2008年5月 8日 (木)

PRO-VISIONⅡ lesson4

プロビジョンⅡ lesson4

The World of Moomintroll  ─ムーミントロールの世界─

児童文学の有名な作品がアニメを通じて世間に広く知られてきた。アニメ映画になった児童文学の有名な一例がムーミンである。このアニメは日本ではヒット作で、ヨーロッパの数カ国のテレビで放映された。このアニメのかわいい顔をしたキャラクターを見たことのある日本人は多いが、ムーミンの世界について本当はどれほど知っているだろうか?

日本の学生100人の調査で、次の質問が聞かれた。

1)ムーミンのことを何か知っていますか?

2)もとの話はどこから来たか知っていますか?

3)ムーミンの話にどんな印象を受けますか?

学生100人中、9割近くの学生が“はい”と答えたが、その4分の1しかその話の生まれた場所を知らなかった。3番目の質問に対する答えで、学生はかわいい、暗い、幸せ、楽しい、まじめ、やさしい、自分勝手などさまざまな印象を述べた。そのようないろいろな印象を持った理由は何だと思うだろうか?

ムーミン(彼の元の名前はムーミトロール)はフィンランド人の作家であり画家でもあるトーベ・ヤンソンによって生み出された。彼女は一連のムーミントロールの本を書いた。彼女の第1作目の『小さなトロールと大きな洪水』は第2次世界大戦直後に出版された。最初、それはフィンランドの新聞販売所でだけ売られたが、しばらくしてそのキャラクターが多くのフィンランド人の人気を得始め、その後26年以上トーベは話を書き続け、他の8冊のムーミンの本のイラストを描いた。

“ムーミントロール”という一風変わった名前はトーベのおじによって作り出された。彼はよく、“ムーミントロール”という目に見えない生き物が家のストーブの後ろに潜んでいると言って彼女を怖がらせたものだった。彼女が何か悪いことをしたとき、彼は彼女に「ムーミントロールが出てくるぞ!」と言ったものだった。

ムーミントロールの姿は、トーベが小さい女の子だったとき壁に描いた落書きしたキャラクターから来ていた。それは大きな鼻と長いしっぽを持ったぽっちゃりした生き物だった。トーベは成長する間このキャラクターを描き続けた。

20代のとき、戦争が始まった。戦争中、トーベは戦争に反対していた雑誌の表紙のイラストを描く仕事をしていたので、フィンランド政府は彼女の作品を発禁処分にした。彼女は描く意欲を失った。「この世界が混沌としているときは絵は何の意味も持たないように感じた。」彼女は言った。「私の身の周りのすべて物が色褪せていった。」

周囲の世界に落胆したので、トーベは彼女の新しい想像の世界を作り上げていった。彼女は子供時代の幸せな日々を思い出し、穏やかで平和な雰囲気を持った場所を見つけようとした。この場所がムーミン谷、ムーミントロールという名前の生き物とその友達が住む緑の木々に覆われた谷だった。「実を言うと、戦争中にそんな話を書くことは私にとって一種の現実逃避だった。」トーベは言った。

トーベの空想の世界はフィンランドの、果てしない緑の森と青い湖でいっぱいの土地の美しい自然を反映している。ムーミン谷では北欧のように夏は短く冬は長い。秋の終わり、冬のあいだ冬眠するためにムーミントロールと彼の家族は松葉をしっかり食べる。谷の生活は浮き沈みに満ちている。時おり洪水や竜巻、火山の噴火に見舞われる。物語のキャラクターたちは自然の脅威だけでなく難しい個人的な問題にも対処しなければならない。このことがムーミントロールシリーズを他の児童文学とは異なるものにしている。あるエピソードはこう進む。

ニニという名前の若い女の子が、おばがいつも意地悪なことばかり言うので自信をなくしている。彼女はとてもしょげてしまい、透明人間になってしまう。運のいいことに、彼女はムーミントロールの一家に出会う機会に恵まれる。彼らは彼女を歓迎し、やさしくもてなす。彼らの優しさに感動し、顔を取り戻すのに若干時間がかかったものの、彼女は次第にまた目に見えるようになる。ムーミントロールの小さくても強情な友達のちびのミイは彼女に言う。「闘うことを覚えるまで絶対顔は取り戻せないわよ。」

