超越的記録:2007年8月

2007年8月19日 (1)正当化
  正当化概念については、『認識的正当化 −内在主義対外在主義−』を途中まで読んでいたときにわたしの使用法と異なっているのではないかと思い、『分析哲学入門』(世界思想社刊)を読み、人によって使用法が異なるということを知った。また、『実在論と理性』をぱらぱらと捲っていて偶然に(か必然にかは知らないが)見つけた記述によれば、正当化される対象が理論の改訂に即して変化していくという立場があるとのことである。
  これまでわたしは、「正当化」という語を単純に「普遍的に正しい」と互換可能なものとして扱い、「正当化し得るということを論証することができる」という表現を「絶対確実である」として扱ってきた。したがって、もし誰かがある言明について「正当化し得るということを論証することができた」と言い、実際にそのことを示して見せたとしても、後にそれが絶対確実に偽であることが判明すれば、彼が「不当な」正当化を行っていた、言い換えれば独断に陥っていたと断定するのである。反対に、絶対確実であるという思い込みではなく、本当に絶対確実であれば、「正当な」正当化であるとする。(ただし、絶対確実か絶対確実であるという思い込みかという判断は、論理学者や数学者にとってすらきわめて困難であると思われる。)
  わたしは正当化という語を、わたしがこれまで使用していたような仕方でこれからも使用し続けることに拘ってはいない。それは、わたしにとって重要なことが絶対確実性、ただそれのみであるからにほかならない。だから、「何が正当化されるかについては時代とともに変化していくものである」(むろんこの考え方は、時代とともに理論が改良されることを前提にしている)という考え方を受け入れることに抵抗はない。ただし、それを受容するのは、正当化についての、そうした考え方が絶対確実に正しいときである。ということは、何が正当化という語(ひいては対象)の定義を絶対確実なものとするかということが問題となってくる。(定義が絶対確実かどうかという問いに奇妙さを感じる人がいるかもしれない。しかし、定義が本来的に各人によって異なるものであるからと言って、何でもありであるとする場合、絶対確実性の探求にとっては致命的なものとなりかねない。語の定義の仕方によっては、それを用いて展開する議論に矛盾が生じるなどの事態が起きることもあり得るのである。したがって、正しさを探究するに当たっては、各語をどのように定義づければ議論が成功する、言い換えれば絶対確実に正しいものとなるかを考える必要ががあると言えるのではないか。あるいは、正当化される対象が理論の改訂に即して変化していくという立場を採用する者の主張は、あらゆる理論に改訂可能性がある以上、よりよい説明を探究することしかできないということを含むのであろうか。そもそも、わたしのような考え方では、先に独断を無視すると言っておきながら、それができておらず、再び独断の問題に向かうことになる。)

2007年8月17日 (2)言語
  問題は、日常言語がどこまで効いてくるかということである。たとえば、わたしは演繹という関係が絶対確実に正しいことに触れた。(これは一般に言われているとわたしが認識していることでもある。)他方で、先日、かつて日常言語がすべて(ここでこのように述べているものも含めて)独断の共有化によって成立していることに気づいたことを思い出した。
  これは、日常言語が独断に陥ることになるならば、演繹が日常言語である以上、演繹もまた独断により成立しているということなのか、それとも演繹という語とその語によってわれわれが想起している関係は独立に存在する(つまり語と対象や世界は同一ではない)ことになるのかが分からない。また、後者の考え方がただ1つの立場からのみ言われるもの(具体的に想定しているのは真理の対応説)であるかどうか、さらにはそもそもどういったことを言っているのかも分からない。(なお、ここでは、批判にせよ擁護にせよ、それは日常言語に依拠して始めて成立しているということに注意してもらいたい。)

【追記】
  独断からは逃げられない。それは、独断という語が何であるか(そして「何」という語が何であるか)を前提しているからである。したがって、言語は共有された独断によって成立している。という考え方は正しいのだろうか。
  独断から開始されたと考えてしまった時点で、日常言語を使用していることになるから独断になっており……その指摘もまた独断で……こうした独断の無限後退に陥ると考えるのもまた独断であり……何と言うことだ。
  しかし、こうした基礎的な地点での最小限の独断を、自然科学がそうしているようにプラグマティズムに依拠して捻じ伏せたうえで、指示について考え、その絶対確実な回答を提出すれば解決することができるかもしれない。
  そのときの問題はその方法が絶対確実に正しいのかということであるが、このように考えれば再び……。

