鹿のはなし
テレビドラマで”鹿男あおによし”が放送されている。
主人公が春日大明神の使いである鹿から託宣をうけて、奔走するという物語らしいが、いまひとつ内容がよく伝わってこない。
奈良といえば鹿と大仏に代表されるが、もともと奈良の鹿は、768年の春日社創建において、常陸国から鹿島神の分霊を大和へ運ぶために遣ってきたのがはじまりで、以来、神鹿とされ崇拝の対象であった。
京の藤原貴族が春日社参詣で鹿に出会うと、御車からおりて深々と鹿に礼拝し、日記には”誠に吉祥なり”と残している。
こうした内容が散見されることから、当時の鹿の頭数はごく少数であったと思われる。
中世の頃までは、鹿を殺めると女、子どもでもお構いなく斬首刑とされ、また、興福寺の若い僧には、神鹿保護のために”犬狩”がカリキュラムとして課せられていた。
江戸の名物といえば、”武士、鰹、大名小路、広小路、茶屋、紫、錦絵、火消に喧嘩に中腹、伊勢屋、稲荷に犬の糞”とうたわれ、江戸の町には犬が多かったらしい。
大和の名物は、”大仏、鹿の筆巻、あられ酒、晒、奈良漬、奈良茶粥、春日灯篭、町の早起き”とあり、この”早起き”が鹿と大きく関わっている。
というのは、夜が明けて自分の家前で死鹿があれば、大事件となり役人が来てそのまま家主が連れていかれて大変なお咎めにあう。
もし死鹿があれば、すぐに隣家の前に移すために、誰よりも早く起きるという習慣が生まれ、寝坊は最後に酷い目にあって損をするという伝承があった。
あくまで伝承の域を出ないが、奈良町の人にとって鹿は、畏れ多い存在でもあったようだ。
近松門左衛門が草した浄瑠璃に「十三鐘」という三作石子詰の悲しい物語がある。
昔、父を幼くして失い興福寺に入寺した三作(さんさく)が、小僧仲間と書道の練習に励んでいると、三作よりも大きな鹿が現れて大切な清書紙を食べてしまった。
当時は紙は大変貴重で高価なものであり、鹿を追い払おうと三作が咄嗟に投げた文鎮が運悪く鹿の急所にあたり息絶えてしまう。
鹿殺しは子どもと雖も死罪が慣例の世で、三作の母は号泣して許しを乞うが受け入れられず、とうとう三作は死鹿とともに生き埋めの刑に処された。
母は日々線香を手向けて三作を供養するが、自分が亡くなった後に誰がこの子を供養してくれるのかと思い、三作のためにそこへ紅葉を植樹したというあまりにも残酷で涙をそそる物語である。
紅葉はいわば三作の化身であり、この浄瑠璃から花札に見られる鹿と紅葉の組み合わが生まれたらしい。
”シカトする”という言葉も、鹿十(しかと)から発生したという(俗説)。〈ト:
紅葉の十月に因む〉
三作石子詰の供養塚は、興福寺菩提院・大御堂脇にひっそりと祭られている。
(写真は供養塚。石亀は、あまりにも短命であった三作に、来世での長寿を願ったもの)
- 投稿者:fukui
- 日時:23:47
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