これが江戸だ! part9

第9回です。今回は江戸時代の街道を旅してみましょう。


利根川の舟橋。
軍事的配慮から、大きな川には橋がかけられなかった。
そこで小舟を並べて、その上に板を敷いて橋にしていたのが舟橋だ。




幕末の横浜。正確な場所は不明。





横浜−藤沢間の東海道。
伊勢参りなどで、多くの旅人が通行していたことだろう。





横浜−平塚間の東海道。




戸塚宿。保土ヶ谷付近の立て場茶屋。
立て場とは、宿場と宿場の間の休憩所のこと。
振り分け荷物が写っているから、人物は小間物商か薬の行商だろう。




鎌倉。長谷観音の参道。門前町として、そして藤沢−三崎間の宿場としても繁栄した。




小田原宿。
天保14年(1843)には本陣、脇本陣各4軒、旅籠95軒という繁栄ぶりだったが、
伝馬役負担で経済的に窮乏し、衰退していった。

※)「本陣と脇本陣」 本陣は天皇のおつかいである勅使や、公家、大名、公用で旅をする幕府の役人などが宿泊するための施設。本陣だけで宿泊できないときに、予備にあてた宿舎が脇本陣。本陣と脇本陣は一般の旅籠屋と違い、特権として門、玄関、書院を設けることができた。
※)伝馬役(てんまやく)負担 公用のため人足百人、馬百頭を常備する義務のこと。




箱根宿。
江戸から24里(約100キロ)。 東海道で品川宿から10番目の宿場にあたる。
元和元年(1615)に箱根に関所ができると、そこを通る前に一泊する人が増えて、
宿場は大いに繁盛した。
江戸時代は旅行が困難と思われやすいが、実は庶民も結構旅を楽しんでいたのだ。





箱根沿道。







歌川(安藤)広重の描いた由比・さった峠。旅の難所として知られた。
下はほぼ同じ位置からの明治期の写真。列車が走っているのが見える。




そしてこれが現在の姿。国道1号線と東名自動車道路が通っている。






幕末の祇園。
通行する人があわただしく通り過ぎて行っているようだ。




こちらは中山道。下諏訪の旅館街。
前後に峠があり、旅人に休息が必要な場所だったことと、
諏訪湖の眺めがよく、中山道で唯一温泉があったこと、
そして諏訪大社の門前町であったことから大いに栄えた。


飛騨の橋・野猿。
これで対岸に渡るのだろうが、スリル満点に違いない。



群馬県伊香保の宿場風景。
明治初期の撮影と思われる。





日光・中禅寺湖。これも明治に入ってからの写真。




駕籠(かご)は江戸時代、もっとも利用された交通手段だった。
街道筋では二人で担ぐ簡素なものが多かった。
駕籠かきは一日約48キロ走るといわれるほど健脚だった。
ただ、速いだけではなく、乗った客が酔わないよう上手に担ぐには、熟練を要したといわれる。