2007年8月17日 (1)皮肉
  独断を濫用する(それも意識していないのではないかと思われる)者に対する皮肉的応答を思いついたので、以下に記しておく。

  「わたしは全知である。
  わたしは、○○(注:対象の名称)が〜である(注:状態,たとえば正しい、誤っている、独断に陥っている、頭が弱いなど)ことを知っている。
  わたしはまた、○○にそのことを分からせることができないことを知っている。」

【追記】
  上記の考え方を述べる。誰かが独断発言をする。それに対してこちらもその独断に反する独断で応酬する。そのことによって、両者の理論上の身分が同等であること、ならびに対象(=独断発言)が誤っていること、あるいは少なくとも絶対確実かどうか分からないことを示すのである。
  この方法は、相手がこちらを自然と見下してくるような文章(たとえば相手が多数派の場合には常識に反する文章)にすればより効果的である。それは、2ちゃんねるふうに言えば、単語では「ブーメラン」、文では「鏡を見て言っているのか」という状況を強めることができるからにほかならない。(とは言え、「相手がこちらを自然と見下してくるような文章」というのがすでにして独断の所産なのであるが。また、そうした状況に陥っているということをこのように解説しなければ独断バカには伝わらないという可能性は十分にあるが。)
  しかし、この方法は独断について誠実に考える(言い換えれば最初に立ち現れる独断すら見逃さず、したがって確実性の探究が不可能な状況に陥る)ならばその正しさを主張することのできないものとなっていることに注意が必要である。(左記文章がすでにして独断となっている!)

2007年8月13日 (1)出戻り寸前
  また戻ってきた。
  かつてわたしは、「非超越論(1→0)」において「徹底的に懐疑することはできない」という趣旨のことを述べた。それは、徹底的な懐疑が、「〜とは何か」(他の種類の問いもあるがすべてを疑うという立場では、その疑問文で扱われているすべての語が分からないのであるから、結局は左の問いの形に落ち着くことになる。)という問いを超えて、「何」すらも問おうとすることになるものの、彼には「何」が何であるか分からない以上、「何」という語を使用することができないからにほかならない。つまり、懐疑することができるのは少なくとも「何」を初めとするいくつかの語やそれらの語を使用するためのいくつかの文法を独断的に前提しているからであるということになる。
  ところで、わたしは独断を批判していた。
  これはいったいどうしたことか。
  しかし、ここで再び「非超越論(1→0)」に戻ることはできない。「非超越論(0→1)」は1つの隘路であることが判明しているからである。

【追記】
  わたしは、「非超越論にまつわる3つの難問」において「「公共性は言語の必要条件である」という言明は独断である」とした。ところが、わたしはたとえば独断という語が何であるかを無批判に受容し、その語を使用していた。つまり、独断という語をまさに独断して使用していたのである。問題は独断だけに止まらない。本文でも述べたとおり、究極的には「何」という語を使用するには、その語が何であるかが自明であるか、もしくはその語が何であるかを独断していなければならない。そして、前者は誤りであるため、後者が正しいということになる。(むろん、主観、客観、善、悪、真理などのいくつかの語については、どのように定義すれば議論が成功するかということが検討されることもある。しかし、そうした行為は、他の多くの語を独断的に使用することによって成立しているため、結局は間接的に独断である。)
  こうしたことを考えれば、「独断の共有化」、「共有された独断」こそが言語を成立させていると言える。そして、「共有された独断」が「公共性」と完全に一致しないにせよ、両者ははより多くの行為者による意識的ならびに/あるいは無意識的な共謀を含意するという特徴で括ることができるため、「公共性は言語の必要条件」に近似したことが言えるようになるのである。

