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国歌を唄えて国旗を掲げる権利と、喜び

2008年5月22日

 昨今はさすがに少なくなったが、以前は五輪が近づくと必ずと言っていいほど、こんな記事が新聞紙上に載ったものだ。
 「五輪期間中は“にわか愛国者”が増える。普段は国旗に見向きもしない人たちが、日の丸はいくつ上がったか、君が代は何度歌われたかに夢中になる」。

 まるで日の丸や君が代に夢中になるのが滑稽なことでもあるかのような、シニカルな文章を目にしたことがある人は少なくないだろう。「日の丸や君が代に対して、あくまでも批判的なのが進歩的文化人というもの」あるいは「普段は日の丸や君が代に批判的な進歩的文化人も、五輪の時は童心に返ってしまうもの」といった読者に対する優越感に満ちたニュアンスを感じるのは私だけではないだろう。仮にそれが私の思い過ごしだとしても、一部メディアで使用される「愛国者」という単語には、通常は尊敬の対象であるべきカテゴリーの人々に対して、それとは正反対の侮蔑と、ある種の危険人物であるかのような意味が含まれているように思えてならない。

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 五輪は、国家を強烈に意識させるイベントでもある。そして、わが国は最も国歌や国旗に敬意を払わない人が多い国の1つであったのは間違いないだろう。それは60年代から70年代にかけて、新左翼運動が全盛であったことと無縁ではない。だが、80年代から90年代にかけて、そういったイメージは急激に変わってきた。北京五輪を目前を控え、日刊スポーツに掲載された記事を見ても、選手の意識が変わりつつあるのは感じられる。例えば以下のような記事だ(いずれも抜粋)。

競泳・中西悠子・・・母校(近大)に贈った色紙に「メーンポールに日の丸を」と書き込んだ。
競泳・北島康介・・・「センターポールに日の丸を揚げます」。
競泳・末永雄太・・・「自分はセンターポールの隣に日の丸を揚げます」。
野球・片岡易之・・・「日の丸を背負ったことがないので、そういうチャンスがあるなら国の代表として頑張りたい」。
野球・サブロー・・・「予選では日の丸を背負うプレッシャーと感動がいかにすごいものかを知ることが出来ました。もう1度、あの興奮を味わいたいので、シーズンでしっかりとアピールしていきます」。

 若い世代が何の屈託もなく、自らの目標達成の象徴として「日の丸」に言及しているのは興味深い。
 恐らくこういった姿が自然な姿なのだろう。自らの国の旗や歌に敬意を払うことは当然であり、国歌を歌わないことに自己のアイデンティティーを求めるのは、例えば中国に国を奪われたチベットの人々のように極めて限られた層である。

 忘れられない事件がある。
 1993年、5月1日、世界2輪選手権スペインGPの予選で痛ましい事故が起きた。250CCクラスに参戦したばかりの若井伸之選手(25歳)が、タイムアタックをかけようとピットロードで加速したとき、イタリア人選手の招待客がオフィシャルの制止を振りほどき急に若井の前に飛び出したのだ。無謀なその酔客を回避できなかった若井は、それでも衝突を回避しようとぎりぎりまでマシンをコントロールし、相手の頭を手でかばいながらコンクリートウオールに激突した。相手は重傷で済んだが、若井は医療団の懸命の治療も空しくわずか25年の生涯を終えた。

 輝かしい未来が嘱望されていた若井を襲った、予選中のあまりにも悲しい不幸な事故だった。同じレースに出ていた原田哲也は棄権を決意する。面倒見のいい若井に誘われて世界GPに参戦したのは原田哲也だけではない。125CCクラスに参戦した坂田和人も同じだった。坂田もレースを棄権しようと思った。欧州で人気急上昇中の上田昇もそうだった。しかし、GP関係者の懸命な説得で、日本人選手はそれぞれのスターティンググリッドに立った。

 250CCで原田は独走で優勝した。彼が最強の世界チャンピオンとして世界中の賞賛を浴び、イチローや中田英寿を尻目に欧州で最も有名な日本人になる、サクセスストーリーの最初の一歩となった勝利だった。

 表彰台にも上らずインタビューまでキャンセルした原田はコメントを発表した。
 「きょうの僕は最愛の友、若井伸之選手のために走り、このレースを勝った。このスペインGPの勝利を心から彼に捧げる」
 この日の優勝カップは若井選手の実家に飾られている。

 後の世界チャンピオン坂田も125CCでGP初優勝を果たした。坂田も原田とともに欧州で最も有名な日本人になったのだが、2人とも鬼気迫る走りで若井の不幸な死を悼むレースファンに深い感動を与えた。
 坂田は「今日は親友のために走った」という一言を残し、表彰台で泣き続けた。スペインのヘレスサーキットで2日連続君が代が流れ、日章旗がメーンポールに翻ったのだ。

 海外で暮らす日本人は、それまで考えもしなかった日の丸と君が代の美しさに気づいて、驚くことが多いという。F1に日本人が参戦を始めた80年代末から、バックパッカーたちが日の丸の手に世界各地のサーキットを訪れることが多くなった。世界で勝てる日本人のグランプリライダーたちの活躍も、多くの海外在住日本人に夢と希望を与えてくれた。
 そして、93年5月1日に表彰台に上がらなかった原田哲也に捧げられた、君が代の演奏と日の丸の掲揚は、ヘレスサーキットを訪れていた日本人だけでなく、地元スペイン人をはじめとする世界中の観客に大きなインパクトを与えてくれた。

