仮想算術の世界

批評家・福嶋亮大のブログ

今月の原稿

2008-05-21 | 原稿
■「漫画の新しい体質」『ユリイカ』6月号

漫画批評特集への寄稿です。

関係ないですが、続・狂−1グランプリ(@ニコ動)はどうなるんでしょう(笑)いや、もともとMUGENはけっこうラディカルだと思ってましたが、このうp主はすごい。もうなんでもあり。MAD的想像力の極致。
コメント (0) | トラックバック (0) | goo

漫画の思想、ウェブのパラダイム

2008-05-20 | Weblog
ここ一月くらい、いろいろと理由があって、漫画のことをあれこれ考えている。むろん僕は漫画の専門家ではないし、ブログでもほとんど言及したことはないが、当然無視しているわけでもない。ただ、宮崎駿や押井守が美的なシネアストとなっていく一方、洗練された技法を持つ京アニのようなスタジオが台頭したアニメに比べて、漫画はまず描き手の顔ぶれが90年代とさほど変わっていないように思える。むろん、この意見が門外漢の乱暴なまとめだということも承知しているが、ともあれいま重厚長大なストーリー漫画を描ける、いわば「クリエイティヴ・クラス」の漫画家が、90年代からずっと実績を積んでいる作家によって占められていることも間違いではないだろう。こと作家レベルで言えば、漫画のゼロ年代は総じて安定した10年だったのではないか。そういうこともあって、僕としては、個別の作家よりも、どちらかと言えばもう少し抽象的な問題を考えるべきではないかと思っている。

たとえば、ついこのあいだ京都造形芸術大学で大塚英志氏の講演会があったので聴講しに行ったのだが、そこで言われていたことは興味深かった。大塚氏はそこで、戦前の田河水泡らの漫画がディズニーとロシアアヴァンギャルド、および国策で推進されていた科学的リアリズムの交差点で成立したこと、そして戦後の手塚漫画は、それら戦前の前衛を積極的に受け止めることでできあがったことを力説していた。むろん、手塚治虫というひとが当時のモダニズム文化を全面的に吸収していたことは、彼自身のエッセイを読めばすぐに理解できるが、ともかく漫画というのは、戦前の段階でも低級な娯楽というものではなく、むしろ前衛的で進歩的なアートであり、だからこそ国家の問題とも繋がっていったのだという大塚氏の議論にはいろいろ触発されるものがあった。つまり、漫画にはモダニズムの掟、一定の水準をクリアした作品を効率的かつ効果的に生み出していくという運動が、すでに戦前から組み込まれていたのだ。

こうした見方が、漫画史的にどれほど支持されているのか僕はよく知らない。しかし、これが興味深い話であるのは間違いないだろう。僕は大塚氏の話を聞きながら、とりわけ文学のことを考えていた。大正期以降の日本近代文学は、漫画とは逆に、そうしたモダニズム的な運動から背を向けて、日本独特の私小説へと向かったことが知られている。これは日本の文学に独特の脆弱さと可変性を生んできたと言ってよい。

むろんなかには、大江健三郎のように徹底して欧米の小説のやり方を組み込んだ作家、あるいは三島由紀夫のようにそうしたモダンの「借用」の虚構性=記号性を全面的にさらけ出した作家、はたまた安部公房のように「砂」や「壁」「箱」といった寓意的な「モノ」を象徴秩序=パースペクティヴへと擬態化させた作家、などがいる。さらに中上健次は、私小説の秩序から民俗学を再出発させ、民俗学の地点から私小説を再出発させるというアクロバットを通じて(『化粧』を見よ)、村上春樹は自身の小説の細部に無数の可能的パルプフィクション(二次創作)を走らせることによって、それぞれ自らの小説を支える土台を獲得していった。これらは総じて、近代的なものの代補に関わる、さまざまな応答として捉えられる。むろんそこには、SFやミステリのように徹底してシステマティックに文学を構築しようとした運動も付け加えられるだろう。いずれにせよ、これらの試みは、私小説中心的な日本の文壇が持つ独特の構造――いやむしろ「無―構造」――から派生したと考えると理解しやすい(言うまでもなく、その試みのそれぞれの戦略は細かく分析されなければならない。特に大江・三島・安部のラインと、中上・村上のラインとでは大きな切断があるように思えるが、それについてはいまは述べない)。

