これが江戸だ! part2
今回は江戸に加え、横浜、箱根、大阪、長崎など、全国の江戸時代風景をご紹介します。
あわせて、庶民の暮らしを映した写真で、“ご先祖”たちの暮らしぶりを感じていただければ幸いです。
右側は島津家の大名屋敷。西郷隆盛と勝海舟が、江戸城明け渡しの談判を行った場所でもある。
現在はホテル・パシフィック東京(品川駅前)の敷地になっている。
下が当時の地図。「松平 薩摩守」と書いてあるところが島津家上屋敷。
これが現在の地図。
写真がどの位置で撮られたものか、推理するもの楽しい。
左側は江戸城東側の外堀で、そこから“外堀通り”の地名が生まれている。右側が現在の日銀あたり。
江戸時代もこの辺は大きな商家の立ち並ぶ一帯だった。明治の初めらしく、人力車が何台も見える。
下の地図と見比べてみよう。
生麦事件の現場。
幕末は武士にとっては外国との関係にピリピリしていた時代で、殺傷事件も多発した。
生麦事件(なまむぎじけん)
江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、生麦村(現在:横浜市鶴見区生麦)で、
薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件。江戸から京都に向かう薩摩藩の行列に、前方を横浜在住の
イギリス人4人が乗馬のまま横切った。これに怒った一部藩士が斬りかかり、1人が死亡、2人が負傷した。
この事件でイギリスは薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩は拒否。
結果として翌年 薩英戦争が勃発した。
鎌倉・長谷の大仏。初めて見た外国人には、興味深く映ったことだろう。
ちなみに、↓これが現在の姿だ。
酒匂(さかわ)川の蓮台渡し 。江戸時代、小田原の酒匂川には橋がなかった。
東海道を上方へ向かう旅人は、川留めとなると、付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待ちわびた。
ちなみにこれは、当時の版画等で描かれた酒匂川。
写真の蓮台が忠実に描かれていたことが分かる。
東海道、芦ノ湖畔の箱根宿。お茶漬けの看板が見える。
写真撮影が珍しくて、みんな見物をしているのだろう。
長崎街道の有名な料亭だった『蛍茶屋』。長崎の人は旅人の送迎時、ここまで出かけたという。
蛍茶屋の位置は下記のとおり。
そして、これが現在の蛍茶屋駅。
茶屋はすでになく、地名だけが残っている。
海の上に、家が立ち並んで見えるのが、長崎の出島。海外に開かれた唯一の場所だった。
船上から撮った出島。
旗を掲揚しているのはオランダ領事館。
古道具屋の店頭。日本の骨董品は、外国人に人気だった。
その結果安く買われ、大量に流出した。
天秤棒で売り歩く酒売り。都会の各所で見られた。キセルタバコも、外国人には珍しく見えたことだろう。
庶民の乗るかごは簡素なものだった。上に下駄を乗せているのが見える。
茶店は街道筋のいたるところにあった。旅人たちのオアシスの役割を果たしていたのだろう。
この写真はおそらく、近隣の人たちが珍しさで集まってきたものだろう。
三味線はたいへん普及していた。女性の弾き手が多かった。
冬の外出には御高祖頭巾(おこそずきん)をかぶる女性が多かった。簡易な防寒具だった。
蛇の目傘の女性。目元くっきりで、現代の女性と見比べても、かなりの美人だ。
当時はちゃぶ台のような食卓状のものはなく、食事を盛るのは一人用の食膳だった。
一汁一菜の素朴な食事だったようだ。
外国人に写真に撮られるというので、若夫婦のご主人の方が、えらく緊張しているように見える。
行灯の下の寝姿。湯のみやキセルなども配置して、日本の風俗を外国に伝えるための演出効果を考えた写真だ。
幕末に来日した外国人は、一様に日本の女性について、美しい、しとやか、涼しい目が魅力的と賞賛している。
写真の女性も、いま映画デビューしてもおかしくないくらい、実に美しい!ほれちゃいそうです!