1982年9月4日、東京都部落解放運動連合会が発行した『国民的融合をめざしての前進』に、川上学氏の、「東京の部落問題の現状について」が掲載されています。 1982年の現状ですが、いまだ一部の行政や「解同」(部落解放同盟)が、「部落差別深刻論」を唱えているこんにち、非常に重要な提起もおこなっておりますので、ご一読いただければ幸甚です。

はじめに
東京における部落問題の現状をどうとらえるか−このとらえ方によって、東京における部落解放運動や同和行政のあり方、方向が大きく左右され、それだけに大事な課題です。
現在、東京の部落問題の現状について、大きく言って、次の三つの見解があります。
第1は、「解同」朝田派の部落差別拡大再生産論の考え方です。 「解同」朝田派は、東京の現状を科学的、歴史的、合理的にとらえられず、東京における部落差別が、基本的にはまったく変わらず、逆に差別がいっそう広がっているという立場です。 しかし、彼らの見解がなんら東京の実状を反映していないものであることは、彼らが東京に230カ所の部落があると称して、都に3000万円以上(1972年度=昭和47年度以降)の調査委託費を出させ、同和地区実態調査をおこないながら、彼らの主張を裏付ける具体的、客観的事実をまったく示し得ないで終わっていること、またさらに、さかんに「同特法(同和対策事業特別措置法)」に基づく「地区指定」を要求しながら、具体的な地区をまったくあげることができないことでも、見事に証明されています。
第2に、東京都がこれまでとってきた「部落差別温存論」です。 一応東京におけるかつての未解放部落が、崩壊・変化していること、また混住がすすんでいることを認めながら、科学的根拠をなんら示さず、東京において部落差別が依然として根深く存在しているはずであるという見地です。 この東京都の見解は、明らかに「解同」朝田派の理論や動向に少なからぬ影響を受けていると言えます。
第3は、部落差別が解消に向かっている東京の現状を科学的にとらえ、東京における国民融合の方向を指し示している東京都部落解放運動連合会などの見解です。
東京のかつての部落はどうなっているか
封建時代、ときの支配層はその体制を維持するため、きびしい身分制度を設けましたが、その最下層に位置づけられた人びとは、特定の地域に住むこと、職業も固定され、結婚など他の住民との交際も禁止され、非人間的な侮蔑と排斥を受けるなど、最もきびしい差別を受けました。
部落問題とは、こうした地域=部落がこんにちに至るも残っており、封建時代につくられた差別がさまざまな形で依然として続いており、憲法で保障されている基本的人権がいちじるしく侵害されている問題です。
つまり、1965年=昭和40年の同和対策審議会の答申(以下「同対審答申」)が部落問題の特徴とした「社会的現象としての差別があるために一定地域に共同体的集落を形成していること」、そして、その地域と住民が一般地区の生活状態および社会・経済的な一般水準と比較して依然として低い状態にあること、また一部の企業や国民のなかに、就職や結婚、つきあいにあたって旧身分を問題にしたり、市民生活のなかで言葉や文字で侮辱する悪弊・悪習が残っていることです。
したがって、東京の部落問題の現状を把握する場合、第1に、昔の部落がいまなお「共同体的集落」として形成されているのか。 第2に、旧部落のあった地域の生活、社会・経済的な状態はどうなっているのか。 第3に、旧身分を問題にする悪弊や悪習が都民のなかに広く残っているのかどうか明らかにしていくことです。
部落としては消滅、崩壊、変貌している
第1の問題は、結論として「共同体的集落」をいまなお形成しているところはほとんどなく、消滅、崩壊、変貌を遂げています。
弾左衛門が、関東の長吏頭として君臨した浅草亀岡町は、いま都立高校と問屋街になり、昔の名残はまったくありません。
また、1921年=大正10年の中央融和事業協会の記録に載っている文京区神明町、片町、東片町、久堅町の部落は関東大震災などにより完全に消滅しました。
また、こうした部落以外でも、一般住民の流入が激しく、「共同体的集落」が崩壊し、ほとんど一般地域と区別できなくなっています。 さらに地域によっては流出も多く、居住・移転が制限されている状況も見られません。
たとえば、練馬区のN地域は、解放令当時棕櫚表加工を中心とした80戸あまりの農村部落で、1935年=昭和10年の内務省の調査によれば320戸、1,030人の部落と記録されていますが、現在では6,058世帯、14,846人が住んでいます(別表1)。
もちろん、同和関係者がどのくらい居住しているか正確に把握することはまったく不可能でありますが、東京都が同和問題の解決と称して環境改善事業を計画している地域1,700世帯のうち、明治・大正以来この地域に住んでいる世帯は全体の5%=85世帯にすぎないことからも、流入がいかに激しくすすんできたかを示しています。
こうした傾向は東京都下三多摩地域の旧農村部落にもいちじるしく現れています。 たとえば府中市A部落は、1935年=昭和10年に16戸、80人と記録されていますが、宅地造成等により人口が流入し、現在1,035世帯、2,804人となっています。 八王子市B部落、19戸、97人は現在1,089世帯、3,408人に膨張しています。