それに対して、漫画というのは、大正期からすでにモダニズム的な抽象性に深く接近していた。大塚氏によれば、たとえば一度ディズニーを支える書式をマスターしてしまえば、そのひとの描く犬はどれも「のらくろ」のようになっただろう、という。つまり、田河水泡はディズニーアニメという「モノ」をマスターしたというよりも、ディズニーを生み出している規則や秩序をマスターしたのだ。こうしたメタレベルの解釈系を、いま構造主義の語を借りて「象徴秩序」と呼ぶことができる。手塚はその象徴秩序こそを洗練させたのだと言ってよい。

しかし、その象徴秩序にずっと影のように貼り付いてきた、もうひとつの解釈系がある。つまり、ひとつの完結した作品から逸脱する、間物語的な存在=キャラクターがそれである。伊藤剛氏はそれを「キャラクターの自律化」として捉えたが、伊藤氏の背景となっているさまざまな議論、特に東浩紀氏のデータベース理論が示すように、こうした解釈系はITの台頭と密接に結びついている。キャラクターはある種の分類体系=データベースに書き込まれることによって、その再現性や共有性を高める。その分類の論理は、それまでの田河=手塚以来の漫画が蓄えてきた象徴秩序とは異なるやり方で動いている。漫画というイメージ配分装置は、データベースという別のイメージ配分装置によって侵食される。ここでは、二つの象徴秩序がいわば「重ね書き」されている。

では、それで何が変わるのか。そこで変わるのは、何が見えるもので、何が見えないものなのかを分かつ線引きのやり方である。かつて漫画のモダニズム=リアリズムはその配分を決定するフィールドをつくりだし、ITはさらにそこに別の配分のやり方を示した。それはちょうど、コンピュータの進化によってCGや特殊効果の設計が簡単になり、東氏の言う「過視的」な状況が出現したということと類比されるだろう。いずれにせよ、ここ数年の議論は、おおむね、この新旧二つの象徴秩序の相克をどう捉えるかということをめぐってきたと言える。言い換えれば、象徴秩序の可変性にこそ、議論の戦線が置かれてきたと言える。



だが、ここでさらに強調しておかねばならないのは、現在ウェブがもたらしている新たなパラダイムだろう。というのも、ウェブというのは(特に日本においては)、コンピュータのように新しい象徴秩序を与えるものとしては、もはや捉えられていないからだ。かつての「疑似社会」「オルタナティヴな社会」への期待は、ウェブについてはほぼ潰えてしまった。いま残っているのは、むしろ既成の「重ね書き」された象徴秩序から――ジェラール・ジュネットのプルースト論の用語を借りれば「パランプセスト」のステータスを与えられた象徴秩序から――、いかにして有効なプログラムを選び出すかという力学である。ニコ動のようなサービスは、その力学を代表するものと考えられるだろう。

むろん、ウェブそのものは規則正しい象徴秩序ではない以上、その力学がどう働くかはあくまで「確率的」だと言わざるをえない。ウェブはあくまで、既成の象徴秩序の「分布」を変えるだけなのであり、その意味で旧来の「メディア」(人工的な象徴秩序)とは異なるロジックで動いている。まずイメージ=想像的なものがあり、それを分類し秩序化している象徴的なものがあり、さらにその象徴的なものにラジカルな切断をもたらす現実的なものを対置するというラカン的な構図は、ウェブでは無数の象徴秩序=解釈系、およびその分布を変える現実的なものという大きな二分法に変えられているように思われる。付け加えれば、これは実は、『アンチ・オイディプス』の描いた世界そのものだ。

しかしまた、ここで重要なのは、その新たな問題――つまり象徴秩序に働きかける確率的作用――というのは、むしろウェブのなかだけには収まらないということだ。ウェブはたんに象徴秩序を組み替えるだけにすぎない。その「組み替え」を左右しているのは、たとえばウェブの外側の身体であったり、感情であったり、あるいは伝統であったりするだろう。むろん、身体や情念が一元的に何かを決定しているわけではない。逆に、身体や感情があるがゆえに人間は神になることができない、というのがスピノザの教えだった。人間は身体を持っているせいで、象徴秩序のすべてを把握することができず、あくまでその分布を変えることしかできない。

