概観 全体の構成
【有り様、有り方が存在論である】
要は「有るか無いか」ではなく、それぞれの、また全体の有り様、有り方が 問題なのである。
ところが、主観は何でも対象にできる。主観はすべてのものと関係する、関 係を創造することすらできる。したがって、単に主観との「関係」では何の意 味もない。対象間の関係として、主観からは独立な客観的な関係が問題なので ある。
そして、「関係すること」としての「有る」ことは、単に「関係する」だけ でなく「関係」の仕方が問題になるのである。「関係」は単に「関係」が有る か無いかではなく、どのような「関係」にあり、どのように「関係」している のかが問題である。
【存在の多様性】
主観も対象も、ものは関係するものとしてある。その関係は、単独の関係と してはない。
主観と対象の関係であっても、対象とのいくつもの関係からなっている。主 観は対象をひとつの全体として関係するだけでなく、様々な部分を対象として 関係する。部分はさらに部分としての関係に分けられる。主観の関係する対象 は分割可能な部分として多様な尺度で存在する。主観の対象との関係は一定で なく、変化する多様性がある。
対象間の関係も、主観が捨象することで一定の関係を対象としているにすぎ ない。主観が捨象した関係が対象間の関係のすべてではない。対象間の関係を 捨象することによって、主観は対象を捨象する。対象間の関係は主観が対象を 捨象することによって措定される。対象には主観によって捨象しきれない対象 間の関係がある。
主観が捨象する対象間の関係は、対象間の関係の極局所の範囲に限られる。 主観が捨象する関係は有限であるが、対象間の関係は無限の多様性をもってい る。主観が捨象することのできるわずかな関係であっても、その対象の多様性 は無限である。
これらの関係は主観によって抽象されることによって数えられ、分類される。 対象間の無限の関係、対象の無限の多様性は主観によって抽象され、また主観 と関係することによって、それぞれに対象となる。主観は全体を抽象すること によって一つの対象として関係することができる。しかし、抽象された関係に は無限に多様な関係が捨象されている。
【存在の重層性】
主観によって捨象された対象は、他の対象との間に多様な関係がある。対象 の基本的関係であっても、抽象によって単純化されるだけであって、より発展 的関係が失せるわけではない。対象はより基本的関係からより発展的関係まで をもつものとして他と関係している。対象にとって捨象された他との関係は、 対象において関係の重層をなしている。対象の諸関係は寄せ集められた混沌で はなく、より基本的関係からより発展的関係までの関係の重層としてある。
対象の他との関係は主観に捨象されることによって、層として数えられ分類 される。主観自らの対象との関係も多様であり、重層をなしている。
【存在の統一性】
主観の対象はそれぞれに異なるものであるが、主観とすべての対象を含む世 界はひとつである。ひとつである世界がどのように主観や無数の対象に分かれ ようが、世界がひとつである限り、相互に関係しあっている。
すべての関係は連なっており、破れ目なり隔絶された部分はない。関係のな い隔絶された部分は、全体が複数無ければありえないことであり、複数の全体 とは相対的な限定された全体であり、全体ではない。
部分どうし、それぞれの統一性は、部分が部分である故の相対的全体の存在 が前提とされている。部分どうしが部分として統一された全体でなければ、部 分は部分でない別々の相対的全体である。
しかし、相対的全体が相対的であると限定されるのは、それが部分であるか らである。してみると、絶対的全体のもとにすべての相対的全体、部分がある ことは大前提としてある。ひとつである全体世界のなす部分の関係が、統一さ れていることは限定のない大前提の内に含まれている。
【存在の普遍性】
世界は普遍的な関係として、ひとつのまとまりとしてある。いかに多様であ っても、すべての関係は、すべて連続し結びついてひとつの全体としての世界 をなしている。
ひとつひとつの関係は普遍性をもっている。どれかひとつの関係は、世界中 どこでも一定である。ひとつの関係は、いつの時代にあっても一定である。変 化するのは関係の環境である。
注21
主観にとってひとつの関係が変化するのは、新たな関係が入り込むからであ る。ひとつの関係として主観は対象をとらえるが、決してそれは単独の関係で はない。主観とその関係は他のすべての関係とからみあっており、新たな関係 が主観の対象との間に入り込むことによって対象が変化する。しかし、ひとつ ひとつの関係は変化していない。
注22