顔を取り戻すため、ニニは自信を得る必要があった。ある日、ムーミンパパがからかってムーミンママを海に突き落とそうとする。ニニはムーミンパパがムーミンママを傷つけようといているのだと考える。彼女は怒ってしっぽに噛み付いてムーミンパパを止める。彼女の顔が現れ始めたのはまさにこの瞬間である。大事なムーミンママを救うことによってニニは、彼女はこの時まで決して誰にも敢然と立ち向かうことはなかったのだが、顔を取り戻すことができる。ニニはムーミンパパに立ち向かったことで彼女は自信を得ることになる。

このエピソードが示すように、トーベは空想の物語を通じて人間の問題について取り組んだ。もしムーミントロールの世界に足を踏み入れれば、ムーミン谷の住人たちもあなたが自分の生活で直面するのと同様の問題を抱えていることが分かるだろう。だから読者は、キャラクターと物語を楽しむ一方で同時に人生についての教訓を学ぶことができる。空想の形態がいろいろな人々が彼女の物語の中に個人的メッセージを見つけることを可能にするのである。

トーベはムーミン谷の世界を作り出すことによって現実から逃避したいのだと言った。しかし実は、彼女は現実から逃げてはいなかった。そうではなく、彼女は現実に創造的に対処していたのであり、そうすることによって彼女は世界中の多くの子供たちを喜ばせてきた。「子供たちが自分が私の空想世界の中に入り込んでいるのに気付き、私の物語を記憶にとどめているのをみると、私はとても幸せを感じます。」トーベは言った。

35を超える言語に訳されているので、ムーミン谷の物語は世界中の人々の心を魅了してきた。ムーミントロールの世界は楽しいときだけでなくつらいときも人々を楽しませ、人生を輝かせるのである。/

2008年5月 4日 (日)

PRO-VISIONⅡ lesson3

プロビジョンⅡ lesson3

Sugar on your Table

多くの人々は、頭が疲れたとき何か甘いものを食べるよう勧める。これは砂糖が脳のエネルギー源だからである。砂糖はあなたに元気付けられたと感じさせる。事実、食べ物の砂糖は摂取してからわずか10秒で体に吸収されて血流に入り、すぐに脳にエネルギーを与える。

砂糖はケーキやクッキーを作る大事な材料であるが、それはものを甘くするためだけに使われるのではない。砂糖は食べ物が傷むのを防ぐのにも役立つので砂糖がいっぱい入ったスウィーツや食べ物は保存され長持ちした。面白いことに、砂糖をなべで熱するとカラメルと呼ばれる茶色の物質に変わるが、それはしょうゆや清涼飲料水、その他の食品の安全な天然着色料としてずっと使われてきた。

見ての通り砂糖にはいろいろな使い道がある。現在ではどこの店でもしごく簡単に砂糖を見つけることができるが、実は砂糖が広い範囲で利用可能になるまで長い時間がかかった。

食料品としての砂糖は主にサトウキビから採れる。この植物は南太平洋の島々が原産で、インドを介して世界中に広まったと考えられている。

ヨーロッパでは、砂糖が持ち込まれる前は甘味料として蜂蜜が使われていた。ヨーロッパ人に初めて砂糖が知られるようになったのは、アレクサンドロス大王の軍隊がインドからギリシャに砂糖を持ち帰った紀元前4世紀である。インドで初めてサトウキビを見て、ギリシャ人兵士は「ミツバチのいない蜂蜜のアシだ!」と喜んで叫んだ。

16世紀、ヨーロッパの人々の間に広まり始めたとき、砂糖は甘味料としてだけでなく薬としても使われた。砂糖は“万能薬”として認知され、医者は体が弱っていると感じている患者に砂糖の“処方箋”を出した。実際、発展途上国の多くでは、砂糖は今なお下痢になっている子供たちを治療するのに使われている。

歴史上には他にも砂糖の面白い使い道がある。それは装飾品としてである。中世では、砂糖はきわめて高価だった。大量の砂糖でできた装飾品はそれゆえある人々の大きな富や権力を示した。

15世紀になると砂糖は新しい役割を担った。15世紀中、主要なヨーロッパ諸国は中米や南米に植民地を作った。サトウキビは世界の熱帯や亜熱帯の地域でしか栽培できないので、カリブ海の暖かい島々を含むこれらの地域はサトウキビの栽培に適していたのである。

イタリア生まれの航海者コロンブスはカリブ海への航海でヨーロッパからサトウキビを運んでいった。コロンブス時代の後、ブラジルやその他の土地と同様にカリブ海の島々にもプランテーションが作られ始めた。砂糖を大量に生産するためには大勢の労働者が必要とされた。不幸なことに、砂糖への需要の増大が世界のこの地域の黒人奴隷の普及を加速させた。数千万人ものアフリカの黒人がこれらの島々に送り込まれ、奴隷として砂糖プランテーションで働かせられた。これが現在これらの島々にアフリカ系の人々がとても多い理由である。