ともかく、ウェブが出てくることによって、かえって古い問題が新しい配置の下で出てくるのだと言えるだろう。ただし、誤解を避けるために言うと、僕は別に、身体や伝統や情念によって、理性の限界を補うことができると言っているわけではない。その考え方は、煎じ詰めれば、ロマンティックな保守主義=近代主義にすぎない。むしろ肝心なのは、身体や伝統や情念ですら、そのままの姿ではもはや正常に機能しないということだ(ちなみに、僕の思想地図の論文やワセブンの論文は、その問題に少しだけ踏み込んでいる)。人間の身体が、無数の象徴秩序から独立に存在するわけではない。身体はむしろ、それらに徹頭徹尾依存しきっていると言うしかない。ただ、ある象徴秩序が選ばれ、ある象徴秩序が破棄されるその選択には、伝統や身体などのさまざまなリミッターが介在しているということだ。

では、こうした世界像を示す具体例はないだろうか?唐突なようだが、僕がそういうパラダイムをいまいちばん強く感じるのが、アニメ版『To Loveる』の演出である。『To Loveる』のアニメ版には、随所に、ペケというロボットの「目」を借りていることを示唆する演出が見られる。ペケの目は渦巻き状で、したがって物事を部分的に見ることしかできない。だが、その渦巻きを回転させると、先ほどまで見えなかった部位が見えるようになる。しかし、渦巻きである以上、そのすべてを見ることはできず、ただ見えるものの配分が機械的に変わっていくだけだ。『To Loveる』はご存じのかたはご存じの通り、ある種徹底したシミュラークル・アニメであり、あらゆるイメージが既成のものの繋ぎ合わせでできている(ちなみに、そのシミュラークル・アニメぶりは、第一期にはかろうじて残っていたポリティカル・フィクションの外見すらすっかり取り払った第二期『コードギアス』といい勝負である)。にもかかわらず、そのイメージの約束事の集合(=象徴秩序)は、たんにぐるぐる回っているだけの目によって、部分的に点灯し、部分的に消灯するというサイクルを繰り返している。深読みを承知で言えば、これは、現代世界の一種の寓意として読めるだろう。

ともあれ『To Loveる』については、そのうち長めのレビューが黒瀬陽平氏が編集をつとめる『RH』に載る予定なので、そちらを見て欲しい。いずれにせよ、決して目立った動きではないものの、いまの文化には徐々にこうした変種のパラダイムが出始めているのではないか。もちろん、象徴秩序をいかに書き換えていくかというレベルの闘争は、これからも当分は意義を失うことがないだろう。しかし、ここで言っているのは、それとは別種の切り口で社会を語ることもできるというひとつの提案である。こうした動きをロジカルに組み立てていくことは、今後の批評にとって何らかの糧になりえると思われる。
コメント (0) | トラックバック (0) | goo

岡田斗司夫氏の新著について

2008-05-11 | Weblog
岡田斗司夫さんの『オタクはすでに死んでいる』。僕は発売直後に読み、ふつうに納得してそれで終わったのですが、さっきちょっと気になってネットを調べてみたら予想外に否定的――というかむしろ嘲笑的――な反応が多くて驚きました。そんな簡単にバカにしていいんでしょうか。

僕の印象では、ネットの評判は「オタクは死んだというが、それは岡田の思いこみで、いまでもオタクはいるし、これからもオタクは生き続けるだろう」というひとと、「岡田が言うように昔ながらのコアなオタクが死んだとして、だからどうだというのだ」というひとに大きく分かれています。けれども、それはどちらも浅い主張だと思います。

そもそも、なぜ論壇はオタクに惹かれるのか。いろいろな側面はあると思いますが、いちばん単純な理由は戦後の問題です。東浩紀さんがずっと言っているように、オタクというのは戦後日本の価値を凝縮し、かつ大きくねじ曲げた文化階層として受け取ることができる。岡田さん自身「第二次大戦以降の日本という国自体がオタクを生んだ」(8頁)とはっきり書いています。裏返せば、「オタクの死」は、暗黙に「戦後日本の死」を含意している。

