かれている。
ということは、アーラヤ識に眠る種子も品格の一部分と言えるのではないだろうか。
社会的地位や立場がかわったからといって急に品格は備るものでもないし、ある程度の年齢に達しなければ表れてこない品格もある。
然るに、品格は非常に流動的な面もあり、時には”あれほどの人格者が”と思われている人が世間を騒がす事件を起こしている。
過去の人生経験をどのように生かし、これよりどのような行為を修めながら品格を磨くのか―――
いずれの宗派も説く佛教の真髄であり、最も重要な事項だと思う。
- 投稿者:fukui
- 日時:17:12
comments
多川管長殿
はじめまして。松本と申します。興福寺友の会の会員を25年続けさせていただいております。このブログがあることを知り、投稿させていただきます。
品格という言葉が世間をにぎわすほどに品格が忘れられました。自分の仕事をまっとうできない社会人がたくさんいる中で品格まで及ばないのが現実でしょう。その中で品格を維持し、指し示すことこそ、倫理学者としての宗教家の意義だと思います。仏教を葬式宗教にすることなく、生命哲学として、指し示していただくことこそ大切であると思います。今後の御活躍に期待いたします。
今回の特別公開、伺わせていただきます。
松本 一