人々の砂糖への欲求が歴史の流れを変え始めた。社交的交際の間にお茶を飲む習慣が流行りだしたのは18世紀の英国で、人々は砂糖入りのお茶の味を楽しんだ。その結果、砂糖の需要が高まり、砂糖は大量に生産されなければならなかった。

想像しづらいかもしれないが、奴隷が砂糖を大量生産するための合理的方法と見なされていた時代があった。世界の一地域での砂糖への欲求のせいで、世界の別の地域の人々が無理やり奴隷にされたのである。

砂糖はかつては高価すぎてほとんどの人が買えなかったが、大量生産がそれの値段を下げた。その結果、砂糖は世界中のありふれた日用品になった。砂糖は、かつては薬や装飾品として使われたが、ようやく食料品になった。

今日、私たちは砂糖を当たり前のものと考えているが、砂糖が広い地域で入手できるようになるのに長い時間がかかったということは覚えておくべきである。砂糖は一種の生きた歴史本である。砂糖や他のそのような日用品を通じて、私たちは過去の人々の生活について知り、世界がなぜ現在のようになったか理解する機会を得る。私たちはたいていものを甘くするために砂糖を使うが、私たちの社会を理解するためという他の使い方もできる。/

2008年4月18日 (金)

PRO-VISIONⅡ lesson2

プロビジョンⅡ lesson2

Tuvalu- Disappearing Island  ─消え行く島─

日本から南東に約7000キロ飛ぶと、美しい青い海に浮かぶ小さな島国が飛行機から見えるだろう。それはツバルと呼ばれる。赤道の真下、フィジーの約1000キロ北の太平洋の真ん中にある。この国には小さな島が九つあるが、土地面積はわずか26平方キロしかなく、最高点も海抜5メートルである。

ツバルの人口はおよそ1,1000人で、そのほとんどが首都フナフティに住んでいる。ツバル人は共同的な生活を送っていて、自然環境と調和して生き、自然の恵みを受けている。生計を立てるため、沿岸水域で漁をしたり、畑でココナツ、バナナ、プラカを栽培したりしている。

そのような平和的な暮らし方が2000年以上続いたが、今、そこは消滅の危機にある。何らかの理由により、すべての島がゆっくりと、しかし着実に海へと沈みつつある。地表から姿を消しつつあるのである。

2月から4月まで、島では満潮時に奇妙なことが起こる。1日に2回、地面の小さな穴から海水が湧き出してくるのである。これはこの島の土がさんご礁の堆積物でできていて、水がこうした堆積物を簡単に通過するためである。その結果、潮が満ちると、土地はスポンジみたいに海水で満たされるのである。

こういうことが島のいくつかの場所で起こっている。下の写真を見てほしい。普段は広場に水はないが、潮が満ちると水たまりができ始める。水たまりはどんどん大きくなって他の水たまりと合体する。たちまち広い土地は海水でいっぱいになる。海水は場所によっては50センチかそれ以上まで上がり、海水が引くのに数日かかることもある。

ある男が言った。「約10年前までは井戸水を飲んでいたものだが、今では飲めない。井戸水は農業にも使えない。井戸水は塩分が多すぎる。今では井戸の中で海ガニが生きている。」プラカの畑を指差しながら彼はため息をついた。「プラカを栽培するのはあきらめなければならない。プラカは一度根が海水につかると生きられない。ここで栽培するのはただの時間の無駄だ。」

他の多くの野菜を栽培するのも難しくなった。その結果、ツバルは外国から持ち込まれる食べ物に頼らざるを得なくなった。彼らは伝統的な生活様式を失い始めていた。

ツバルが海に囲まれているという事実は、かつてはツバル人にとって恩恵だったが、今ではその同じ海が彼らのすみかと生活様式をまさに奪おうとしている。海岸沿いにヤシの木の生えた多くの砂浜があって、そこはかつて子供たちが集まって遊んだ場所だった。そんな場所はもう存在しない。満潮と強風が、かつて岸沿いに並んでいたヤシの木だけでなくほとんどすべての砂地も侵食してきた。

「私たちは死ぬまでこの国にいるつもりです。」ある年配の女性が言った。「たとえ海の下に沈んでも、この島を去るつもりはありません。子供たちは出ていかなければならないかもしれない。新しい場所で幸せに暮らしてほしい。でも私は今いる場所にとどまるつもりです。ここが私の家なのです。」

