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ページ更新時間:2008年05月21日(水) 02時49分

成田空港、開港30年の新たな転換点

社会3857293
 日本の空の玄関口、成田空港は、20日で開港から30年経ちました。今も空港に反対する住民が用地内に残る一方、滑走路を伸ばす工事が続けられています。今後、地域は空港とどう向き合っていくのでしょうか。
 「新たなスタート」と題された成田空港開港30周年の記念式典。その片隅に、かつて空港に反対していた龍崎春雄さん(57)の姿がありました。

 空港脇の芝山町岸田地区、ここで成田空港会社による有機農業の研修事業が行われています。龍崎さんはここで講師を務めています。研修生たちは有機農業で生計を立てようと、この事業に応募してきました。もともと、この周辺は有機農業の先駆け的地域だったといいます。化学肥料や農薬を一切使わないため、安全性が高く味がいいといいますが、その分手間がかかります。

 飛行機がこの地域の真上を飛ぶようになったのは、2002年4月のことです。2本目の暫定滑走路がオープンし、騒音地区となりました。今は、成田空港会社のものとなっているこの畑は、もともと龍崎さんのものでした。空港会社は、有機農業で地域を振興したいと龍崎さんに事業への協力を要請しました。

 1966年7月、政府による成田への空港建設案の一方的決定に、地域住民たちは結束して反対運動を開始しました。土地の強制収用を求める国に対し、学生運動を巻き込みながら対立はエスカレートしていきました。厳戒態勢の中、1978年5月20日、開港。その後も対立が続きました。90年代に入って話し合いが進み、国の謝罪と共に反対運動はやがて下火になっていきました。

 「成田空港問題は社会的に解決された」――そう言われる一方で、今も反対運動を続ける住民や支援者たちがいます。空港の用地内には、今も2軒の農家が住んでいます。空港会社は3.4ヘクタールの用地を未だに取得できていません。用地内の住民の1人は「我々の闘いはまだ終わっていない」と語っています。かつて反対運動に身を投じた住民の多くは、空港と共に生きる道を選択していました。

 今年3月、「成田国際空港都市づくり推進会議」が開催され、空港周辺の9つの市と町が集まり、空港との関係についての基本理念を取りまとめました。「成田空港を財産として活用していく」、そこには4本目の滑走路の建設が進む羽田空港に対する危機感がにじんでいました。

 2年後、羽田空港は再拡張し、昼間の発着容量が年間40万7000回に増大します。国は、うち3万回ほどを国際線のアジア路線に割り当て、さらに3万回、深夜・早朝で欧米路線などを就航させる方針です。

 成田空港の暫定滑走路を2500メートルに伸ばし、発着容量が年間20万回から22万回へと増えます。しかし、今後これ以上は地域の反対で発着容量が増やせないのではないかという「成田限界論」もささやかれます。

 今年3月、成田空港会社は地元自治体に空港の能力についての試算を示しました。誘導路の整備などにより、年間発着量を現在の1.5倍、年間30万回まで可能とするというものです。

 騒音問題の解決が先だと訴える芝山町の相川町長。移転を余儀なくされた者がいる一方で、補償が出ないために騒音に耐えて暮らさざるを得ない住民もいるといいます。

 地域の発展のためには、空港の発展が必要、しかし、空港が発展すれば地域コミュニティは廃れゆくのではないか、開港から30年が経った今も矛盾と悩ましさの戦いがあります。(20日21:26)

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