2008年5月21日 (水曜日)

カーナビと人生

 
遅ればせながら、愛車ビートル君にカーナビをつけました。
 
車上荒らしもコワいし、今さら上級モデルを付けるのももったいないから、使わない時には取り外しがカンタンな「ポータブルタイプ」にしました。
 
見知らぬ場所に行かなきゃならない際に、場所を教えてくれるだけで充分なのです。
 
 
*現在地が分かること。
*目的地への進むべき方向が分かること。
 
うん、
人生にも通ずるテーマだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月20日 (火曜日)

言い訳よりも。

例えば、

ある「会」の役員の任期切れが近づいて、次期の「新役員」の候補を探している状況だとする。

でも、たいていの人は「新役員」になんか選ばれたくない。「役員」になんかなってしまったらめんどくさいし、目の前の事に忙しい毎日だし、誰だって断りたい。自分がやらなくなって、他に相応しい人がいるはずだ!

  

そして、断る為の色んな「言い訳」を考える。

 ※例えば、僕が何かの「役員」に選ばれそうな場合なら、以下のように言うだろう。

(1)すみません、去年、「住職」になったばかりで、「外」の事をやる前に、今は「ウチ」の事をいち早く軌道に乗せるべく頑張らなければなりません・・・。余裕がありません。

(2)すみません、父である「前・住職」が年老いて、実際は、私が1人でお寺の法要や葬儀、月参りに飛び回っている状態です。余裕がありません。

(3)すみません、私の不徳の致すところで未だ「独身」でして、ほんと、何でも自分でやらなきゃならない状態です。余裕がありません。

(4)すみません、ここ数ヶ月、体調がよくない日が多くあります。余裕がありません。

以上の(1)〜(4)は決して嘘ではない。(実は、まだココには書けない「余裕がありません」もあるのだが・・・。)

でも、そんな私の以上のような「言い訳」なんか一切通らず、

「余裕がない」のは「みんな同じ」なのだよと、

結局、僕は、ある会の「役員」に選ばれた。

「みんな同じ」という意見に、正直、僕は賛同できないのだけれど、

ま・・・・。選ばれた以上は、自分のできる限り、頑張るつもりだ。

 

で、

今回の話は、僕のことではない。

ある「会」の会長をしている私の近しい知り合いが、次期の会長候補が見つからず、苦労しているのだが、

色んな人に打診しても、誰も彼もが「言い訳」ばっかりで、なかなか承諾してくれないらしい。

どの「言い訳」は嘘ではないだろう。そして、みんな「余裕がない」くらい大変なのだろう。

でもな、

俺に言われた言葉をそのまま引用させてもらうけど、

「余裕がない」のは「みんな同じ」なのだよ。

 

だから、俺は、その人に言っている。

他の誰かがやってくれるだろう・・・

なんて、どいつもこいつも辞退して「次期会長候補」が見つからないような「会」ならば、

そんな「会」、今期で、あなたの代で解散しちゃえばいいのだ!

それでスッキリするんじゃないの?!

と。

やりたくない一心で「言い訳」なんて、誰だってなんとでも言える。

要は

やるか、やらないか、

その「会」が必要なのか、必要ではないのか、

ということ。

なんのために「恩徳讃」を歌っているのだ?

  

※この投稿に関しては、めんどくさいので、コメントは受け付けません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ラブソングが聞こえる寺

明日は、法話ライブツアーの「追加公演・第一弾」(笑)として、ウチの寺で歌う。
  
17日(土)の投稿ネタにも通ずるんだけど、(ブログと同様に)「ライブ」も身内とか、近しい人とか、例えば檀家さんの前では、やりにくいのです(^^;)
  
なので、ヨソのお寺とか学校とかに呼ばれ「法話ライブ」に張り切って行くくせに、今まであまりウチの寺でやったことがない。
  
 
明日(20日)は、ウチの寺の「婦人会」主催の《お花見(聞法と懇親のつどい)がある。花見の宴会の前に、法要と法話がある。余興で毎年「一曲」くらい披露してきたが、住職になって初のお花見だし、ある程度采配が許されるから、法話部分を思い切って「法話ライブ」にすることにした。
  
実際に私のライブ(歌)を初めて聴く檀家さんもいるから、どんな感想をくださるか楽しみである。
  
  
それにしても、ヨソに出掛けていく場合と違い、ウチでやるのはセッティングが楽だ。
さっき機材の設置をして、「音出し」しながら、誰もいない本堂で大音響で歌いすぎるくらい歌っていた(笑)
  
