《薪御能》のはなし
5月11・12日の夕刻より、興福寺「般若之芝」に於て、『薪御能』(たきぎおのう)が奉納されます。
日本各地で公演される野外能の本家・本元であり、金春・金剛・宝生・観世の四座が一堂に会するのも、この薪御能ならではといえます。
その濫觴は、869年2月に興福寺西金堂に於て、天下泰平御祈祷の修二会(十一面観音悔過法要)が創始され、その法会で修められる咒師法(法咒師による呪言や手印、刀をもって、人の心に潜む悪・邪鬼を追い払う修法)に求められます。
やがて、猿楽師がその咒師法を引き継ぎ、室町期にはこの猿楽が演劇性をもった能楽へと変遷したことが、江戸期の文書に記されています。
西金堂で修二会が厳修される間、春日山の神聖なる「薪」が手水屋に迎えられ、法咒師がその薪に万民安穏・厄難駆除の作法を行った後、参篭の練行衆が神々をこの法会に勧請するために登廊で薪を焚き、その灯明のもとで猿楽が奉納されたことから、「薪猿楽」・「薪御能」と呼称されるようになりました。篝火は神々を法会に迎え入れるために焚かれています。
古来より、宗教儀礼において、水と火は非常に重要視され、丁重に扱われてきました。
法会で仏前に供える水は、井戸水が最も澄んでいる丑三つの時に汲み上げ、また、参篭中の僧侶が用いる火を「別火」と呼び、調理の火も俗世間とは別にされています。
これは、人間の不浄なる思惑が火を通してすべてに伝染すると考えたからであり、我々がよく聞く「同じ釜の飯を喰う」という表現も、同じ火を分けあった同志という意味があるようです。
因みに、桧は神事等で清火を熾す時に用いられたことから”ヒノキ”と呼ばれるようになったと言われています。
1027年より東金堂でも修二会が修められるようになり、これによって、西・東金堂それぞれの堂衆が薪猿楽の主催権を争い、これを衆徒(僧兵の頭)が仲裁、1255年より南大門・般若之芝で行われるようになります。
江戸幕末まで、薪猿楽の主催権は興福寺衆徒にあり、四代将軍の家綱は猿楽の南都参仕料として、米五百石を毎年特別に与えています。
(*五百石とは、500人が1年間に消費する米の量)
今日では、能楽の舞台が設置されていますが、当時は、芝生の上での奉納であったことから、芝が湿気で濡れていると演能はされず、中止となりました。
現在も演能の前に、興福寺衆徒が数枚重ねた奉書紙を踏みつけ、紙を通して芝の状態を調べる「舞台
改めの儀」が行われています。
もともと、薪猿楽は春日社興福寺の神仏への奉納芸能でありましたが、江戸期以前より一般民衆の陪観が許可されています。芝生の上で演能されたことから「芝居」という言葉が生まれ、以後、この言葉は歌舞伎や文楽にも用いられるようになりました。
春日社・一の鳥居の近くには「影向之松」が植えられています。神々は決してその姿を現さないことから、神は影向(ようごう)とも表現されています。
「影が向く」とは、神の降臨を意味し、神々は好んで老松に降りて神事芸能を楽しむようです。
能舞台の背面にある鏡板には、必ず松が描かれていますが、この「影向之松」に因んでいます。
薪御能について一瞥しましたが、「能楽」の”能”という語源は、昔、中国の南方で、足が見えないほど速く走る熊に似た動物が存在したことから、熊の下部の”れんが”と取ってこの字があてられたとされ、”能力”など、優れた意味合いで用いられています。
また、”楽”は”たのしい”の他に”ねがう”という意味もあり、「能楽」とは「優れたものに(を)願う」という意味がそこにあるのかも知れません。
古来より奉納されつづけてきた『薪御能』。
――それは、人と神仏との境界であり、きっと幽玄の世界へ誘ってくれるでしょう。
- 投稿者:fukui
- 日時:20:24
comments
薪能は興福寺発祥なんですね。
塔影能は何度か陪席したことがありますが、薪御能はまだチャンスに恵まれていません。
今年も仕事が入っており、来年まで待たなくてならないのが残念です。
ご盛会をお祈り申し上げます
「薪御能」を紹介する中で、桧・芝居・能・楽の語源を訊ねるなど、とても勉強になります。「元の木阿弥」についても教えてくださいね(笑)。