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三木清 −暖かな哲学者−

三木清「三木清全集」

ハイデッゲル教授(マルティン・ハイデガー教授)は、君(三木清)は
アリストテレスを勉強したいと云っているが、アリストテレスを勉強する
ことはつまり歴史哲学を勉強することになるのだ、と答えられた。………
即ち氏(ハイデガー)によれば、歴史哲学は解釈学に他ならないので、
解釈学がどのようなものかは自分で古典の解釈に従事することで
おのづから習得することができるのである。大学での氏の講義も
テキストの解釈を中心としたもので、アリストテレスとか、アウグスティヌス
とか、トマスとか、デカルトとかの厚い全集本の一冊を持ってきて、
それを開いてその一節を極めて創意的に解釈しながら講義を進めた。
私は本の読み方をハイデッゲル教授から学んだように思う。

(三木清「ハイデッゲル教授の思い出」)

最近、人生論ノートで有名な三木清の全集をゆっくりと読み進めており、
この哲学者の著作、皆凄く面白いよ(^^)とても好感が持てる素敵な著作。

柄谷行人が、日本の哲学系譜は、ドイツ観念論の流れを持つ論理論理で
ガチガチの西田幾多郎を代表とする京都学派の系譜と、フランス文学の
流れを持つ小林秀雄を代表とする生の哲学派の系譜に分かれるみたいな
ことを書いているけど、三木清は感覚的には圧倒的に後者な感じだね…。
三木はハイデガーの弟子で、ハイデガーがニーチェやキルケゴールから学び
発展させた生の哲学を、自らの血肉として豊かに受け継いでいる感じだよ…。

西田幾多郎の本とか読んでると、論理論理でそれこそ血も涙もないような
感じで、ちょっと寒くなってくるけど、三木清の著作、特にエッセイとか、とても
優しい感じの温かみがあって、書いている人の体温が伝わってくるというのかな…
凄く、ああ、暖かい血が通っているなというのが、肌に伝わってくるような感じ。

勿論、西田幾多郎は日本の生んだ大哲学者で、三木も西田の能才を称えた
文章をいくつも書いているけど、私は、三木の文章の方が、好きだな…。
三木がソフィストについてかいた文章(社会史的思想史)とかによく現れている
けど、三木が生活の実感を大切に考えて、ソフィストを生活的プラグマティスト
として評価する時、まさにこれはローティとかを評価する文章そのものになる。
三木の文章を読んでるとアメリカとか、本音のところで凄く好きだったんだろうなあ
という感じが、ひしひしと伝わってきますね。残念ながら三木の生きた時代は
時代背景的に決してそういったことを口に出せない世の中であったのですが…。

ソフィスト達は、彼等が従来の哲学者と比較され得る限り、寧ろ一種の折衷家
であった。彼らは善きもの、換言すれば、彼等の目的の為に使い得るものとみれば
なんでも取った。彼等の科学は現実の生活の必要から生まれたものである。………

彼等(ソフィスト)はもとより決して知識の軽蔑者ではなかった。さうすること
(知識の軽蔑)は、彼等が立っていた地盤を自分自身で危うくすることであった
のである。勿論彼等は唯実際に役立つ知識のみ認めた。彼等は世間離れの
した瞑想家の無価値で無目的と見える諸思索を真面目に相手することをもって、
多くを必要であるとは考えなかった。それが正しいにせよ、間違っているにせよ、
それが生活に役立たないということだけで問題にならなかったのである。………

この任務(プラグマティックな生活実感に基づく社会の改善)に仕えるための
仕事こそがソフィストにとっての哲学であった。………ソフィストの周囲に集った
大多数の人達は、ソフィストが彼等に行え得るように見えた国家市民的智慧を
求め、そしてそれによって国家や社会を改新しようと真面目に努力している者
であったのである。………彼等はあまりに実際家であった。政治的社会的領域
においても彼等は手近な実際的な問題に関心した。彼等が国家的社会的
プログラムを立てたにしても、その際なお彼等にとって主要な関心は、
「賢明な、善い能率家」達が現れて国家や社会の頭に立ち、公の事柄に
関して改革を行うようになるということにあったらしい。………ソフィスト達に
とってそれ(彼等の哲学と行動)が特定の理論、特定の主義の為の闘争を
意味しなかったことは、どこまでも忘れられるべきではないだろう。

(三木清「社会史的思想史」)

ローティの文章を読んでいるかのような錯覚に落ちいったよ。ローティを始めと
するアメリカのプラグマティスト達が自らの哲学とアメリカという国家の理想とする
ものが、ここでは全て語られている。日本だと鶴見俊輔さんとか橋爪大三郎さん
みたいな感じだね…。この二人がさしずめ三木清の後継者って感じかな…。

