裁判という場は、言語のレトリックを駆使して双方が戦う場である。そこでは、尋問のスキルや高度な弁護戦術が要求される。そこでは、自分にとっては有利な単語を、相手にとっては不利な単語を使用することが有効となる。抽象名詞が何度も繰り返されると、人間はそれが外部に在るように錯覚してしまうからである。このような価値判断先取りの単語は、二次的評価語と言われる。
例えば、「監視カメラ」と「防犯カメラ」とは、全く同じものを指している。どちらの語を使用するかは、本人のイデオロギーによって決めることである。市民生活のすみずみに公権力の監視の目が光り、全国民の行動が監視されて統制される社会を許してはならないという文脈ならば、それは「監視カメラ」である。これに対して、犯罪の心理的効果として犯行を未然に防ぎ、悲惨な被害者の発生を許さず、住民が安心して暮らせる地域社会を作るという文脈ならば、それは「防犯カメラ」である。実際のカメラはどちらなのかを議論することには意味がない。
このような二次的評価語が問いに組み込まれると、答えるほうは窮地に追い込まれる。「国家権力の横暴によって、無辜の可能性がある一般市民の人権が奪われることを許していいと思うのですか」と問われれば、「はい」とは答えにくい。人権侵害を肯定する思想の持ち主だというレッテルを貼られるからである。しかし、問い自体を全く違うものに変えることはできる。すなわち、「凶悪犯人の可能性が高い人間を釈放して、被害者遺族の悲しみをさらに深くすることが許されると思いますか」と問えば、事態は全く逆転する。
犯罪被害者は、被告人の口から真実の言葉が語られることを期待して、裁判を傍聴する。しかし、裁判という場は、そのような場としては設定されていない。言語のレトリックを尽くして、検察官と弁護士が戦う場である。その最も卑しい側面が、検察側証人に対する弁護士の反対尋問である。弁護士は証人の言葉の飛躍を突いて、窮地に追い込もうとする。そこでは、真理ではなく勝負を目的としている。どんな弁護戦術であっても、背後には被告人の人権保護という名目があり、日本国憲法の下では正当化される。レトリックとは、あくまでそのようなものである。犯罪被害者は法廷においては期待を裏切られることが多いが、言葉の大安売りをしている刑事裁判の構造からは必然的である。 |