いつでもどこでも一定の関係として、対象間の関係は普遍的である。普遍性 があるからこそ変化するのである。普遍性のない変化は混沌であり、変化自体 とらえられない。変化は普遍的なものと普遍的なものとの間の関係として現れ る。変化は普遍的なものを含んでこそ現れる。世界をなす関係は普遍性をもっ ており、その組合せが無限に多様な変化をつくり出す。
【存在の抽象性】
主観の対象でなくとも、存在は抽象的でありうる。関係の関係は元の関係が 変化しても保存されうる。主観による対象の抽象とは別に、対象間の関係の関 係として抽象的関係が存在する。
抽象的であるからとの理由で存在は否定されない。抽象的存在はその関係を なす関係によって存在している。ただその存在関係に固定的に依存しているの ではなく、存在関係の変化にかかわりなく関係を保存する存在である。
【存在の対称性】
存在一般は対称性をもつ。
対称性は部分間の関係である。対称性は、部分間の区別が全体の有り様を変 えない性質である。分けられた部分が相互に入れ替わっても、部分間の同じ関 係が保存される性質が対称性である。
対概念は思考上の対称性である。上下、左右、前後は部分間の関係の区別で あるが、この区別だけでは部分としての関係を示すだけである。それぞれの部 分は相互に区別されない。これらは対称の軸を示す対称性である。具体的な対 称性はこれらの対称軸に対して、部分間の関係を示す。対称軸に対して互いに 同じ関係であることが対称性を示す。
存在一般は「無」に対して非対称であるが、存在一般は存在に対し対称であ る。どの部分の存在も、世界に存在として同じ関係にある。
存在一般が運動として互いに区別をすることで、対称性が破れ、部分が区別 され、世界の多様性をつくる。
注24
一方「対象性」は相互関係の基本的概念であるがあまり重視されていない。 しかし、対象でありえない超越した存在を現実世界の内に忍び込ませる非科学 的考え方が、物理学の中にもあることからして重要な問題である。「人間原理」 など人間の対象性を否定するものである。
【相対化される主観】
主観は対象との関係にあって絶対的な対極的な関係にあったが、対象化され た主観は相対化される。
対象化され相対化された「主観」は対象からの作用も受けるし、対象に対し て作用する関係の内にある。対象間の関係の中で、「主観」はすべての対象と 同じ関係をなす。すなわち、対象と同じ相互関係の中で相互作用するものとし て「主観」は相対化される。
【主観の対象化】
相対化され、対象化された「主観」は他の対象と同じ客観的存在として相互 作用するもの、主体である。主体は相対性、対象性をもつ。
対象間の作用、客観的にあるものは相互作用である。相互作用を主観が関係 としてとらえるのである。一般に、対象と対象との関係は相互作用の関係であ る。
対象と対象は主観によって区別されるが、互いに作用し合うことによって対 象どうし関係するものである。主体も同様に、対象との間で相互に作用し合う。 対象を主体の内に取り入れることによって主体でありつづけ、主体を対象化す ることで主体でありつづける。この主体の内と外に向かう作用を統一したもの として、主体と対象との相互作用がある。しかも主体と対象との相互作用も重 層的であり、相方向的である。
【対象の主体化】
対象の主体化は、主体の客観的存在としての条件を獲得することである。主 体以外のものの有り方を主体化することである。一般的なものの有り方を、主 体として特殊化するのである。主体は対象との相互作用にあって常に変化して いる。変化の一部として主体は対象を主体の内に取り入れる。主体の内に取り 入れられた対象は、主体を構成するものになる。
注25
【主体の対象化】
主体の対象化は主体と対象との相互作用を、主体として維持することである。 相互作用にあって対象と同質化せず、主体を実現しつづけることである。対象 に対して自らの異質化が主体の存在である。
主体の対象化は主体と対象との相互作用にあって、主体の主体に対する作用 でもある。主体として客観的存在としてありつづけるために、対象のなかに主 体を実現しつづけることである。
そして、対象の主体化と、主体の対象化は別々の作用ではなく統一されてい る。いずれも主体であるための、主体としての作用として統一されている。主 体化、対象化の相互作用の統一として、自分の存在・生活を維持する。
主体は対象との相互関係の内に、自己を実現している。主体と対象との多様 な関係は常に変化している。変化しながらも関係を保存することとして、主体 は主体であり続ける。主体は対象との関係の変革として自己の存在を実現し、 対象間の関係に自己の存在を対象化する。
【主体の相互作用】
