桜と酒

境内や奈良公園の桜が開花し始めるなか、今年こそは吉野山千本桜の花見を、と思いながらも、毎年その時期を逃している。
名所・吉野山の桜も、明治の殖産・富国強兵の頃には、不経済なものと伐採されたらしく、「桜だ!花見だ!」と現を抜かしてられない大変な時代があったようだ。

平安末期より江戸時代にかけて、興福寺においては、吉野山の桜を用いた『春日版』と称する木版で、多くの経論が刊行されている。
桜の木は堅く版木に適していたことから、経典の量産、流布のためには欠かせないものであった。
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春日版木(写真)

吉野山で、秀吉が、徳川家康前田利家伊達政宗らの武将の他に、茶人や連歌師を引き連れて盛大な花見を催行したことはよく知られているが、抑、日本人が桜を愛でるようになったのはいつごろからなのか・・・。
因みに、学問の神様・菅原道真公は、桜よりも梅を専ら愛したと伝えられている。

『万葉集』には、吉野の山桜の歌は一首もない。『古今和歌集』(905年頃成立)に収録される紀貫之の歌に、

”越えぬまは 吉野の山桜 人づてにのみ 聞きわたるかな”

と詠まれ、ここに初めて吉野山の桜が登場してくる。
1006年頃成立の『拾遺和歌集』には桜の歌も多く収められ、さらに下った西行法師の頃には、吉野山が言わずと知られた桜の名所に定着していたようである。

県の花(シンボル)とされている「八重桜」は、かつて、興福寺歓禅院の東円堂脇にあり、宮中の要望に応えて藤原道長や紫式部を通して一条天皇にその桜枝を献上している。
江戸期刊行の『大和名所図絵』にその桜が紹介されているが、明治の廃仏毀釈で歓禅院は上地となって壊され、現在は、石碑の側に新たな八重桜が植樹されている。

史料における”酒”の初見は、750年の孝謙女帝の春日酒殿に行幸(『続日本紀』)の記事で、この頃にはすでに、神に捧げる神酒が社で醸造されていたものと思われる。
人の口になかなか入ることのない貴重な神饌であったようだ。

古来、稲の神を”さ”と呼び、早苗(さのなえ)、田植の五月は”さのつき”、”さ”の降臨する依代が”サノクラ”で”桜”と称され、現在も桜の開花状況によって田植の日が決められているという。
神饌である酒の語源も”さ”の気(神の活気)をいただくことの”サノケ”から
”サケ”に転訛したもので、桜花の下での飲酒は、我々農耕民族のDNAに組込まれた業であり、神事とも言える。

中世の興福寺傘下の菩提山・正暦寺では、酒造が量産されていた。
安土城で信長が家康に饗宴した際にも、この醸造酒(南都諸白)が提供され、好評であったことが興福寺僧の『多聞院日記』に記されている。
もとより、僧侶の飲酒は仏教の戒律で禁じられているが、戒めを記したの文中に、”是の如くにして出来上がったもの飲んではならない”と、そこには酒造りの工程が具に記されていたらしい。
禁じられたことほど、やりたくなるのが人間の悲しい性であり、寺院での酒造が盛んになったことも頷ける。

秀吉の弟・秀長が大和郡山城主となると、秀吉はこれまでの興福寺の醸造業をきびしく制限し、酒造の場も京都伏見に移し、南都の酒造は衰退の一途をたどるようになる。

江戸時代になると、船輸送が発達し、大坂の港には至る所から米が集められるようになる。港近辺では、米よりも利潤の多い酒造りが盛んになり、次第に酒蔵が軒をならべ、やがて”灘の酒”として遠地にも知れわたるようになった。
当時、世界最大の人口過密都市の江戸へ、吉野山の杉樽で年間90万樽ほどの酒が上方から菱垣廻船で運ばれていたという。
上方の酒は上品で値も高く江戸では”下りもの”と称賛されていた。
江戸では10万樽ほどの酒が醸造されていたが、あまり需要がなく、どこへも”下らないもの”だったらしい(あくまで、江戸時代のお酒の話)。

今年も、満開の桜の下で酒を嗜み、日本の国が平和でありつづけることに、無上の幸せを感じている。

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comments

多川良俊様のお人柄が伝わってくるブログですね。
更新楽しみにしています。

  • yuming.w
  • 2008年04月28日 13:06

やはり、「不許葷酒入山門」は「葷酒山門に入るを許さず」ではなく、「許されざれど葷酒山門に入る」と読むのが正解のようですね。やはり人間というものは「わかっちゃいるけどやめられねぇ!」ような存在なのですね(笑)。因みに、正暦寺乳酸菌と正暦寺酵母を使った「菩提酛純米嬉長」というお酒が生駒市の上田酒造株式会社より限定商品として発売されています。興味をお持ちの方は是非ともお試しになってはいかがでしょうか。

  • 懺悔
  • 2008年05月11日 09:30

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