むろん、いま現在、自分をオタクだと考えたり、あるいは誰かをオタクだと見なすことはありえます。けれども、岡田さんの説でいけば、そこでは戦後の抱えた問題はすでに脱落している。SFやミステリを必死で原書で読み漁り、周囲に隠れてこっそりコミケに通い、その糧を利用して自分の好む消費文化を自分でつくりだす、それがかつてのオタクというわけですが、その振る舞い自体が戦後の裏返しになっている。戦後民主主義に反逆するというよりは、オタクはむしろ端的に、自分たちが心地よく住める快適な世界をつくってしまう。しかし、そこにはすごいコストがかかっていて、それを維持するには有形無形のさまざまな努力が必要だったんだ、というのが岡田氏の主張だと思います。

むかし柄谷行人氏が『日本精神分析』という本で、日本的精神の本質というのは「造り変える力」(芥川龍之介)にあるのだ、と書いていたことがありますが、それでいけば、かつてオタクというのは、ものすごいコストをかけて「造り変える力」を発動しようとしてきた。オタクカルチャーのもともとの起源はアメリカにあるとしても、それはもう徹底的につくりかえられているし、そうでなければ影響力も持たなかった。オタクがふつうのファンカルチャーと同列に論じにくいのは、まずはこの変形性にあると思います。たとえば、Jポップ歌手のファンは、たんにその歌手本人か歌声か、あるいは歌詞に同一化していればいい。ところが、オタクの好むキャラクターなり声優なりには、変更の履歴がいっぱい蓄積している。だから、その対象にだけ同一化すればいいということには、なかなかならない。しかも、オタクはその変更の履歴も可視化し、共有できるようにしてしまった。それが東さんの言う「データベース」だったと思います。

こういう「日本的精神」の効果は、ゼロ年代の文化にもはっきり及んでいます。特に僕の同世代では顕著だと思う。たとえば、濱野智史さんの言う「ニコニコ現実」しかり、黒瀬陽平さんのアニメ表現論しかり、あるいは僕の言う神話的想像力の話しかり、全部「造り変える力」のヴァリエーションだと言えます。その意味では、たぶん僕らの世代は、かなり素朴に「日本精神」を反映してしまっている。ただ、ここで問題なのは、ひょっとすると、我々はオタク以上にストレートに日本的になっているのではないか、ということです。実際、オタクは「造り変える力」をものすごい勢いで発動して、結果としてどこでどういう操作が加わったのかがよくわからないイメージ群をつくってしまった。確かにそれは「日本的」だけれど、ほとんどメーターが振り切れるような意味で「日本的」だった。だからこそ、その主体性や歴史性を問うことに意味があった。それに比べれば、いまはだいぶおとなしくなっていて、ふつうに「日本的」な力で動かされているのではないか。実際、僕たちはさほどコストをかけなくても、ちょっとした神話的操作を加えれば、コミュニケーションの軋轢や不全を一定解消できるようになった。それは一方では、戦後の負荷から一部解放されたということを意味します。ですが、それが文化的にプラスになっていくとは限らない。

むろん、僕にとっては、まずはそのどうしようもない現実を踏まえなければ、批評も書けない。ですが、今後どういう批評を組織すればいいのかというのは、かなりキツい問題です。オタクは死に、それにかわるような文化的階層も存在しない。とすると、戦後日本の蓄えてきた文化的遺産は、一回完全にリセットされてしまったということではないか。たとえば東さんの議論は、オタクのある種の「貧しさ」を前提にしているわけですが、それは戦後日本の擬似的な豊かさと対になっていた。ところが、オタク死後の「貧しさ」というのは、たんにコミュニケーションの合理化を図ることに特化した「貧しさ」なわけです。これはもう、先行世代から見れば文化でも何でもないと思うし、主体性だってほとんど問題にならない。ニコ動にコメントを書き込んでいる人間のセクシュアリティなんてどうでもいい。『らき☆すた』に戦後アニメの豊穣さを見ようとしても、まるで意味がない。僕だって、たとえば西尾維新論では彼の使う特殊な日本語の話しかしていない。当然のことながら、日本語の操作性なんて、戦後文化とは何の関係もないわけです。