 日本サッカーがメキシコ大会以来、28年ぶりに五輪出場を果たしたアトランタ五輪。1996年7月22日にマイアミのオレンジボウルで日本五輪代表対ブラジル五輪代表の一戦が行われた。日本はGK川口の神がかりのスーパーセーブの連発でブラジルを1-0で振り切り、貴重な緒戦勝利を飾った。
 当時、米国に留学していた2人の学生と私は行動を共にしていたのだが、彼らは車で移動中、日の丸を窓から振りかざし、フロリダの風に翻らせた。美しい光景だった。追い抜いた観戦ツアーのバスから、そして対向車からも祝福の手がかざされ、歓声が上がった。

 米国でスポーツマーケティングを学んでいた彼らは、帰国後それぞれの人生を歩んでいる。A君はサッカーの川崎Fのフロントで、S君はチリのプロサッカーチームと名古屋のトレーナーを経て、スポーツジムの運営に携わっている。

 2輪やF1のサーキットで、あるいはサッカースタジアムで、海外で暮らしていると国歌、国旗に対して自然と振舞えるようになるということは、日本の事情が特殊で異常であることの証左に思えてならない。彼らは外国であれば当たり前のことをしているに過ぎないし、そのことが日本のそれまでの異常さを認識させる1つのきっかけになった。

 98年、日本がW杯初出場を果たしたフランス大会緒戦の対アルゼンチン戦では、世界のサッカー大国に負けない声量で日本のサポーターは堂々と君が代を歌い上げた。私はその時、戦後長く日本を覆った新左翼運動の呪い、あるいは進歩的文化人を自認する人々の呪縛が音を立てて崩れていくのを感じた。

 君が代と日の丸に反対する一部の人は「戦前の日本を表しているから反対だ」とよく言う。「侵略戦争に加担していたシンボルだ」という意見もある。しかし、仮に日本の戦争が悪かったとしても、あるいは<侵略> だったとしても、日の丸や君が代は当時も今も国家のシンボルであり、ナチスの鉤十字を国旗としたドイツ第三帝国とは事情が違う。ドイツが今でもナチスの鉤十字を国旗としていれば「国旗を掲げたくない」という主張も納得できるが、君が代、日の丸に反対する人たちの言う「国策を誤った」のは当時の日本政府あるいは軍部であり、「国策を誤った当時の日本と同じ国旗、国歌はいやだ」という主張をドイツ第三帝国の状況と同一視するのは論理的に無理がある。

 もし、悪い侵略戦争だったとしたら、そのシンボルである日の丸、君が代を忌避するのは、かえって罪を逃れる卑怯な行為になるのではないか。日本の過去が過ちだったとしたら、そう認識した人は過去から目を背けてはならない。過去を背負って現在に継承しなければならないはずだ。そしてそうであれば、他国を公然と併合し人権弾圧を行っている近隣国に平和の尊さを教え「国旗を変えろ」「国歌を歌うな」と主張してほしいものだ。…まあ、無理だろうが。

 小中学校や高校の入学式や卒業式で、国歌を歌わない権利があるとして児童、生徒に特定の政治イデオロギーを強制する勢力が存在する。こういう人たちは、国歌を唄いたくても唄えない、国旗を掲げたくても掲げられない、侵略下の地域にある子供たちのことなど考えたこともないに違いない。

 2001年のブータン映画、「ザ・カップ」は、チベット亡命者の少年僧が寺院で禁じられたW杯のテレビ観戦を何とか苦労して実現させる物語だが、主人公の少年僧が「僕らが国歌を歌える日が来るのかな…」とつぶやくシーンこそ、日本人の幸せな環境を何よりも雄弁に物語っている。
 日本人が大声で君が代を歌い上げなければ、あの主人公の少年に失礼なことをしていることになると思う。
 北京の空に日の丸が翻り、君が代の美しい旋律が流れる日を、今から楽しみにしている。

※写真は07年11月、北京五輪アジア最終予選のサウジアラビア戦(国立競技場)で、日の丸を振るサポーター(撮影・蔦林史峰)

コラム『細川伸二の目』

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プロフィル

 西村幸祐(にしむら・こうゆう)作家・ジャーナリスト・戦略情報研究所客員研究員。
 1952年(昭27)東京生まれ。慶応義塾大文学部哲学科中退。在学中に第6次『三田文学』の編集を担当、80年代後半から主にスポーツをテーマに作家、ジャーナリストとしての活動を開始した。93年のW杯予選からサッカーの取材も開始。02年W杯日韓大会取材後は、拉致問題、歴史問題、メディア批評などスポーツ以外の分野にも活動を広げている。「撃論ムック」編集長、文芸オピニオン誌「表現者」編集委員。著書は『ホンダ・イン・ザ・レース』(93年・講談社)、『反日の構造』、『反日の超克』(PHP研究所)など多数。ホームページは900万PVを突破した。
http://nishimura-voice.seesaa.net/



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