主体と対象との関係は、他の相互関係と同じに常に変化している。
主体と対象は「主観と対象との関係」にかかわらず、客観的存在として相互 に作用しあい、絶えず変化している。一般的な相互作用は「主観」の存在にか かわらず、主体を含み、主体を構成する全体の相互作用のなかで常に変化して いる。
主体は常に変化する全体の相互作用のなかにあって、一般的相互作用を特殊 化するのである。主体は全体に対しては部分であるが、一般的な相互作用を自 らのものとして、自らを「相対的な全体」として持続させるものである。
すべての部分は同様に、「相対的な全体」として存在するものであるが、そ の持続させる作用はその存在の内に限られる。ところが、主体はその一般的存 在の相対的な全体を持続するだけでなく、主体として関係する相互作用をも組 織する。主体は主体をなす相互作用だけでなく、主体間の相互作用を組織する ことで対象との相互作用、対象間の相互作用も主体と主体との間の関係の内に 取り込む。すなわち、対象を変革すること、実践の主体として主体は他の存在 と区別される。
【主観の存在】
主観は主観と関係しえないが、主体は客観的存在として他の主体と関係して いる。主体は客観的存在である他の主体と関係することで、主体を対象とする 相互作用をなす。この相互関係が社会関係である。主体間の相互作用は、主観 にとって「主観」を対象化して見せる。主観は他の主体との関係において、自 らも対象として関係しているものとしてとらえる。
「主観」は主体間の関係において客観的存在である。主観は主体間の関係に あって、それぞれの客観的存在としての「主観」と関係し、「主観」を対象化 することで自らを自覚する。
【主観の対称性】
主観は当初、対象との対立物としてある。主観の主体としての存在は主観を 相対化し、対象間の相互作用の中に対象化される。しかし、対象間の相互作用 の関係を保存したまま、自らを含む全体を対象とする対立関係として、主観は 自覚される。
相互作用としての相対的関係を、対象全体を主観との間の対応関係に変換す る。対象を反映し、認知するものとして世界の対立物として主観は対象との対 立的関係をとる。相対的関係の網目構造、平面の網目ではなく重層する多次元 の網目構造の関係形式を保存したまま、対象との二極対応関係形式に変形・変 換する。主体として相対性をもちながら、主観として絶対性をもつ。
対象との対応関係形式をとるものとして、主観は対称性をもつ。他のどの主 体とも主観は区別されない。他のどの主体と主観が交換されても、全体の相互 関係は保存される。主観の絶対性は対称性をもった存在である。
【自分の位置】
対称性をもった主観が、主体として全体を世界として相対する。主体として 対称性を廃棄し、独自性を獲得するものとして自分が位置づけられる。
自分と全体との関係にあって、自分は全体の一部分であり、一時的なもので ある。
自分は全体と対立するものではない。自分と全体との関係は、両極に分けら れる関係ではない。自分は全体の一部分として全体と区別される。しかも、自 分は全体の中心としての一部分ではなく、相対的な存在である。この自分を含 む全体が世界である。
対象間の関係を主観との関係とは別に認めることで、主観と関係しない対象 の存在が認められる。主観と関係しない対象間の関係は、構造と経過を伴う。 対象間の構造は主観にとっての空間である。対象間の関係の経過は主観にとっ ての時間である。
自分と関係する全体のすべてによって宇宙が構成される。自分の対象の全体 は、宇宙によって包括される世界である。
自分は世界の始めから最後まで世界と関係するのではない。自分は宇宙の歴 史の中の、ほんの一部分としてあるにすぎない。しかも、その一部分としての 自分も自分の始めから、今の自分であったわけではない。今の自分に至るまで に成長してきているのである。
しかも、自分は孤立した存在ではない。自分と同じ多数の主体、すなわち他 人と関係している。主体間の関係があって自分が存在する。すなわち、社会関 係があって自分が他から区別される。社会関係の中で自分は生まれ、形成され る。
自分は自分の対象とする世界において、その構造の極小さな部分であり、そ の歴史の極短い部分である。しかも全体に対する部分であっても、相対的なも のであり、小ささ、短さは決っているものではない。さらに、自分は不変では なく、成長し、自分の内でも変化している。
【全体との関係】
自分は世界全体と直接関係しない。自分の直接の関係は、自分をとりまく個 々の事物との関係である。この個々の事物との関係を連ねることで、全体と関 係する。全体は相対的な全体、すなわち部分に対する全体として自分の対象と なる。その相対的全体と他の相対的全体との関係を連ね、これをさらに連ねる ことで自分は、世界全体の関係と連なっている。世界全体の関係の一部分の関 係として、自分の関係はあり、この関係で世界全体と関係している。