思えば、西尾さんがデビューしたのは2002年です。そうすると、ゼロ年代というのは、一方でオタク文化がより広く展開し、結果として大衆化していった時代であり、他方でポストオタクというか、ポスト戦後というか、そういうほとんど文化には数えられないような文化を徐々に発明していった時代だと言えるのかもしれません。西尾さんは、たぶんその両方に足をかけていて、それが彼を面白い存在にしていたのだと思います。ただ、後者のプランがどれほど成功したかというのは、かなり疑問が残る。戦後文化が「脱格」していくのは仕方がないとしても、西尾さんのように「日本語のハッキング」「物語のハッキング」で切り抜けていくのはごくイレギュラーな存在だった。

では、これからどうするのか。一応僕が漠然と考えているのは、オタクが過剰に人工的であることによって、戦後日本の人工性=虚構性と対峙していたのだとすると、今度は過剰に自然的であることによって、ポスト戦後の無風状態と拮抗するしかないのではないか、ということです。僕がモデルにしたいのはテレビとゲームです。たとえば、テレビが面白いのは、それが「つくられた世界」ということが明らかになっているからです。ある意味では、特撮を駆使したハリウッド映画と近い。テレビとは「こんなことがあるわけがないだろう」というところに、笑いを生む装置です。ニュースもCMも、基本的にはそういう論理で動いている。まさに過剰に人工的な世界。

それに対して、ゲームというのは、世界の事物をいかに「自然」に見せるかに多くがかかっています。それができなければ、プレイヤーはずっと疎外感を抱いたままプレイしなければならない。「こんなことがあるわけがない」ことから、いかにして人工の匂いを取り去るか。それがゲームの論理であり、あるいは理論的には構造主義の発見でもあります(構造主義者はそれを「中性的」と呼んでいました)。実はつい昨日、まさにこの論理で動いている映画を見たんですが(それにはあえて触れませんが)、ともかくそういう表現がニコ動や京アニを動かしていることは明らかで、そこではすべての欲望を人工的に全開にするのではなく、むしろ(妙な言い方ですが)人工的に自然さをつくることが目指されています。

いずれにせよ、僕としては、「オタクはまだ生きている」とも「オタクが死のうがどうでもいい」とも言うつもりはありません。そういう楽観的な感情は抱けない。実際僕の見る感じでも、若い学生にとっては、オタク文化はもはや一種の教養主義のように、むかしの「デカンショ」みたいになっている。『Fate』は教養でやって、ニトロは名前も知らないという感じ。京大生もそのレベルです。これはたんにヌルくなっているだけなので(僕も決してひとのことは言えませんが)、岡田さんの主張は基本的に正しいわけです。ヌルいといえば、たとえば批評にしても、ひとりの作家やひとつの思想体系を徹底して突き詰めるという態度は、かなり薄れている。つまり、見知った対象をとりとめもなくずらずら羅列していくのがセオリーという感じになっている。これこそが「ゼロ年代の想像力」でしょう。

ただ、岡田氏の言い分はおおむね正しいとしても、彼はもうポスト戦後、ポストオタクの評論家として生きていく感じではない。つまり、単純に彼は投了している。けれども、僕たちは当然そういうわけにもいかない。ゼロ年代がオタクの遺産を食いつぶしていく10年だったとして、2010年代の実作や批評はその厳しさに直面することになると思います。『オタクはすでに死んでいる』というのは、少なくとも僕にとっては、そういう事態を改めて考えさせる本でした。
コメント (0) | トラックバック (0) | goo

思想地図、グローバル化、チベット

2008-05-02 | Weblog
原稿に四苦八苦していて、更新が滞ってました。すみません…。

『思想地図』ですが、うちの大学の本屋には人文系新刊、NHKブックス、思想系の棚、それぞれに2〜30冊くらいがどどんと陳列されており、今週の月曜日に指折り数えてみると83冊もありました。あのオレンジが人文の棚を食いつぶしている光景は、なかなか壮観、というか率直に言ってシュールです(笑)。皆さん買って下さい…

