[AML 19685] 言葉狩りの誤り(1)

菩提 bodhi at hyper.cx
2008年 5月 22日 (木) 02:11:40 JST


菩提です。

ikeda kayokoなる人物の【件名:[AML 19495] 日本はいつから中国人留学
生の乱暴狼藉を容認するようになったのか?】における「支那人」という
言葉遣いを、石垣敏夫(motoei)さんは批判し、AMLにおいてこのような
「差別語」を許容すべきではないと、ML管理者に対処を要求しました。

正確にいえば、石垣さんは「支那人」という言葉遣いを「言論の自由を逸
脱している人権侵害」、「外国人を蔑視した言葉の使用」と考え、こんな
言葉は「許されない」と主張しました。

これに対して正木俊行さんは、そのような要求を管理者にするのは「お門
違い」であり、「そのような状態を改善すべきなのは、参加している我々
自身だと思います」とたしなめました。

また、tomさんは
> 差別的表現というのは、マナーの問題であって、ルールにすべきではあり
> ません。
と、これまた石垣さんをたしなめました。

正木さんやtomさんの冷静な判断はまことにもっともであり、歓迎すべき
ことです。


ikeda kayokoなる人物の[AML 19495] の内容は、取るに足りない感情論で
しかないので、その内容の是非を論じるつもりはありません。ここでは、
批判されている「支那人」という言葉遣いに限って取り上げます。


私がまず問題にしたいのは、石垣さんのような「言葉狩り」ともいうべき
左翼・反体制陣営によく見られる「宿痾」についてです。

現在、新聞紙上から「部落」という言葉が消えてしまいました。しかし、
「部落」とは本当に「差別語」なのでしょうか?

現在でもいくつかの地方の村では、ごく普通に「うちの部落」という言葉
が使われています。村の運動会では「部落対抗リレー」というプログラム
もあります。

ところが、これが地方紙に出る時は「集落対抗リレー」に変わってしまい
ます。部落の当事者たちが「うちの部落が優勝したのは10年ぶりだよ」と
話しても、新聞紙上では「集落」と書き換えられます。当事者は「集落」
などという実感も馴染みもない言葉を使っていないにもかかわらず。

なぜでしょうか?

新聞社が「部落」を「差別語」だと誤認しているからです。

これは、かつて部落解放同盟(以下、解同と略す)が「特殊部落」という差
別語の使用を糾弾したため、マスコミが「部落」という無色透明な一般語
まで自己規制してしまったせいです。解同は、「部落」という言葉を一切
使うな、とまでは言っていません。「部落」は村落内の小さな単位をさす
昔からの言葉なのですから、今も生きて使われています。「部落」自体に
差別的意味はありません。

ところが、新聞社やテレビ局などが、すべての「部落」使用をタブーとし、
腫れ物に触るような扱いをした結果、「部落」が消えて(消されて)しまい、
あたかも「部落」そのものが差別語であるかのように錯覚する人々が輩出
してきたのです。

その言葉を使用禁止にすることで、「人権」は侵害されず守られる、また
それは「人道上」正しいことだ、という《誤った認識》が広がってしまい
ました。それを他人に強要する勘違いした「正義漢」まで現れる始末です。

しかし、それは明らかに間違いです。

「穢多」「四つ」「特殊部落」は確かに差別語ですが、「部落」そのもの
は差別語ではなく、まして人権侵害などを意味しません。

それと同じく、「チャンコロ」は差別語ですが、「支那人」は差別語では
ありません。むろん人権侵害でもありません。

私は、こうした異常なほど神経質な言葉狩りは、日本左翼運動の宿痾であ
り、左翼運動の退廃であると考えています。

こうした言葉狩りが、国民の間に、左翼に対する嫌悪感と猜疑心を生んで
いることに、なぜ気がつかないのでしょうか。

こんな言葉狩りをする人がもし権力を握れば、かつてのソ連や現在の中華
人民共和国(以下、中共と略す)と同じく、差別や国家反逆罪を理由に言葉
狩りと思想表現の自由を弾圧することは目に見えているではありませんか。
左翼運動家が第1に反省すべきは、この点です。

言葉狩りの感性が、権力と結びつけば、容易に思想弾圧に転化することは
歴史が示しています。現在の中共ではインターネットでさえコントロール
対象となっており、不穏な発言は、削除さらには逮捕につながります。

国民の嫌悪感と猜疑心が拭い去れない所以です。

かつて左翼運動が盛んな時代には「言葉狩り」や「日の丸・君が代」反対
運動などは、闘争テーマにも上がりませんでした。闘うべきもっと大きな
課題があり、それを支持する国民大衆の運動エネルギーを吸収できたから
です。運動がジリ貧になってきて初めて、それら重箱の隅をつつくような
貧弱な闘争テーマに、左翼組織の「保身」をかけて取り組むようになった
に過ぎません。いかにも官僚組織と似ています。

これでは国民的な共感が得られないのも当然でしょう。

私は先日、革共同中核派の最高幹部のひとりと会ったとき、この点を批判
しました。私は中核派ではありませんでしたが、彼は昔なじみの運動仲間
でした。かつて中核派は反日共系左翼の中では最大規模を誇る組織でした
が、闘争テーマの矮小化は組織力と運動エネルギーの衰退を象徴して余り
あるものです。ふだん面と向かってこんな批判を受けたことのない彼は、
困惑しながら、いつもと違って切れの悪い理屈で弁解しましたが、私には
説得力のない言葉でした。


言葉狩りというものが誤りであることは、ソ連や中共という「反面教師」
を見ればよく分かります。立場が変われば、それは強権による言論弾圧そ
のものだからです。

それはスターリン主義の特徴といってもよいでしょうが、もっと広く独裁
主義・全体主義に付きものの感性といってもよいでしょう。

かつて筒井康隆が断筆宣言をしたり、吉本隆明が柄谷行人や浅田彰を批判
したりというのも、「言葉狩りの感性」に対する反発からでした。

私は欧米の自由主義・民主主義国で「言葉狩り」(日本で行われているよう
な意味での言葉狩り)的な批判や運動を、寡聞にして聞いたことがありま
せん。「politically correct」という推奨すべき表現の選択肢はあるもの
の、汚い表現や差別的表現を禁止・弾圧するような批判はないと思います。
(唯一ドイツのナチズム関連の表現禁止規定を除きます。この点でドイツは
強権によって表現の自由を弾圧しているわけですから、批判されなければ
なりません)一般に、特定集団に対する差別語は「使うな」と言われるので
はなく、使用者が軽蔑されるだけです。

「使うな」と言えば言論弾圧につながることは論理の必然だからでしょう。
それは魔女狩りや宗教裁判(言葉狩り裁判)、イデオロギー的言論弾圧とい
う暗黒の歴史を持つ西洋の知識人の痛切な反省に基づく思想態度だと思い
ます。少なくとも自由主義者・民主主義者なら、そう認識するのが当然だ
と考えられます。

日本の一部左翼運動家はこの点で認識不足です。自らの運動のお粗末さを
反省しなければ未来はありません。

以上が、私が強調したい第1の問題点です。

次に第2点。「支那」や「支那人」が差別語ではないことについて。これ
は「言論の自由を逸脱した人権侵害」でも「外国人を蔑視した言葉」でも
ありません。この点でも、日本の左翼運動家は勉強不足です。

(第2点については別投稿とします)

-- 
菩提






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