自分は直接的対象との相互作用の結果だけを受け入れるのではない。客観的 存在の相互作用は、その連鎖として自分に作用する。自分はすべての客観的存 在の相互作用と直接関係はしていない。しかし、相互作用の連鎖を、客観的存 在間の関係をたどることによって、直接は関係していない対象の作用を、客観 的存在間の相互作用としてとらえることができるのである。
すなわち、対象と直接関係することが、対象を知ることではない。対象を全 体の関係の中に位置づけることが対象を知ることである。この位置づけは固定 したものではなく、対象の変化に応じて変化する。全体の中での対象の変化の 位置づけが、対象を知ることである。
自分は対象との相互作用の関係にあり、対象間の相互作用を、対象を通して 間接的にとらえる。したがって、対象間の相互作用と対象と自分との相互作用 は別の関係である。しかし、自分と対象との関係、対象間の関係を作用の結果 としてでなく、作用の有り方としてとらえることができる。自分は、客観的存 在間の関係のすべての連なりとして、全体の関係を自分の内に、対象の全体と の関係として再構成することができる。このことが、自分が全体を知ることで ある。
【全体への対応】
全体を対象とすることは特別なことである。客観的存在としての関係にあっ て、普通は部分である互いを対象として関係している。しかし、自分は全体を 対象とすることができる。全体と直接関係することはできないが、全体をとら えることができる。部分を対象として、全体に対して働きかけることができる のが自分である。
部分としての相互作用で、驚くほどの構成美を見ることがある。自分が、あ るいは他の人が手出しをしなくても、自分の作るものより遥かにすばらしい構 成美が数多くある。
注27
ところが、自分が作りだすことのできるものは、条件の変化に対応しつつ、 結果として同じものを作りうることに特殊性がある。この自分の特殊性は、限 定されてはいても全体を再構成できることによっている。対象を再現すること はできなくとも、全体の関係の中に対象を位置づけ、対象をとりまく関係と、 全体の関係とを結びつけることができる。それらの関係を、自分自身の内に再 構成できることによって、対象を全体の内にとらえることができる。すなわち、 自分は対象と全体を知ることができる。
【知の対象としての自分】
世界全体の関係の中で自分は生まれ、成長してきている。自分を構成する関 係も世界全体の関係の一部分であり、他と連なっている。全体の関係の一部分 として自分の内に複雑な関係・構造をもっている。この自分自身としての内部 関係、内部構造は、自分で維持しなければならない。自分は世界全体の関係の 中にありながら、かつ自分自身の関係を全体から区別しつづけなければならな い。さらに、自分は自分自身と他の物事の関係を拡大し、自分自身の関係を発 展させていくものとしてある。すなわち、世界全体の関係の中にあって、自分 自身の関係を拡大再生産していく。
全体を知ることは、その全体の一部分である自分を知ることである。また、 自分が対象との関係にあって、対象との相互作用によって自分自身であるから には、対象との相互作用を客観的存在間の関係と見なくては、自分自身を知る ことはできない。
自分自身を知ることは、自分について調べてもことたりない。自分自身は対 象である世界を知ることによってしか、知ることができない。
【内感と外感】
世界の一部分であり、かつ世界を対象とする部分としての自分は、自分自身 をも対象とする。世界を知ることでその部分として自分を知るが、その自分は 自分自身に対して他の対象とは異なった関係にある。
当然のこととして、対象とする自分と自分自身とは同一のものである。自分 自身を対象にするという、自分自身の操作によって、自分自身と自分とを分け、 関係させている。自分を対象化する操作は世界全体を対象とし、その中に自分 を客観的存在として関係づけすることでできる。
この自分は、自分自身と直接する部分と、間接する部分とに分かれている。 内感と外感である。内感は自分自身として与えられるものであり、自分の内部 の状態である。心身の状態である。内感は体調、気分として自分を対象として いる。
外感は自分と自分以外の物事との相互作用の結果として、自分の対象となる。 外感は自分ではあるが、自分以外の物事と自分との相互作用がなくては対象と ならない。したがって、外感は自分自身を絶対化することによって、どのよう に解釈することもできる。同じ理由から錯覚も生じる。自分は外感を否定する こともできる。自分自身のみを存在するものとすることもできる。