で、僕の原稿ですが、ある程度予想していたこととはいえ、ポジティヴな反応は限りなくゼロに近いですね。たぶんテーマが「台湾のラノベ」とかいう時点で、70%くらいの読者は脱落してるんじゃないかと思う。しかも、政治については何も語っていないので、いまの中国のホットな話題とも全然繋がっていない。ついでに、同業者からはくだらない批判メールが来る。まぁ冷静に考えれば、九把刀なんて名前の読み方もわからない謎の台湾人とか(現地では「ジウバーダオ」ですが「きゅうはとう」で問題ありません)、誰も興味ないよな。専門家でさえ、ほとんど誰も読んでないんだし。とすると、よしんば論文が読まれたとしても、良いとも悪いとも反応しようがないのではないか。それはそうでしょう。他の意見と付き合わすこともできないんだから。

俺も、大塚英志論とか初音ミク論とからき☆すた論とかやろうかなぁ。



とはいえ、やさぐれていても無意味なので一応言っておくと、別に僕の論文はただの紹介記事ではありません。ポストモダン化しグローバル化したこの世界では、いったいどういうものが文化になっていくのかというのが、一応基本的な主題と言えると思います。グローバリゼーションと文化というと「ネットを通じたコスモポリタンな連帯は可能か」とか「ラシュディみたいに雑種的な作家が出てきて超OK」とかその手のクズみたいな議論ばかりですが、そんなことはたぶん大きな問題ではない。さらに言えば、それは単純に「アメリカ化」と言い切れる問題でもない。

たとえば、僕の論文は中国語圏(華文世界)にACG(アニメ、コミック、ゲーム)が流入したことを重視しています。これは、別に日本文化が中国で勝利したという話がしたいのではなく、ACGが入ってくることによって、物語をつくるコスト、あるいは物語が読まれるコストが変わったということを言いたいわけです。中国でなぜラノベが流行るのかといえば、それはその文法を若者が存分に共有し、それを利用してコミュニケーションしているからです。あるいは、最近ならば韓流ドラマですね(ちなみに、呉咏梅さんの思想地図論文は日本のドラマの受容をずっと追跡されてますが、ここ数年大陸で影響力があるのはむしろ韓流、あるいは台湾ドラマではないか。実際、国産ドラマでも、韓流に近い演出法は増えてきているのではないか。呉さんの記述だと日本文化が中国若者文化を全面制覇してるみたいですが、僕はちょっと異議があります)。

日本だと小説を書ける人間は、基本的に「クリエイティヴ・クラス」ということになる。中国でも純文学が強いうちは、基本的にはそうでした。ところが、ACGが台頭し、ラノベが流入すると、小説は一挙にフラット化して誰でも参入できる世界になってくる。そのかわり、本当にすべてがフラット化してしまうと、今度は誰ともまともにコミュニケーションすることができなくなる。そのために、台湾のウェブ小説では、物語の外側で「作者」をちゃんと立ち上げて、コミュニケーションの郵便局にしようとする動きが強まった。物語をどんどん放って、自分の存在をアピールしながら、同時にさまざまな情報の結節点にしようというわけです。こういう努力がなければ、作者は群衆のなかに溶けてしまう。この作者=自己というのは、もはや「近代的自我」のようなものではありません。それはむしろ、コミュニケーションを実行し継続するためのエージェントのようなものに近い。

グローバル化が重要なのは、こういう具合に従来の文化的配分ががらっと変わってしまうからです。確かに、そこでは相変わらず作者がいて、物語があって、読者がいるという配置が続いているように見える。その意味では、何も変わっていない。けれども、そこではもはや、作者はいかに露出度を上げるかばかりを気にかけ、物語は読みやすさを追求して書かれ、読者も所変わればすぐに作者になりかわれる、という事態になっている。それはかつてならば非合理的で愚かな状況に見えたかもしれませんが、実際にはそこにはそれなりの合理性が貫かれているわけです。そうすると、作者、物語、読者といった名前は同じでも、もはや中身は全然違うということになる。文化が変わるというのは、こういうことです。

