アサヒ・コム
検索使い方
ここから本文エリア

2008.3.29









ご意見はこちらへ
home  > be  > entertainment 
愛の旅人
団鬼六とさくら
「瘋癲の果て さくら昇天」

写真
宵闇に浮かぶ鶴ケ城の天守閣。さくらは子どものころ、城跡の公園で遊び回っていたという=福島県会津若松市で

■春に散った愛人さくら

 しどけなく身をくねらせながら、従順なアリスは豊満な肢体を古めかしいソファに横たえた。

 50キロにやや足りない重みがクッションのきいた布地を柔らかくしならせ、バランスを崩さないよう手足をばたつかせる幼げなしぐさが、主人である老作家の愛情をことさらにかき立てる。

 涙ぐんでいるかのように潤んだアリスのまなざしは、主人の手荒く気まぐれな愛撫(あいぶ)をひたすら待ちかねていた。

 「こいつがいま大流行。盲導犬にもなるから」とペットショップにそそのかされて8年前に買った雌のラブラドルレトリバー犬のアリスは、巨体を団鬼六さん(76)に寄りそわせたまま片ときも離れようとしなかった。

 慢性腎不全を患い、昨夏から1日おきに4時間がかりの人工透析で命を永らえている主人を気遣うようにアイコンタクトを求め、殺気だったうなり声を発して他人を寄せつけまいとする。妻の安紀子さん(63)は、アリスの献身にこう感嘆するのである。

 「先生がいないとシュンとしちゃって、私にはしっぽもふってくれない。さくらちゃんが乗り移ってるんじゃないかと思うぐらい女っぽいのよ」

 かつて月産最高500枚もの執筆に追いまくられたSM小説の巨匠は58歳にして突如、ポルノには倦(う)み疲れたと断筆を宣言。横浜の桜木町駅近くに5億円かけて建てた地上2階地下1階、24畳敷きの将棋対局室や屋上ビアガーデンまである豪邸で、アマ6段の技量の将棋ざんまいの暮らしにふけった。

 だが、商品先物取引の相場に手を出して大損するなどして「鬼六御殿」は借金の形に取られ、やむなく断筆を撤回。96年から東京・杉並の京王井の頭線沿線で借家住まいの身となった。

 井の頭線の西永福駅から短い商店街を通り抜けた路地裏のキャバクラ「熱帯夜」に、8年前から週に3日とあげず通いつめるようになった。鬼六流にいえば、そこで働く「ネオン花」であるさくらがお目当てだった。

 さくらは場違いなほど端正で、古風な気品さえたたえた容貌(ようぼう)で老練な作家を惑わせた。永遠に探し求め、愛し続けるであろう女性美の原型がそこにあると直感させたのである。その風情は、後に小説でこう表現された。

 「濡(ぬ)れたような抒情(じょじょう)的な瞳が乳色の冷たい顔立ちに似合い、どことなくしっとりした翳(かげ)りが男心をそそる」

 故郷が福島県の会津若松だと聞き、会津藩士の血を引く娘という妄想が、さらに胸騒ぎを覚えさせた。

 やがて作家は、47歳も年下のさくらを「愛人」とした。すでに不如意であるため肉欲の交わりはない。パトロンのように庇護(ひご)、寵愛(ちょうあい)したのだ。妻も公認し、アリスも彼女によくなついた。

 この奇妙な三角関係が、不意に夢から覚めるように断ち切られたのは02年3月3日、日曜日の深夜のことだ。

 さくらは謎めいた自死を遂げた。

写真
雑居ビルの地下の「熱帯夜」に足を踏み入れると、団鬼六さんは男のパワー全開に=東京都杉並区で

■先生、私を育ててください

 警察署の霊安室で対面したさくらの顔は苦悶(くもん)の跡をとどめていなかった。

 泥酔して睡眠薬を常習する悪癖に、いつのまにかおぼれていたらしい。

 マンションで夢うつつのまま、床に座りこむ体勢で縊死(いし)したようだった。

 錯乱し、うわごとのように「死んで花が咲くかいな」と一中節(いっちゅうぶし)を口ずさんでいる団鬼六さんに、警官が折りたたまれた大学ノートの切れ端を渡した。

 冷静な筆跡で遺言が記されていた。

 「先生ごめんなさい。ごめんなさい。本当に先生を愛してました」

 よろめく足取りで家路についた鬼六さんは、直後に脳梗塞(こうそく)の発作に襲われた。後遺症で右腕はいまだにしびれ、つえなしでは歩けない。

♪  ♪  ♪

 さくらは、和服で威風堂々と場末のキャバクラに現れる老人の素性を、最初は知らなかった。「熱帯夜」で週4日働き、平均20万円の月収で家賃7万円のアパートにつましく暮らしていた彼女の身なりや食事は貧相で、年齢相応の物欲がないようだったという。

 「会ったとたんに、こいつや、と目をつけたからね。愛人なんて、それこそ数え切れないほどいたけど、あきらめたころに美の原型のような女を見つけた。しかも純情で、金をやるといっても受け取らん。男ちゅうのは最後まで、夢を持たせてくれる女、育ててみたくなる女がいないとだめなんだ」