しかし、自分は内感と外感の統一体として感じられる。自分自身をいかに絶 対化してみたところで、内感としてある自分は否定のしようがない。内感とし てある自分の否定は自殺でしかない。しかもそれは、外感を介しての内感の否 定である。やはり、外の存在を肯定しなくてはならない。
【内感される唯一の存在】
内感と外感の統一体として自分は内部構造をもちつつ、自分以外の物事と複 雑な関係をもっている。しかし、自分自身はひとつのものとしてしか自分を対 象としない。自分は常に数えきれない関係を、自分以外の物事との間にもって 作用している。しかし、自分自身にとって自分はひとつのものとして関係して いる。
自分自身は複雑な、重層的な関係をもつものとして全体の一部分ではあるが、 それでいて対象としての自分自身はひとつでしかない。自分はひとつのものと して自分自身と関係する。そしてその自分は、その時点での自分自身にとって 最も重要な関係を対象とする。その重要性の評価の基準が自分自身の価値観で ある。価値観は自分自身の、自分以外の物事との関係、相互作用を通して基準 化される。
こうした自分、自分自身を知るためにも、客観的存在としての世界全体を対 象として取りあげる。
【対象の記号化】
主観と対象との関係は多様性、重層性、相対性をもっている。これを世界観 として固定して表現するため、対象と表現媒体との対応づけをする。
主観の内に取り込まれた対象は、対象との対応関係を引きずってはいる。こ の対応関係は主観の内に位置づけられなくてはならない。すでに主観の内に取 り込まれているその他の対象との関係に位置づけられる。主観の内に取り込ま れた対象は「内言語」として操作され、関連づけられる。取り込まれた対象は 内言語に代置され、主体の対象との関係を主観の内で操作可能にする。内言語 は主体の対象との関係をとおして、それぞれの位置を確定する。
内言語は主体によって対象化され、「ことば」になる。主観の内に取り込ま れた対象は、主体によって再び対象化され、発声、文字として「ことば」にな る。発声、文字を媒体として「ことば」は記号として機能する。
世界観の表現媒体は「文字ことば」を使用している。「文字」は操作可能な 表現媒体であり、「文字列」として「ことば」の媒体に使う。文字列の組み合 わせとして対象間の関係、対象・主観・主体間の関係を表現する。「文字列」 は対象一般を表現する媒体であり、操作が可能で保存可能な記号系である。
しかし、「文字列」の組み合わせである文は世界観の表現媒体であるが、対 象の媒体ではない。主観化した対象は対象からも、記号媒体からも独立に相互 に区別される。主観化した対象を「記号」として表現し、主観化される元々の 対象との関係を問題にする。
注29
主観に対するものとして一方に、客観的関係の主体がある。客観的実体(実 在とは異なる)の1として認められる存在形式である。
対する他方に、主観の内に形成される主観化された対象がある。対象を他と 区別される「1」に捨象する判断によって、再び対象化された客観的存在であ る記号が対応する。
主観の対象である客観的対象を主観の内に取り込み、再び対象化して記号と して表現する過程と、客観的対象間の関係と記号間の関係を対応させる過程を 統一することによって、対象と記号の対応関係を定めることができる。
この統一過程は完成することのない、永続する過程である。
【1対1対応】
対象と記号との関係は1対1であるべきである。1記号が複数の対象を意味 しては、対応関係を曖昧にする。
注30
多様性、重層性、相対性をもった対象を、他と区別する対象として特定、同 定し記号との対応関係をつけることは、認識の過程である。この過程を前提に して、記号化された対象の操作性を保証することで論理が成り立つ。
記号間の関係は記号間の関係から関連づけられない。対象間の関係、対象と 記号との関係として関連づけられる。
【対象と対象の関係と、記号と記号の関係との対応関係】
対象間の関係は、法則として定式化される。法則としての対象間の関係と、 対象の全体での位置づけの関係を含めて、対応する記号の論理が定式化される。
対象の全体を反映する記号体系の中に位置づけられて、主観化された対象は 記号に置き換えられる。記号に置き換えられるまで、主観化された対象は純化 されねばならない。純化は対象の全体における位置との1対1対応づけである。 対象の全体系としての世界と記号の体系が1対1対応する。対象は構造を持た ない集合として集約されて、存在の多様性、無限を1に繰り込む。
概観 全体の構成