それでいくと、僕は実は伊藤剛さんの思想地図論文にもちょっと異議があります。たとえば、伊藤さんはフランス人やアメリカ人がmangaを書き始めていることに、グローバル化の兆しを読み取っている。しかし、それ自体は別に、作者、物語、読者といった配置をさほど変えないわけです。むしろ伊藤さんの問題意識に近づけて言うならば、「キャラの自律化」のほうが流通を変えているのではないか。実際、いま世界にはフォトショップ・アーティストみたいなひとがいっぱいいて、住んでる場所も不定ながら、ウェブで注文を受けて、無国籍アートという風合いのキャラ絵のデータを、出版社なりゲーム会社なりに陸続と送ってたりするわけです。キャラが自律化して、それを消費するのが一般化し、しかもウェブとフォトショップが出てくると、こういう商売が成り立つ。そして、そこでは作家の意味もまた変わる。日本のイラストはまだ「萌え」の防壁に何となく守られているけれど、世界的に見れば、キャラ文化というのはいちばんオフショアしやすいのではないか。これはもちろん「マンガのグローバル化」というテーマとは若干ズレますが、決して漫画と別物ではない。なぜなら、他ならぬ伊藤さんがずっと言うように、漫画はいまやキャラ文化と切り離せないからです。

いや、フォトショップは90年代の重要な発明だと思いますね。ベンヤミンは写真と映画に衝撃を受けて「複製技術時代の芸術作品」を書いたわけですが、もしいま「神話技術時代の芸術作品」を書くならば、フォトショップとデジカメと、あとはまぁニコ動や初音ミクやアイマスは外せないと思う(笑 いや後半はちょっと微妙だけど)。これもまた文化的配置の変化と言っていいと思います。グローバル化と技術の接点で、どういう文化的選択が起こっているのか。これからの文化論の問題は、そのへんに求められるのではないか。文化がアメリカ化し一元化してるとかいう紋切り型も、まぁ別に完全に誤りではないですが、事態は明らかにその先に進んでいます。



…という感じで考えているわけですが、こういう話は知人にしてもあまり理解されない。まぁ話す相手が悪いと言えばそれまでだけど(笑)、結局最後には、お前は中国の専門家としてチベットについてどう思うんだとか言われるので、それで今日はだいぶトサカに来てる。

そりゃ主語をチベット問題とかにすれば、論壇的言説を吐ける若い奴が出てきたとかいう文脈で注目されるのかもしれない。というか僕自身、身近な友人相手には定食屋なんかでチベットの話はするし、そのときは妙に周りの視線を集めてるのもわかる。そういうときは「ああ、チベット問題って世間の注目浴びてるんだなぁ」ということを実感します(笑)。もちろん僕だって「チベットなんてどうでもいい」と思ってるわけではありません。

たとえば(これはみなさんご承知かもしれないけど)ここ一月くらいの間でも、中国のネットはすごい勢いでナショナリズム化が進んでいるわけですね。主な発端は、4月の聖火ランナー妨害事件ですが、それについてのCNNキャスターやパリ市長の中国批判が重なって、けっこうすごいことになっている。フランス大使館の前で愛国的な演説をやってる中国人留学生の動画が、あちこちの動画サイトでアップされてたり、これまでは政治的な話題には興味のなさそうだった若手作家が、突然愛国心に目覚めて不買運動を訴えてみたり、その他いろんな出来事がネットで起こっています。

そもそも、一時期の反日デモのころよりも、ネットはさらに普及し、ひとびとの発信能力も上がってる。大メディア=ハードで流れる大きな情報がまずあり、それがネットで細かく味付けされて、ソフトに拡散していくという状況は、もう日本のカスケードの構図とたいして変わらない。いやむしろ、規模で言えば、向こうのナショナリズムは日本とは比較にならないほどデカいわけです。一般に、中国の若者(いわゆる「80後」)は政治に疎いと言われてきたのですが、ネットが本格的に出てくれば、そんな思いこみは一瞬で反転する。逆に、いまや政治は、細かい背景知識を抜きにしても簡単に燃え上がれるネタになっている。構造的には、日本とまったく同じです。それはもう、チベット云々ということとは別次元の話になりつつある。このことの分析は必要だと思います。