この小さな島国が直面していることは、単なる局地的な問題ではなく、また地球規模的な問題でもある。日々の人間の活動─特に先進国での─が地球温暖化と大きく関わっている。毎日、化石燃料やごみなどといったものが燃やされることによって大量の温室効果ガスが生み出されている。このことが地球温暖化を加速させており、それが極地の氷を溶かして海水面を上昇させていると多くの科学者は考える。

ある報告書は海水面が今後100年間で88センチも上昇するかもしれないことを明らかにしている。ツバルだけが海水面の上昇による影響を受ける国なのではない。もし海水面が上昇し続ければ、日本の海岸線も含め、他の多くのより大きな国の海岸線もまた海の下に沈むだろう。/

2008年4月14日 (月)

PRO-VISIONⅡ lesson1

プロビジョンⅡ lesson1

Go Armstrong! ─いけ!アームストロング─

“どんな障害もチャンスに変えろ、どんなマイナスもプラスに変えろ。”母はこのルールをもって私を育て、そしてそうやって私は生きてきた。

私の育ったテキサスの小さな町では、フットボールをしなければひとかどの人間にはなれなかった。私はフットボール選手になろうとしたが下手だった。そこで他の何かを見つけたいと思った。

私は子供のころ義父とうまくいってなくて、それが私をいらいらさせた。しかしこの問題を乗り越えるチャンスを与えてくれることが起こった。初めて自転車に出会ったのである。私は自転車に引き付けられ、こう考えた。「もし自転車に乗ってこの道をずっと遠くへ行ったら、どこかここよりもっといい場所にいけるんじゃないか。」と。

雨でも晴れでも私は自転車のペダルをこぎ続けた。13歳のとき、若いサイクリストのためのトライアスロンで優勝した。その後まもなく別なトライアスロンでも優勝した。私はアメリカトップのジュニアサイクリストでいる気分が好きだった。こうして私の自転車生活が始まったのだった。

1990年、18歳のときに日本の宇都宮でのレースで、サイクリストとして海外デビューを果たした。私は強靭なライダーだったが、戦術はまずかった。レース半ばでバテないよう、スタミナをもっと効率的に使う必要があった。ベストを尽くしたが、11位に終わった。

1993年、私はオスロで開かれた世界選手権で優勝した。私のレース技術はよくなっていたが、まだ改善する必要があった。

私が初めてツール・ド・フランスに参加したのは1995年だった。私はサイクリストにとって世界でもっともきついレースに参加するのに成功したが、優勝するにはまだ不十分だった。

けれどもツール・ド・フランスのあと、私は選手生活のピークにさしかかっていると感じた。世界最高のライダーの一人として、私は邸宅、素敵なスポーツカー、そして銀行に貯めた財産があった。いつも順風満帆にいくと思っていた。

その後、人生最大の障害が訪れた。「がんですね。」という言葉を聞いたとき“恐怖”という言葉の本当の意味がはっきりと分かった。この恐怖に比べたら、それまで味わってきた恐怖など何でもなかった。「肺と脳にがんがあります。」医師がいった。私の生存確率は40パーセントだった。まだ25歳。もっと生きていたかった。

3回手術をし、その後に長くて痛い一連の化学療法が続いた。いつも痛みがあって嘔吐し続けた。治療は病気そのものと同じくらい、いやもっとひどいと思った。これがまる4ヶ月も続いた。

私は奇跡的にがんに打ち勝った。問題は選手生活に戻るべきかどうかだった。長くてつらい科学治療のせいで筋肉はすべてそぎ落ち、とても弱りすぎていて何もできないような気がした。

自転車に乗るのはもはや無理だと思った。「アームストロングは終わった。もう二度とレースしないだろう。」私はプロのサイクリニストとしてのキャリアを断念することを考えた。

時間のほとんどをゴルフをし、テレビを見てすごしたが、面白くなかった。幸せも自由も感じなかった。そんな折、コーチが私に会いに来た。彼はガレージで私の自転車を見て、私が自転車に乗っていなかったことを知った。

「せっかく生き返ったんだから、また走らなきゃだめだ。」彼は言った。そしてアパラチア山脈でトレーニングキャンプをやらないかと勧めてきた。私は準備万端というわけではなかった。しかしそこは前にレースで2度、優勝した場所だった。再スタートを切るのに悪くない。いくらか時間をかけ、また自転車に乗る決心をした。

