■ご近所ブロガーの m-louisさんから、特別展のお知らせをいただきました。m-louisさんのお祖父様、日本画家・丸井金猊(まるい・きんげい、1909〜79)の作品の特別展に関するものです。愛知県の一宮市博物館で、4月26日(土)〜6月1日(日)まで開催されています。
■トップのチラシは、その特別展のものです。なぜ、愛知県の一自治体である一宮市での特別展なのか。それは、丸井金猊が、現在の愛知県一宮市北方町のお生まれだからです。郷土が生んだ独特の美意識をもった日本画家を紹介しようというのが今回の企画の狙いのようです。
■この日本画家・丸井金猊については、お孫さんであるm-louisさんが
専用のサイト「日本画家 丸井金猊 Kingei MARUI - Japanese Style Painter -」を構築されており、そのなかに、丸井金猊の
プロフィールも紹介されています。
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1909年愛知県に生まれる。本名 丸井金蔵。
1933年東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科卒業。1935年同校研究科終了。私立川村女学院(現川村学園)美術科、埼玉県立浦和第一高等女学校(現浦和第一女子高等学校)教諭を経て、1947年東京美術学校工藝科講師。1948年より以後20年以上に渡って神奈川県立神奈川工業高校工芸図案科(のち産業デザイン科)教諭を務める。
和洋エジプト入り乱れた独特の画風で、学生時代より旺盛な創作活動を見せるが、30歳に差し掛かる頃、時代は戦争へと暗転。以後ほとんど自作品の創作に向かうことなく、晩年を迎える。神奈川工業高校退職後、「死ぬ前に一度個展を」と再び絵筆を握り始めるが、1979年心筋梗塞のため武蔵野市日赤病院にて急逝(享年69歳)。
1930年国際美術協会主催第一回美術展覧会入賞主席。主な仕事として1935年愛国生命保険(のち日本生命保険)壁画製作、1937年には阪急電鉄の創業者である小林一三氏の委嘱により東宝劇場階段ホール壁画製作(火災により焼失)などを行っている。
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■さて、上のプロフィールにもある「和洋エジプト入り乱れた独特の画風」については、サイト内にきちんと整理された
「Artworks - 作品 - 」をご覧いただければと思いますが、このなかの作品のうち「壁畫に集ふ」という1938(昭和13)年、28歳のときの作品については、僕にもちょっとした思い出があります。この作品を、m-louisさんの東京のご実家で拝見したことがあるからです。アートに関して何の知識もセンスもない私なのですが、このときのことは、とっても印象に残っています。なんといいますか、描かれている女性たちの上品で優雅な美しさの奥から、なめまかしい妖しいオーラが微妙に発しられているような気がしたからです。そのときのことは、このブログでも「
根津と谷中を訪れる(2)-『Kai-Wai散策』巡礼-」(2006/6/17)というエントリーで少しだけですか触れています。写真も撮らせていただきましたが、私の写真の腕前では作品に対して失礼かと思い、あえて掲載しませんでした。ただし、m-louisさん個人のブログで、そのときの雰囲気を知ることができます。たとえば、「
束の間の屏風対面」(2004/9/24)なんかがそうです。
■さきほど紹介した
専用のサイト「日本画家 丸井金猊 Kingei MARUI - Japanese Style Painter -」の「
Articles」には、丸井金猊自身、そして関係者による文章や手紙が掲載されている。そのなかのひとつ、「
妻への手紙〜「母さん」よ Dear Sadae (wife)」には圧倒されました。丸井金猊の妻に対する深い愛情が独特なスタイルで表現されているからです。今、愛情という言葉を使いました。しかし、もっと別の深い夫婦の関係を表現できる言葉があるのかもしれまん。なんといいますか、丸井金猊にとって、妻さだゑの存在がどれだけ大きなものであったのか、ということがよく理解できると思います。そして、このような妻に対する手紙と、「壁畫に集ふ」の中で描かれる女性たちから伝わってくる雰囲気とは(あるいは丸井金猊の女性観・・・)、どこかで通じあっているように気がするのです。そのあたりのこと、ぜひ、こんどm-louisさんにお会いしたときに伺ってみたいものです。
【追記】■ながらく、個人的な事情により時間がとれないため、このエントリーを長らく完成させることができませんでした。m-louisさんや関係者の皆様にはご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。
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