  
今夜は、本堂から「お経」じゃなく「ラブソング」が聞こえる寺だった……。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年5月18日 (日曜日)

Bozu cruising Love~~♪

   また先月に引き続き「Perfume」ネタで失礼しますcoldsweats01

  

 え~~と、私、ファンではありませんがthink「Perfume」のCD音源を何故か手に入れましたので、愛車ビートル君のCDチェンジャー6枚のうちの1枚にセレクトし、運転中に聴いております。 ※通常、車の運転中は、自分の所属バンドの「メールハート」のCDとか、自分のオリジナル曲の音源を聴いている僕ちゃんであります。。。(でも、あまり他人にいえない・・・・)

 ええ、私、ファンではありませんがconfident最近では、「Perfume」ばかり聴いております。結構な大音量で聴くと、気分爽快!

 はい、私、ファンではありませんがcatface先月4月19日(土)の投稿では、チラッと小耳に挟んだ「Perfume」の♪チョコレイト・ディスコが脳内をリフレインしすぎて、苦しんでいる??という話をさせていただきました。 ※当ブログ4月19日「グルグル曲」参照http://minoyamakono.way-nifty.com/tomo/2008/04/post_b520.html

 

 それでですね、私、ファンではありませんがbearing「Perfume」のアルバムの中の

 ♪ Baby cruising Love 

 を聴いた直後に、車を降り、お檀家さん宅で「お経」をあげる場合、頭の中に残った♪ Baby cruising Loveの「サビ部分」のメロディーや曲調が脳内にテンポ良く響き渡り、お経があげにくいという事実に気がつきました。

  

 ちなみに、これは、親鸞聖人のお書きになった『正信偈』というお勤めの、「草四句目下」という節回し(メロディー)であげているときです。

 四句目が下がり、また元の音程に戻ろうとする瞬間に、頭の中に

  ♪恋の運命はぁ~~~

  とか、

  ♪ Baby cruising Love~~~

  とか、

  ♪会いに行きたいよ~~~~

  というフレーズが聞こえて来るんですわwobbly。テンポもピッタリ合うし・・・。

 

 その自分の頭の中の「現象」に打ち克とうと、僕はなおさら気合いを入れて大きな声を出すのですけれど・・・。

 まさか、自分の中で、「Perfume」と闘うだなんて・・・。

 

  はい、私、ファンではありませんが・・・・。

   Bozu cruising Love~~♪

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月17日 (土曜日)

ブログは公然のヒミツ!?

それにしても、色んな人がこのブログを見てくださっている。

意外な人から

「いつもブログ読んでますよー」

なんていきなり言われたら、自分の最近の「想い」が見透かされてるようで、ウレシ恥ずかしい。

あと、このブログの私なりの「暗黙の決まりごと」として、身内(特に両親)にブログの存在を察知されたら閉鎖しよう……(もしくは、移転)、と思ってる。だってぇ、親に日記を見られるだなんで……書き続けるモチベーションが下がりますからね(>_<)

ところが!
誰かは知らないけど、近隣の「寺院関係者」が、このブログを母にバラしたらしい・・・・(汗)。
「みんな知ってんねんで、アンタのブログ。わたしだけ知らんねん」と母。
「見なくていいから!」とごまかす私。

不特定多数の目に触れるのを前提にしたネットだから仕方ないにしても、ブログは「公然のヒミツ」という面白さを味わってきた。でも、親が見るならば「趣」も変わってしまう。いっそウチの寺のオフィシャルサイトにして、檀家さんにも公表しようかしら?でも、そうすると書けない「ネタ」がさらに増えますし、妙に坊さんブリッコしたワザトラシイ寺院サイトになるだろうな(*_*) つまんね。

ま、もう少し考えますわ!

  

そういえば昨日のこと。

僕のこのブログをいつも読んでくれている人と会った。面識はあったものの、ゆっくり会ったり話をしたのは初めてだった。ちょいと緊張したけど、私、ハシャぎ過ぎてブログに書けない「ヒミツ」を安心して?暴露してしまうくらい楽しかった(^^;)

そういえば最近、「初めまして!」と挨拶して会う人が少なくなった。

けど、お馴染みの人と深まっていく付き合いも素晴らしい。

色んな繋がり・関わりがある人間関係の中で、
お馴染みの人も、初めての人も トキメク人間関係をつないでいきたい。
ブログでもね(*^_^*)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月15日 (木曜日)