毎日毎日何時間もペダルを踏んだ。ある日、雨の中、坂を登っていると、道路に書かれた白と黄色の文字が目に留まった。“Viva Lance”と書いてあったのだが、それは前回のレースで私を見た観客が書いたものだった。登り続けるにつれ、車輪の下に雨で消えかけた文字がもっと見えてきた。“Go Armstrong”。私は自分の人生がどう運命付けられているのか分かり始めた。単純に、私の人生は長くて険しい登り坂ということだ。私は自分がしなくてはならないことを悟った。それはツールで優勝することだ。

私は1999年のツールに挑戦するまで、すべてを犠牲にして厳しいトレーニングに専念した。私が優勝すると思った人はほとんどいなかった。レース前半、私はスタミナを温存し、後方につけていた。レース中盤になって先頭に立つと、そのまま先頭を維持した。走っているあいだ自転車が体の下で左右に揺らぎ、私は息を弾ませた。3週間以上続くレースのスタミナ配分を考えながら、来る日も来る日も自転車に乗り続けた。疲れきっていたが走り続けた。最後の6キロに入ると、持てるすべてを尽くしてペダルをこぎ続けた。フィニッシュラインを切ったとき、時計は最も競り合っている相手より私のほうが9秒早いことを示していた。私はツールで優勝したのである!

以前、「ランスはフランスの山や丘を飛び上がっていった」と書いてある新聞記事を読んだことがある。しかし丘を飛び上がっていくことは決してできない。のろのろじりじり四苦八苦しながら丘を登り、もし本当にがんばったのであれば、もしかしたら頂上にたどり着けるかもしれない。人生は障害に満ちている。その障害をチャンスに変えるかどうかは君次第だ。/

2008年4月 6日 (日)

PRO-VISIONⅡ Reading1

プロビジョンⅡ Reading

Choices Are in Your Hands  ─運命はその手の中に─

“人生はチョコレートボックスのようなもの。何が出てくるか決して分からないわ。”映画フォレストガンプのこのセリフはリエという名前の日本の女子高生を含むみんなの心をとらえた。しかし彼女は、自分が、数年後にこのセリフが本当に意味するものを実感する者になろうとは思ってもいなかった。

「死なせて。お願いだから死なせて。」ほとんどの日がこのうめき声で始まった。リエは、将来この闘いに勝った後どんなことができるか話して母ルリコに応え、精一杯の励ましの笑顔を浮べて母のほほをなでていた。母を死なせる代わりに、自分の気持ちを抑えて母を支え続ける必要があるとリエには分かっていた。

リエは母が起こすかもしれない呼吸障害の兆候を見逃すことを恐れ、夜もほとんど眠らなかった。痛み止めのモルヒネを打ち始めたため、彼女はもはや以前のような生き方ができなかった。彼女はリエが知っていた母ではなかった。彼女はよだれで口をぬらしたまま急にうとうとし、自分の考えを言葉にまとめようとするときでさえ、口から言葉にならぬものが出て床に落ちるだけだった。リエは無理して感情を抑えていたが、愛する母の身に起きたそれとわかるほどの変化を見守るのは、17歳の少女にとってとても耐え難いことだった。

稀にではあるが確かに具合のよい日もあった。リエはそれがとても幸せなチョコの一噛みだと知った。そんな日は、母は楽観的になり、部屋には笑い声があふれた。具合のよい日とふだんの日の落差が激しかった。二人は日差しや公園の青葉を、ただその日そのものを楽しむことができた。自分たちは元気に生きていて、死に直面しているわけではないと感じた。具合のよい日の終わりにいつも、リエはこんな日が続くことを祈った。しかし彼女の祈りは決して聞き入れられず、翌日には苦痛に襲われた。闘いと実時間の悪夢が戻ってくるのだった。

リエには二つの面があった。一つは、全てがよい方向に向かうようにと─母が奇跡的に回復し親子でその後ずっと幸せに暮らせるようにと祈りながら母の回復への望みを突き通すものだった。リエのもう一面は、母を通して死につつある人のあらゆる危篤の兆候を認識しており、また、自分の祈りが非現実的な夢にすぎないことも知っていた。しかしいずれにせよ、彼女は全てがよくなるかのような振りをする必要があった。彼女は母にいかなる絶望という考えも見せたくなかったのである。