読んでいると、アメリカという国が古代ギリシアからの流れを汲んでいるんだな
ということが、実感として伝わってきましたね…。この「生活実感への意志」みたい
のは、日本ではこれほど強くない。逆に日本は市民一人一人が活動するというのは、
何か圧倒的超越的イデオロギー的な目的、例えば「絶対的全世界平和の為」
みたいな目的で動いているところがあるじゃないですか。三木清が描くソフィスト
の目的ってのはそれとは逆で、個々の人間の生活実感に基づいて、超越的理想
を打破して、個々の実感的な改善を求めようという、超越的秩序(神的秩序)に基づく
封建的な権力の打破、超越的理想に対する生活感からの民主的な抵抗なんですね。
理想の為ではなく、あくまで自分の生活実感を良くする為に、一人一人が立ちあがる。

凄く面白いなと。アメリカという国は、個々の自由と独立を何より大切にしているけど、
それはまさに古代ギリシアの民主主義的哲学者ソフィスト=プラグマティストの
系譜から現れてきていて、そしてローティ達はそれを継ぐ正統な後継者なんだなと。

…こういった自由主義的な思想が戦前の日本で受けいれられる筈もなく、三木は
クソッタレな特高警察の手によって虐殺されてしまうんですが…、戦後の日本にも
ずっと、こういった三木を弾圧したような「超越的理想主義封建権力」というのが、
凄く捻れて反転した形で存在し続けているのは、危険なことと私は思っていますね…。
生活実感によって日本は動くことができないということは、日本を暗くすると思う…。

まあ、暗い世相のなかでも、三木は暖かい人柄の伝わる素敵なエッセイを沢山
書いていて、こういったところを私も見習えればいいなあと思っておりますね…。

三木清のエッセイの中から、私の大好きな「如何に読書すべきか」をご紹介。

善いものを読むとは正しく読むことが大切である。正しく読まねば善いものの
価値も分からないであろう。正しく読むとは何より自分自身で読むということである。

………正しく読まうというには先づその本を自分で所有するようにしなければ
ならぬ。借りた本や図書館の本から人は何等根本的なものを学ぶことができぬ。
高価な大部の全集とか辞典のようなものは図書館によるのほかないにしても、
図書館は普通はただ一寸見たいもの、その時の調べ物にだけ必要なもの、
多数の専門文献の為に利用されるのであって、一般的教養に欠くことのできぬ
もの、専門書にしても基礎的なものはなるべく自分で所有するようにすると好い。
しかしただ手当たり次第に本を買うことは避けねばならず、本を買うにも研究が
必要であり、自分の個性に基いた選択が必要である。………自分に役立つ本を
揃えることが大切である。ただ善い本を揃えるというのでも足りない、全ての
善い本が自分に適した本であるのではない。各人が自分にあった読書法を
見出さねばならぬように、自分自身の個性のある文庫を備えるようにしなければ
ならぬ。何を読むかについて、人は本に対する或る感覚を養うことが大切である。

………正しく読む為には緩やかに読まねばならぬ。………然るに緩やかに読む
といふことは今日の人には次第に稀な習慣である。生活が忙しくなり、書物の
出版が多くなった今日においては、新聞や雑誌、映画やラジオなどの影響が
大きくなった今日においては、その習慣を得ることは困難になっている。………
勿論、全ての本を緩やかに読まねばならぬというのではない。或る本は寧ろ
走り読みするのが好く、また或る本は序文だけ読めば済み、更に或る本は
その存在を知っているだけで十分である。そのような本が不必要な本である
というのではない。全ての本を同じ調子で読もうとすることは間違っている。

しかし、様々な本をただ走り読みしたり、拾い読みしたりするのでは根本的な
知識も教養も得ることができぬ。自分の身につけようとする書物は緩やかに、
どこまでも緩やかに、そして始めから終りまで読まねばならぬ。途中で気が
変わることは好くない。最後まで読むことによって最初に書いてあったことの
意味も真に理解できるのである。………緩やかに読むとはその真の意味に
おいて繰り返し読むことである。ぜひ読まねばならぬ本は繰り返して読まねば
ならぬ。………繰り返して読むということの楽しみは、その本と友達になる
ということの楽しみである。緩やかに読むことは大切であるが、最初から
緩やかに読まねばならぬものは古典のように価値の定まった本であって、
新しい本を手にした場合は寧ろ最初は速く読んでみてその内容の大体を
掴み、それから再び繰り返して今度は緩やかに読むようにするのも好い。
緩やかに読むということは、本質的に繰り返して読むということである。………

読書に際して自分で絶えず考えながら読むようにしなければならぬ。
読書はその場合著者と自分との対話となる。この対話のうちに読書の
真の楽しみが見出さねばならぬ。自分で考えることをしないで著者に
代つて考えて貰う為に読書するのは好くない。もとより自分だけで
なんでも考えることができるものならば、読書の必要も存在しないであろう。

(三木清「如何に読書すべきか」)

三木のこの読書論は私の読書の指針だよ…(^^)
三木は何度も何度も緩やかにゆったり読むのに相応しい暖かな哲学者――。

こんな素晴らしい哲学者が邪悪な馬鹿どもに虐殺されたことを思うと、
本当に、この世界は…救い難き世界…。激しく悔しいとしか云いようのない思い…。

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