「花まつり」の難しさ

 今回の「法話ライブツアー」は、お釈迦様の誕生日をお祝いする「花まつり」という行事(法要)に招かれたものだった。

 しかし、実は、「花まつり」に招かれ法話をする場合、いつも少しヤッカイに感じる部分がある。

 お釈迦様の誕生にまつわる有名なエピソードとして、以下の話がある。

 産み月になったマーヤー夫人が故郷へ里帰りしようと向かう途中のルンビニーという場所で休憩をとった際、無憂樹という木に手を伸ばした母の右脇から赤ちゃんが生まれ落ちた。その赤ちゃんこそがのちのお釈迦様である。すぐに七歩あるいて、天と地を指さしながら「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と叫んだ。その誕生を祝い、天からは甘露の雨が降り注いだ・・・・

 この「天にも地にも我独り尊し」という解釈がヤッカイなのだ。もちろん、あくまでも伝説であり、赤ちゃんが生まれてすぐ歩くなど、嘘である。

 仏教系の学校や、お寺の「お説教」でよくされる解釈は、

 「唯我独尊とは今日では、独善的とか、ひとりよがり、という悪い意味でとらえられているが、本来の意味はそうではなく、私のいのちも、あなたのいのちも、みんな独りの人間存在として尊いのだ、だから、これは見失っているいのちの大切さを教える言葉であり、お釈迦様が生涯かけて教えられた内容のダイジェストであり、お釈迦様の誕生のエピソードからそれを学ぶのが、花まつりという行事なのですよ・・・・」

 僕も、仏教系の高校に通ったので当時そう聞いたし、その後もそんなふうに学んできた。

 また、自分が高校などで「法話ライブ」をする際に、以上のような「骨組み」で話す内容をまとめることができれば、カッチョよくまとまるのである。

 しかし、

 本当の「天上天下唯我独尊」の意味は違うのだ・・・・。

  35歳で真理を覚ったお釈迦様は、その覚りの内容を伝えるのを躊躇していた。やがて、インドの神々の代表として梵天(最高神ブラフマー)が、お釈迦様に「どうかその覚った内容をみんなに伝えてください」とお願いをする(梵天勧請)エピソードを経て、世の人に覚りの内容を伝える事(説法)を決意し旅に出た。その途中で、お釈迦様は、アージヴィカ教徒のウパカに出会う。お釈迦様の清らかな姿を見たウパカは、「あなたは誰を師匠としているの?」と質問する。すると、お釈迦様はこう答える。「自分はすべてを知る者であり、誰をも師匠とせず自力で究極の覚りを獲得した。神々を含めて、この世で自分に匹敵するものはいない。私は、目覚めたる者(覚者)である!!」 

 これこそが、「天上天下唯我独尊」の本来の意味なのである。もちろん赤ちゃんの時の言葉ではない。後代の仏伝作者が、35歳のお釈迦様のこの宣言を、生まれた時から偉大だったという意味をこめて、赤ちゃんのお釈迦さまに語らせた、という訳である。

 うん、やはりこの「唯我独尊」という言葉の意味は、「私(の覚った事)(それまでの)他とは違ってエライのだ!!」という宣言なのだ。そういうと聞こえは悪いけど、「輪廻転生」という永遠に止まらない「差別的構造」の連鎖の続くそれまでのインドの中にあって、お釈迦様が覚ったこと、引いてはお釈迦様が誕生されたということは、そういったそれまでの「輪廻的生存」という「構造」をはじめて打ち破った大きな意味があった、ということになる。

 なので、「すべてのいのちの大切さ、人間の尊厳を謳ったもの」という解釈は(結論として導き出される仏教的な結論かもしれないが)、学問的にこの言葉自体としては「珍解釈」ということになる。

 

  そのあたりを専門的に学んでいない僕は、色んなインド哲学の諸先生方の本で読んだ「受け売り」を語ることしかできない。しかし、曲がりなりにも大学で「インド哲学」を学んだ者としては、いくら聞こえがよくても「珍解釈」と呼ばれるものを自分の「法話ライブ」でお伝えする訳にはいきません。

  

 お釈迦様の「天上天下唯我独尊」という宣言は、独善・ひとりよがりという意味ではなく、

 「差別に歪む世界の中で、私は最初に真実に目覚めた者である。そして、目覚めた者として、あらゆる苦悩に苦しむ人々に安らぎを与えたいのだ!」

 というように、

「一切衆生の救済をお釈迦様自身の存在意義(出世本懐)とした」

 というふうに解釈し、

 さて、それじゃ、この僕自身という「存在意義」ってなんだろう? 

