2008-05-19
■ブレイク・スルーって、いったいなんなの? ー魂のおたけびー
ブレイク・スルーっていったいなんなの、
ほんまに難儀ななぁ〜〜とこの頃つくづく思う。
ここ1〜2年の間に、近年まれにない人間関係による精神的ストレスがふりかかってきた。
それはAという場所でも、Bという場所でも同じく、「やっかいな他者」の登場であった。
知人は言う。
「たぶん、それが今のあなたの課題だから、逃げちゃダメなんだよ」
そうね、そのとおりね。
今では、おかげさまでAという場所、Bという場所のみならず、Cという場所にもDという場所にも、「困難な他者」が登場。(もちろん、きつさにはグラデーションがあり、難易度でいうとB>A>C>Dの順で、CとDはほとんどとるに足らないスルーできるレヴェルである。)
これはどういうことかいの。
やっぱり「今の私の課題」ということかいのぅ。
肉体的にも精神的にも記憶力的にも「忍耐」と「精進」が課せられている。
っていうか、なんで今さらこのトシになってこんな「屈辱」的な試練なん?、とも思う。
「わーしがなーにをしたのでしょう〜〜ぉ♪」とバカボンのパパ気分でもありんす。
しかし神様は決して意地悪なだけでもない。
Tさん、T2さん、T3さんと、(なぜかT行の方ばかりだ 笑)私に心強い味方も送り込んでくださる。
なるほどね〜〜うまくできているわな〜〜と宇宙システムに感心し感謝する。
おかげで私は尻尾を巻いて逃げる訳にはゆかない状況だし、私もここまでやってきてこの期に及んで逃げるという選択肢は全くない。
もはや私が一番癒される時って仕事している時だけ!?とギュッと思ったり。
この流れの中でブレイク・スルーを迎える日がホントに来るのだろうか。
数年前に失明された50代のTさんも、60代のT2さんも私を応援してくださる。
家族も黙って見守ってくれている。
えこま「私があんなに業田範子(仮称)にきつく当たられるのは、ひとえに私を育てようとして、あえて厳しくしてくれてるのかな。そう思って感謝すべきなのかな。」
T2さん「確かに業田さんの言い方ややり方、態度はきつい人だけど、そう思って感謝することは自分自身が伸びるから大事だと思うよ。」
Tさんは「それは違う。あのね、”ありのまま”、”事実を事実の侭に”、”現実を現実のままに”まず受け止めることが大事よ。脚色をしちゃだめ。そう思ったほうがラクになれるかもしれないけど、結局は事実やないねん。それやっていると「現実」が来る度に打ちのめされるよ。業田さんが自分を嫌っていることや、彼女自身の問題、妬みやそねみがあるかもしれないこと、そういうことそのままありのまま受け止めて、事実をねじ曲げずに、美化せずに、何を言われてもされても、振り回されない、彼女よりも一段も二段も上の精神状態にゆくこと、対等にやりあおう言い返そうとしないこと(言い返したら同じレベルになるだけ)、でんともっと不動で大きくかまえること、彼女にびびらないことが大事。」と強く激を飛ばされる。
えこま「でもね、Tさん、気にしないで不動でいろって言われても、それは理性で考えたら理想的でそうなのだけど、現実として、ホントにきついこと言われたら凹むし、それが毎回出会う度に続いて行くと段々自分も卑屈になってゆくし、第一私はそういうふうに扱われることに慣れたくない。感覚を麻痺させたくない。嫌なものいや。痛みは痛みだよ。忘れようとしても相手から与えられた痛みや印象は変わらないよ。」
Tさん「えこまさん、私はどうして、こんな辛いことをえこまさんにあえて受け入れて乗り越えろって言えるかっていうと、私自身が失明した時に『なんでこの世で私だけがこんな目にあうのか』ってもの凄く辛い時期を乗り越えて来たからだよ。だから言えるんだと思う。知ってる?人がなりたくない障害の類いの第一位は『失明』なんだって。嗅覚や聴覚や片足や片腕がなくなるよりも辛く自立が一番困難で、生活が不自由で生きる喜びの多くを失うは、視力を失うことなんだよ。」
言われて絶句する。
障害にランクをつける....そんなこと考えたこともなかった。
誰が誰よりも大変なのか、なんて順位をつけることは不可能だし、意味がないと思っているけど
確かに失明とはそれほどに喪失感があると思う.....
そしてTさんは徐々に視力を失うなかでお姑さんの介護を自宅で行い看取っている。
家事、つまり料理も洗濯も掃除も視力を失う前と同様に行い、一人で電車に乗ってでかけることもしている。
私は遠慮して付けなかったのに、彼女は「絵文字付きメール」も私にくれる。
彼女は「音声変換機能」でPCからでも携帯からでもメールをくれる。
彼女からのメールは誤字脱字が一切と言っていいほと、ほとんどない(私の方が変換ミスや脱字をしているくらいだ)。
もちろん一人の遠出はいつも「命がけ」だという。
一人で京都にも行くし、地下鉄にもバスにも乗る。
信号のない交差点も渡る。
彼女はずっと運命に翻弄されず果敢に挑戦して来たし今も挑戦し続けている。
彼女はその「命がけ」をやめない。
「できないことをどんどん増やすのが嫌だから」と毅然としている。
ご主人や大人になったお子さん達にも黙って見守られている。
視力を完全に失ってから50歳手前からバレエを始めている。
バレエの発表会にも参加し、視力を失う前以上に果敢に人生と運命に挑戦している
一見ふつうの(スマートな)おばさんだが、どう考えても「そんじょそこらの人」ではない。
彼女に「こんなことは、あなたに乗り越えられぬはずがない」と言われたら私はぐうの音もでない。
あぁ....
私にとってのブレイク・スルーってなんだろう。
私自身の小さな努力?
けれどそれさえも人のおかげをいただいて成り立っていることを感じずにいられない。
私はなぜか彼女に限ってのびやかに弱音をはいている。
今日も落ち込んだ。
今日も凹んだ。
今日も無視された。
今日もいぢめられた。
きっと節目を越えたら止めると思う。
とまるで子どものように。姉を慕う妹のように弱い自分を曝け出している。
弱音を吐ける相手がいることはいい。
彼女は必ず「わかるわかる、あれはホント傍で聞いていて非道いと思った。あなたがそう思う気持ちほんとによくわかる。」といったん受け止めてくれる。
そしてまた「でも彼女にふりまわされちゃだめ。全部、右から左にザザーーーッと聞き流しなさい。自分は自分って、しっかり軸を失わなればいい。」と強くアドバイスされる。「もっとでで〜〜ん!と大きくどっしり構えていればいいのよ!」
あぁ人生で一番ありがたいのは良き友かな。
私は技術を少しでも身につけたかった。
新しい分野の技術からいろんな要素を学んだ。
けれど技術の習得以上に有り難いのは尊いご縁をいただいていること。
そのことに感謝しよう。
いろんなことを諦めて、いろんな小さな別の希望を見いだして、
小さく目の前のことを可愛く努力することの重大さ重要さを
自分に必要なことを噛み締めている。
自分を超えていくこと以外、この解決がないと腹の底からわかったとき
業田範子にあんなこと言われたことやあんな仕打ち、あんな対応されたことなど
思い出しても平気になってきた。
不思議とほんとに「”それ”をするのは、業田自身の問題であり、私の問題ではない」とストンと落ちた。
「どうでもいいですよ。」と思えるようになってきた。
業田範子を流す躱すことが私が私を超える道に繋がっていると感じている。
業田範子*1は予定された障害物にすぎないのだと。