で、僕自身のチベット問題の見解はここでは特に言うつもりはありませんが、ただ、僕と同年代のブロガーなんかが(しかも批評を書こうとしているようなひとが)人権侵害を盾にして、みんなで中国政府に抗議すべきだとか訴えているのはさすがにどうかと思う。むろん人権は大切です。ただ、チベットの原理的立場を言うならば人権侵害どころか、国家主権を侵害されていることになるので、本当に中国の介入を避けようと思うならば、まずは独立を志すしかない。いまは中国の管轄なのだから、暴動が起これば鎮圧に向かい、そこで手荒な行為が起こるのはある意味では当然です。

けれども、万が一チベットが独立することにでもなれば、これはもうチベットが自活できる見込みはない、中国国内も黙っていないとなって、それはおそらくチベットの幸せには繋がらない。そもそもダライ・ラマというひとは、まさにそれをよく知っていたからこそ、独立と従属のあいだで騙し騙しやってきたひとなのではなかったか。少なくとも、「チベット人いじめられてかわいそう」という類の一過性の共感の環を頼りに、何か状況を動かせると信じるほどうぶなひとではない。そこには複合的な現実があるからです。確かに人権は守られるべきですが、それでチベットがどうなればいいのかということはまともに考えられていない。にもかかわらず、人権を守れというスローガンだけ掲げるのは、あまりにも無責任ではないか。僕はそう感じるので、人権は大切だということは認めつつも、自分なりの「倫理」でチベット問題については発言しないと決めている。いや、もう何か半分しちゃってる気もしますけど、とにかくそういうことです。

ただそれとは別に、僕が政治の問題を敬遠しているのは、中国には他にも重要な考えるべき問題があるからです。たとえば、呉咏梅さんも触れられている「80後」世代というのは、ウェブ化とグローバル化にもっとも適合した世代として年上世代からも認められています。そして、中国ではこの新しい情報と能力を持った世代が社会を引っ張っていくんだというところで、それなりにコンセンサスがとれつつある。日本の世代論は世代間格差のルサンチマンにまみれていますが、中国の世代論は社会と文化の変化に直に結びついている。だからこそ、これからの中国の社会や政治の行く末を考えるときに、若い世代の分析が必要となるわけです。大きな政治の話だけが「政治」ではない。必要な情報は政治の他にもいっぱいあるし、それが脱落しているのはきわめてリスキーではないか。僕が中国の若者文学を論じているのは、そこに今後の糧となる情報があると思っているからです。政治の話をすると、それはとたんに親中か反中かというレベルの話に落とし込まれる。それは長期的に見れば、まともな情報が公共的に伝わらないということを意味します。これはまずいのではないか。……一応筆者としては、これくらいの問題意識の下で『思想地図』の論文を書いています。
コメント (0) | トラックバック (0) | goo

今月の原稿

2008-04-25 | 原稿
■「物語の見る夢――華文世界の文化資本」『思想地図』vol.1

九把刀の台湾ウェブ小説論(『依然、九把刀』)を踏まえながら、日中ライトノベルの比較分析を試みた論文。僕としては、けっこう気に入っています。

とりあえず、いまの東アジアの若者文学を大まかにフォローするならば、西尾維新(日本)、九把刀(台湾)、郭敬明(中国)という三角形を描いておくと、何となくおおよその輪郭をつかめる気がします(残念ながら、僕は韓国の文芸のことをほとんど追跡できていないのですが、いまはその限界はさておきます)。僕の整理では、彼らはそれぞれに神話的システムを育成しているわけですが、各国の風土が違うので、そこで出力される結果も違う。その違いをいかに分析するか、というのが、今回の論文のひとつのテーマでもあります。

あと、『思想地図』はすでに数日前に見本をもらっていたのですが、これは近年稀に見る充実した雑誌だと思います。しかも、この質・量で1500円は安い!(笑)別に執筆者のひとりだから云々ということでなく、多くのひとに手にとってもらいたいと心から願っています。一読者として、大興奮でした。
コメント (0) | トラックバック (0) | goo