 誰にも変わってもらえない、一度きりの、限りのある命で、色んなつながり関わり合いの中に存在している僕自身の「人生」の意味って何だろう?? 

 単なる自分自身のせまい「枠組み」「物差し」だけで推し量るのではなく、お釈迦様の教えから学んでみる。

 

 「花まつり」とは、

 お釈迦様の誕生のエピソードを入り口に、その生涯を学びながら、そして、覚った内容である「縁起」というルール(法則)から照らし出されたこの私の「心の構造」(悩み・苦しみを生み出す仕組み)を知り、「自己点検」を試み、自分自身をまるごと受け取れる人間を目指すこと・・・・。

 

 そう解釈しての「花まつり・法話ライブツアー」でした。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月13日 (火曜日)

春のライブツアー終了!(笑)

BOSANソングライターKONO
【☆花まつり・法話ライブツアー2008春☆  ルール~釈尊からの学び~】
本日の登別の高校でのステージをもちまして、
ツアー終了でございます。
(残る3カ所は、別な構成で考えたいと思います)
 
 
僕が人前で「BOSANソングライターKONO」を名乗って法話ライブをするキッカケ(デビュー?)となったのは今から15年前の24歳の時です。僕の京都の大学時代の同級生Nirei君が教員をしている高校の行事に僕を呼んでくれて、しかも通常は「お話」という内容を、自由に「ライブ」という形で歌わせてくれたのです。
それがキッカケとなり、その後、人前で歌う事がライフワークのひとつになりました。
   
今日、法話ライブをさせていただいた場所が、まさに私の原点となったその高校でした。もう5回目の訪問になります。
  
  
今日は、体育館のステージの上ではなく、下に降りた場所にセッティングをして歌わさせていただきました。
だから生徒さんが同じ目線で近い近い… サングラスをしてなかったら絶対歌えません(汗)
 
 
でもみんな聴いてくれてたなぁ。
  
 
終わった後、
校長先生やNirei君が私のステージを
「完成された感じ」
と評してくださいました。
嬉しかったな。
《BOSANソングライターKONO》を見守り、育ててくれた人の言葉だから素直に嬉しかった。
  
  
今日しみじみ思ったんだけど、
24歳の時、Nirei君が僕を呼んでくれてなければ、「法話ライブ」というスタイルで現在歌うこともなかっただろう。
そして、いつも僕の仏教の学びから生まれる「創作活動」を見守り、表現の場(ライブの機会)を与えてくれて、色々な意見を言ってくれるNirei君の存在が、ずっと僕の人生そのものを支えてくれているし、挫けずに現在を歩き続ける僕の「根っこ」になっているのは間違いない。
 
  
  
とりあえず、ツアー終了。
聴いてくださった皆様、
お世話になった皆様、
そして、このブログを通じて応援してくださった皆様、

ありがとうございました!

 

***********************************

「私を見ていて下さる人があり 

私を照らして下さる人があるので 

私はくじけずに今日を歩く」 (榎本栄一)

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2008年5月12日 (月曜日)

テーマ再確認

テーマ再確認
「法話ライブツアー」のハザマ。

先日たくさんの人の前で表現したことを、こんな日は、ひとりしずかに顧みながら、また次の表現の場へ向けて集中をする、そんな日にしたいと思う。

しかし、
葬儀が連続してしまい、明日の法話ライブと重なるスケジュールに……。それで葬儀の日程を1日延ばしてもらうことになった。


昨年5月に住職になってもうすぐ1年。
突然に連続して入る葬儀という事実にいつまでたっても覚悟が定まらない。
分かっていることなのに引き受けられない。
そして、
気がつけば、スケジュール調整のヤリクリにうんざりしながら愚痴が出ている自分がいる。

だから、
今日は、
そんな自分のココロの構造を確認しながら、また、表現する事、伝えたい事は何なのか、自分は何を学び、願い、生きているのか考える。

「いくら仏教を学んでも、いつまでも迷ってばかり…」と述懐するおばあちゃんの姿に、いや、迷ったままの人は自分が迷ってる事にすら気づかないまま、でも、おばあちゃんは迷ってる自分自身が見えるから素晴らしいのだ、と述べている本を読んだばかり。

完璧なスーパーマンになって「表現」するのではない。勘違いしてはいけない。偉いから人前に出るのではない。


仏教を通じ自己点検を試み、自分自身をまるごと受け取れる人間を目指す………これが今の、そしてこれからも続くテーマだ。


明日は、法話ライブの3箇所めになる。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

«法話ライブとお通夜と。