 鬼六さんも、さくらの経歴には無頓着だった。女子高を卒業後、会津若松から上京して看護学校へ通ったが、同棲(どうせい)までした恋愛が破局したため自暴自棄になり、キャバクラ勤めをするようになったとしか知らない。

 ただ、ふだん控えめな彼女は、子どものころの遊び場だった故郷の鶴ケ城公園や飯盛山の史実を語り聞かせてくれるときに無邪気なほど冗舌だった。

 幕末の戊辰戦争が終結し、鶴ケ城の開城前夜、断髪、男装して籠城(ろうじょう)していた女傑、山本八重が月下に城閣を仰ぎ見て詠んだとされる「明日よりはいずこの誰か眺むらん馴(な)れし大城残す月影」の歌はさくらから教えられた。

 そんなことがあると、高潔で気性の激しい武家の女の幻影を彼女に重ね合わせる妄想がさらに膨らむのだった。

♪  ♪  ♪
写真
西永福駅の商店街はどことなくわびしい=東京都杉並区で

 巡りあってから3カ月後、鬼六さんは「君は僕の愛人だ。君もそのつもりでいてくれ」とおもむろに宣言した。色欲の発露すらかなわぬ己の肉体の内部で神経のずぶとい別人が好き勝手に動き回っている感触があったという。

 手近な高井戸で1DKの賃貸マンションに住まわせると、着付けを習わせ、和服を次々と買い与えた。免許があるのを知ると、赤いフォルクスワーゲン・ゴルフの中古車を運転させた。

 「こいつはどんどん伸びる娘や」と確信すると惜しげもなく金を使った。

 文壇のパーティーや銀座かいわいの酒場には彼女をかならず同伴し、作家仲間や編集者に臆面(おくめん)もなく、「これ僕の愛人」といって引き合わせた。当時を知る担当編集者はこう述懐する。

 「いつも先生の背後に控えて、かいがいしく身の回りの世話をしていましたが、会話に口をはさんだりしなかった。生まれつきの色もにおいもない空洞のような存在感の女性でしたね」

 恋人ができたらマンションに連れこめ、結婚するなら仲人もしてやる、と本心からけしかけたこともある。

 「冗談じゃないわ、と泣きながら怒った。完全な愛人になりたい、育ててくださいと言うてました。享楽主義者の僕らしからぬ、これぞ純愛や」

 鬼六さんが「愛人」を自宅に招いたとき、妻の安紀子さんは、さすがに度肝を抜かれたが、すぐに打ち解けた。

 「女房たるもの、肉体関係のない心の浮気ごときに目くじら立てちゃいけない。先生は物書きなんだから、感性の潤いが失われちゃう。晩年に純粋恋愛の機会を与えてくれたさくらちゃんは先生の女神だったと思いますよ」

 02年3月1日夜、さくらは華道のけいこの後、西永福の小料理屋に寄り、好物の角煮大根とグラタンをつつきながらおかみとたわいもない世間話をして帰った。鬼六さんは電話で呼び出されたが、締め切り間際で相手ができなかった。2日後、さくら昇天。

♪  ♪  ♪

 自死の真相は、それを知る手がかりすらいまだにない。安紀子さんは「小説家にこの結末はあまりに残酷よ。空想、妄想して原稿を書ければ、それだけで十分だったのに」と無念がる。

 腎不全が悪化して約1年、足が遠のいているという「熱帯夜」に同道を願うと、デカダンスの魔王が復活した。眼光に妖(あや)しい火が宿り、哄笑(こうしょう)しながらホステスを抱き寄せ、「キスしまひょか」とカメラマンを挑発するのだ。

 だしぬけに懐で携帯電話が鳴動すると、渦巻く嬌声(きょうせい)に「さくらさくら」の着信メロディーが混ざりあった。

文・保科龍朗、写真・鎌田正平
相関図

写真
01年春ごろの鬼六さんとさくら
〈ふたり〉

 淑女を辱めるSM小説の傑作『花と蛇』の執筆に団鬼六(本名・黒岩幸彦)さんがのめりこんだのは、1962年から神奈川県三浦市の漁港町の中学校で心ならずも英語教師をしていたころだ。27歳のとき書いた学生相場師の立身出世小説『大穴』の映画化権料で東京・新橋のバーを買い取ったが、放漫経営で借財がかさみ、小豆相場に手を出して破滅したための都落ちだった。同僚教師だった前妻の目を盗み、授業を自習にして教室で原稿を書きまくったという。

 ピンク映画やSM雑誌で70年代の背徳の寵児(ちょうじ)となった鬼六さんは83年に前妻と離婚。翌年、秘書だった安紀子さんと再婚する。さくらは、実人生も小説のように浮き沈みした老作家を慰めるかのように現れ、はかなく消えた「最後の愛人」である。



〈ぶらり〉福島・会津若松
連載をまとめた「愛の旅人」「愛の旅人II」が好評発売中です。いずれも朝日新聞社刊、1680円。ASA経由でも購入できます。


b
e
g
asahi.comに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
| 朝日新聞社から | サイトポリシー | 個人情報 | 著作権 | リンク| 広告掲載 | お問い合わせ・ヘルプ |
Copyright The Asahi Shimbun Company. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.