半年の間、母を休むことなく看病した後、リエの身に説明しがたいことが起き始めた。彼女は母が汗をかくまさにその瞬間を感じた。彼女は、化学療法のせいで髪の毛を失っていた母と同様にたくさんの髪を失った。リエもまた、四六時中疲れきっていてどこにいてもひどい寒気を感じた。他人には、どちら危篤状態なのか見分けるのは困難だった。ルリコとリエはほとんど双子のように見えた。後になって、リエはひどい拒食症になっていて体重が12キロ減った結果、彼女自身が死にそうになっていたと告げられた。母の看病にとても集中していたので、リエはどれほど自分の体を大事にしなかったかほとんど忘れていた。

母は秋の初めに他界した。リエは心の準備をしていたつもりだったけれど、実際はまったく準備していなかった。母を救い一緒に暮らすことが目的だったので、彼女は完全に自制心を失った。笑い方を忘れてしまい、かつてのように楽しそうに振舞うことができなかった。自分にひどい苛立ちを覚えた。彼女の母の死はリエの祖母を始めとする全ての人に影響を及ぼした。祖母は、まるで自分も生きる意志を失ったかのように、娘リエコのわずか四ヶ月後に他界した。そんな短期間で自分にとって最も大事な人々を失ったので、彼女は自分も生きていたくないとさえ思った。

けれども徐々に、彼女は生まれて以来ずっと母から受けていた愛情や気配りに気付き始めた。亡くなった二人の愛情あふれる支えによって、複雑なジグソーパズルがはめ込まれていくようにこの人物、リエと名付けられたこの少女は形作られた。それでも彼女は二人の作品であり、彼女自身のものではなかった。彼女は二人の作品を台無しにすることはできなかったし、絵全体を完成させるための彼女自身のピースを探すのをあきらめることもできなかった。何より、二人の愛情に応えるために自分自身の生を生き続ける責任があると知った。

責任に応えようとする決意がありながらも、リエは自分の将来の願いを求めて平常心を失う傾向があった。亡き母に極度に尽くしたことで、彼女は自分自身の気持ちを知ることがなかった。それにいつも疑問がこう思い起こさせた。「何で私はまだ生きてここにいるの?」苦しめられ、彼女は母の大きな期待に応えるかのように必死で本当の自分より大きくなろうとせざるを得なかった。それは心の中の苦痛に満ちた悲鳴だった。彼女は母の死を受け入れたくなかった。

しかし数年たったある日、何かがカチリと音を立てた。「私は自分をだましていたんじゃないかな?」一息入れてあれこれ考えた。そして、本当は母の死を克服できてないのに、それを克服できるくらい成長している振りをしていただけだったと気が付いた。それどころか悲しみ、怒り、むなしさといった長く閉ざされていた本当の感情から逃れるために、無意識のうちに自分にどんどん負担をかけていたのだ。「なんで母のような心のきれいな人が死ななきゃいけなかったの?」「どうして皆、回復の見込みがなくなったと分かったとたんに母を見捨てるほど残酷になれるの?」「なんでもうお母さんに会えないの!」渦巻く感情と素直に向き合って彼女はようやく母の死を、それがどれほど痛ましいものだったかを受け入れることができた。こうして感情を受け入れたことで、彼女はしだいに自分の人生と母の人生との区別がつくようになって、自分の存在理由を再発見するにいたった。母の死後はじめて彼女は自分の人生を生きることにときめきを覚えたのだった。

過去と心の奥底を振り返って、彼女は自分の足で立つ特有の恐れを自覚した。それは死別した母に極度に尽くすことから来ていた。覚えていることと嘆くことは別物である。彼女は愛する母が喜ぶだろうと思い込んで後者の行動をとっていた。それは幸せで安全な、しかし保護された子供時代という巣にいるための込み入った方法だったが、その子供時代は永遠になくなって、ただ記憶の中に存在するだけだった。もし巣から去らなければ、本当の成長を遂げることはないだろう。この苦くも目を開かせるような教訓を得たので、リエはもう過去とは決別すべきだと、そして自分自身の道へと目を向けるべきだと考えるようになった。成長して過去から抜け出すのは痛みも伴うだろう。でももう怖くはない。ようやく生きることを選んで、今、うれしく思っている。

“人生という箱からは、苦いチョコが出てくる日もある。でも覚えておいて。びっくりするくらいおいしいチョコはいつだってあるの。箱全体を考えなさい。一粒のチョコで判断してはだめ。噛んで、食べて、そして勇気をだしてもう一粒取りなさい。箱を食べ終えるまで、あなたが何を手にするか誰にも分かりっこない。選ぶのはあなた自身よ。”/