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沖縄の米軍基地、笑いとばしてみる 若手芸人、真剣勝負

2008年05月25日15時59分

 「さて今日は、沖縄が独り占めしてきた米軍基地を、特別価格でお届けします。普天間がたったの7千億円!」

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ヤンバルクイナに扮した「お笑い米軍基地」の小波津正光さん(中央)ら。車にひかれ、血を流す姿を演じた=東京都新宿区、堀英治撮影

 「えっ社長、そんなにお安くしていいんですか」

 「今回だけの特別ご奉仕! それになんと、輸送機に海兵隊6千人までつけちゃいます。送料だって、税金負担!」

 爆笑の渦を暗闇の観客席に残して、テレビ通販社長に扮した小波津正光(こはつ・まさみつ)(33)が舞台のそでに消えた。額に汗の玉が光る。目は笑っていない。今月11日、東京・四谷区民ホール。どこまで基地のギャグが通じるのか。沖縄の若者集団「お笑い米軍基地」が真剣勝負を続けて4年目だ。

    ○

 東京では、売れない芸人だった。琉球大を卒業後、地元で漫才コンビとして活躍した後に上京。風呂なし4畳半、家賃2万円のアパートで妻と暮らしながら、月に4度のライブに立った。

 何をやっても受けなかった。町をあげての甲子園応援。風速50メートルの台風のすさまじさ。面白おかしく沖縄ネタを演じても、だれも笑わない。言葉も生活感覚も違う。まして沖縄戦や基地のことなど、まるで通じない。たった5人の客席に向かって、「何でわからんば。笑えー」と心の中で叫んだこともあった。

 「ヘリが落ちたぞ」。転機は04年8月13日、30歳の誕生日にやってきた。普天間飛行場に隣接する沖縄国際大に、大型米軍ヘリが墜落。あわや大惨事の事故を、友人からの電話で知った。

 だが翌朝の東京紙は、アテネ五輪開幕の記事で埋められ、事故は小さな扱いだった。その日、準備していたネタを捨て、大々的に墜落を報じる沖縄紙を手に舞台に立った。

 「沖縄、大変なことになってるよー。アテネでは聖火が燃えてるが、沖縄ではヘリが燃えてるばーよー」

 おまえら、ちゃんと見ろ。新聞を手に客席を走り回ったが、小波津が真剣になるほど、笑いの渦は広がった。

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 「米軍基地を正面からお笑いにしたい」。その年、沖縄のお笑い集団FECの仲間は、小波津の大胆な提案に戸惑った。

 「客の一人でも、『それは違うだろ』といって席を立ったら、もうおしまいだ」。最年長の崎濱秀彰(37)は案じた。容認でも反対でも、基地は沖縄の死活にかかわる問題だ。これまでだれも、お笑いにしたことはない。

 FEC社長の山城智二(36)は思った。「世間の関心は薄れた。まともに基地を論じても取り合ってもらえない。反対運動も行き詰まり、あきらめ感だけが募っている。基地を笑いとばそう」

 翌年、小波津が脚本を書き、FECが演じる「お笑い米軍基地」を旗揚げした。

 賞金クイズ番組をまねて、司会が地元首長に基地受け入れを迫るコント。米軍出身のビリー隊長が軍隊式エクササイズをしながら、「少し疲れていませんか」と反対派に体操をさせるコント。崎濱の心配に反して、大受けだった。

 「いつもの笑いじゃない。ウチナーンチュ(沖縄人)が心にたまったものを、笑いではき出しているみたいだ」

 大田享(28)は初舞台でそう感じた。

 仲間14人の大半は復帰後世代だ。しかし県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦の影は、彼らにも及んでいる。小波津の母方の曽祖父母は、本島南部で戦火に命を失った。仲座健太(32)の父は幼児の時に右足親指に銃弾を受けた。金城博之(35)の母チエ子(69)は、生まれ育ったマリアナ諸島テニアン島で、父親の腕を貫通した米軍の銃弾が、抱かれた3歳の弟の命を奪うのを目の前で見た。

 かつて本土の若者との意識のギャップに悩んだ小波津は、今は「世界最強軍隊に立ち向かう世界最弱の貧乏芸人」を名乗る。意識のギャップは、それだけでお笑いだ。だからお笑いを通して、本土と沖縄の溝が見えてくる。

 「ぼくらは基地容認でも反対でもない。基地は沖縄の特産品。笑いを通して、とにかく沖縄をわかってほしい」

 誰にも声が届かない。心の叫びが、笑いにしかならないときもある。そんな沖縄の今を、彼らが背負っている。

=敬称略

(編集委員・外岡秀俊)

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