2007年8月12日 (1)建設大臣
  建設的とか生産的とかいう語を好み、非建設的とか非生産的とかいう語で他者を攻撃することを好む者(言わば建設大臣)は独断バカである。
  あることが建設的、生産的なことであると言えるためには論証が必要であるし、建設的、生産的なことが善であり、非建設的、非生産的なことは悪であるという命題(善や悪の定義によっては自身の議論に対する攻撃、2ちゃんねる風に言えば「ブーメラン」になりかねないことに注意したほうがよいかもしれない)を正当化するにも論証が必要であるし、建設的、生産的なことをしなければならず、非建設的、非生産的なことをしてはならないという信念が絶対確実に正しいかどうかについても論証が必要である。
  そして、これに対して常識を持ち出して片づけようとする者は、絶対確実かどうか分からないことを絶対確実であると思い込んでいるバカであると先に指摘しておく。(たとえ、めんどうくさいから常識で片づけようとしているとしても、そのときには別の、しかし同質の問題が生じる。)
  建設大臣はまた、自らが建設的・生産的であると思い込んでいるものの正しさを疑わないにもかかわらず、建設的・生産的でありさえすれば議論が誤っていたとしても問題はないとする(言い換えれば建設的・生産的であることを教条とする)自己論駁的な立場に立脚してもいる。

2007年8月6日 (1)】 ミディアム・イシュー
  『ビッグ・イシュー』という雑誌があるが、これは行き過ぎている。
  じゃあ反対にとばかりに「スモール・イシュー」とすれば、これは卑屈になっている感じがする。
  そこで、暫定的措置として「ミディアム・イシュー」という名称を提案したいのである。

  わたしのショート・ミーディアム・イシューとしてはたとえば以下の5つを挙げてみることができる。

■「それはまだ疑える。」  ←デカルトの名言
■「認識論と存在論についてまだ確定していないのであるから、それについても絶対確実なことは分からない。」
■「(そのような個別の事例における正当性を考えるならば)まずは絶対主義対相対主義、超越論対非超越論について考えねばなるまい。」
■「自然科学などというものは、数学にせっかくあった厳密性を「実験により証明することができる」という前提を独断的に導入することによって薄めてしまった出来損ないだ。(という言明を見て、あるいは聞いて、宗教や非明晰主義の主張と受け取るバカは死ね。今すぐ死ね。)」
# 自然科学は独断(かそれを忌避した場合には無限後退)に陥っており、数学は論点先取りに陥っている。
# 他方、科学哲学は、科学を擁護したいがために、形而上学的実在論、科学的実在論、道具主義、操作主義、実証主義、奇跡論法、構成主義的経験論、介入、構造的実在論、内在的実在論などの独断に陥っている。
■「私は、われわれの間に通約不可能性が横たわっている可能性を提唱しよう。」

【追記】
  ミディアム・イシューもだめかもしれない。
  それでは9つに区分してみてはどうか?
  つまり、ビッグ・ビッグ・イシューからスモール・スモール・イシューまでの9つに、である。……しかし、この方法も今となってはありきたりかな?  かな?

【追記の追記】
  以下は、2ちゃんねるにおける宣伝用文章の集合である。

このスレッド「も」独断バカによる書き込みが多いようである。(という言明を受けて、独断バカがただ1つの立場から構成されていると誤読する独断バカはいないだろうな?)

数学は、公理という独断を採用しているために絶対確実に正しいかどうか分からない。
自然科学は、それに加えて実験による証明という、何らかの枠組みを独断的に前提しているために絶対確実性からさらに遠ざかった。
科学哲学は、科学を擁護したいがために、形而上学的実在論、科学的実在論、道具主義、操作主義、実証主義、奇跡論法、構成主義的経験論、介入、構造的実在論、内在的実在論などの独断に陥っている。
俗流心理学に至っては、ただ1つの演繹すらない。
しかし、演繹という語にまつわる問題もある。それは……。

どちらの陣営にも個人的な、あるいは自らが属する集団に共有されている感覚や感情を不当に〔論証なしに〕正当化するという事態が蔓延しているが、実際にはいずれも同一の誤謬に陥っているという点を以って同一項で括ることができる。
わたしは、それが暫定的なものであれ不確実なものを魔術的な仕方で確実なものに変換してしまう独断バカを一般人(これには一般的な多数派と一般的な少数派の双方が含まれる)と呼んでいる。
わたしは、こうした頭の弱い存在者群に対して啓蒙を実践しているところである……。

この問題に絶対確実な回答を与えるには、まず絶対主義対相対主義、超越論対非超越論に決着をつけねばなるまい。
「そして、指示の理論について考えねば……!」
# 記述説、因果説、記述の束説

それは、すべての独断を消去=救済する計画――。(隘路であることが判明したが、それでも……!)

■永劫懐疑
http://www5.plala.or.jp/skepticism/
  推薦のことば(ニーチェ)「この人を見よ。」

更新日  (不明)
作成日  2007年8月6日



<<Back Top Next>>