墨田区H地区および荒川区A地区の旧部落は、激しい流出入がすすんでいます。
1935年=昭和10年調査では、H地区は500戸、2,600人の部落であったが、別表2のように人口が激しく変動しています。 1965年=昭和40年以降流出が激しい反面、1974年度=昭和49年度のアンケート調査によると、居住年数10年以内が5割を占め、流入も多いことを示しています(別表3)。
また、荒川A地区の人口推移は別表4のとおりで、すでに戦前から激しい混住がすすんでおり、同和関係人口は1割強に過ぎませんでした(1935年=昭和10年中央融和事業協会調査)。
戦後も人口の流出入が激しくおこなわれ、とくに環境改善対象地区の荒川A丁目は、現在人口が急激に減少していますが、同時に居住年数10年以内(1973年=昭和48年時点)の世帯が6割弱を占めており、墨田区のH地区と同様、流入もかなりあることが明らかになっています。
実態面でも格差が解消しつつある
実態的な面でも一般地区との格差はなくなりつつあります。
同対審答申は、同和地区の特徴として「劣悪な生活環境、特殊で低位の職業構成、平均値の数倍にのぼる高率の生活保護率、きわだって低い教育文化水準など」と指摘していますが、東京の旧部落はどうなっているでしょうか。
練馬区N地区の環境改善対象地区の現状(かつての農村部落)
所得=年収に換算すると1973年=昭和48年で平均180万円から240万円となっており、これは都民および練馬区民の水準とほぼ同様です。
職業=有業者の就業別構成は、建設業、公務労働の比率が高いことが特徴であるが、都の平均とほぼ同様であり、「特殊で低位な職業構成」とは言い難くなっています。
環境面=上下水道の普及地域であり、公園、遊園地等を除くコミュニティ施設、生活利便施設は一応充足されています。
地域の総合評価=アンケート調査によるとこの地域を「よいところ」13パーセント、「まあまあよいところ」61パーセント、あわせても74パーセント、「そんなによいところではない」23パーセント、「全然よいところではない」3パーセント強と答えています。
環境上の問題点
人口密度の高さは、練馬区の上位に位置し、木賃アパートを中心とする住宅密集地域を形成しており、老朽、狭小住宅が区平均を上回っています。 幅員4メートル以下の狭い道路が多く、災害危険度の最も高い地域となっています。 まとまったオープンスペースや公園、遊び場がほとんどない状況にあり、こうした環境面の問題は、昭和20年代後半に定住を求めてきた借地持ち家層、高度成長期の交通の利便さ、低家賃を求めて来住した木賃アパート居住者層の流入によって、土地の細分化、過密化によってもたらされたものです。 したがってこの地区で残されている環境改善問題は、部落差別に起因するというよりも、主要な要因は戦後の高度成長政策による東京への産業と人口の集中の結果もたらされた都市問題の側面が強いと言えます。
墨田区H地区
この地区は、解放令前は小さな非人部落があったと言われますが、明治時代、政府の都市政策の一環として、浅草など既成市街地に存在していた皮革産業が集中移転されたところです。 現在豚皮出荷では日本でも有数な皮革工業地域を形成しています。
所得面=墨田区の区民一人あたりの平均所得を100とすると、この地域は112と、区の平均を上回っています。
生活保護世帯=この地域の保護率は11.6パーセントで墨田区の平均保護率9.6パーセント、都平均の10.1パーセントをわずかに上回るが、全国の同和地区の平均保護率53パーセントと比較するならかなり下回っており、同和地区の特徴とされている「平均値の数倍にのぼる高率の生活保護率」(同対審答申)の状況にはなっておりません。
産業面=事業所規模は区平均を超え、地域別工場出荷額、従業員一人あたり出荷額でも区内の上位を占めています。 従業員一人あたりの出荷額は、区の平均を100とすれば、この地域は156にのぼります。
住宅=一人あたり畳数は4.5畳でほぼ区の平均に等しく、住宅困窮度の総合評価では、4ランクのうち困窮度の少ない方の第2ランクになります。
住環境の総合評価=道路率が区平均を下回りますが、過密生、危険性、劣悪生を現す六つの指標から総合評価した場合、最も問題点の少ない地域となっています。
問題点=魚腸骨処理工場、皮革関連工場から発生する悪臭、有害物質を含む排水など公害の問題が残っており、とくに悪臭は差別の再生産につながるおそれがあり、対策が急がれています。 また、公園、保育園、幼稚園などの公共施設、商業施設も同様な状況にあります。
都下三多摩の旧部落の現状
昭和40年代、東京都の委託によって「解同」都連(当時)がおこなった部落実態調査では、都下昭島市にあるMという部落について、次のように報告しています。
「道路は4メートル以下と狭く、主要路は泥土で悪路である。 下排水施設は不備である。 墓地は道路際にあり整備されていない。 飲料水は井戸使用が大半で衛生環境は全く悪く、不良住宅の密度が高い。 経済状況は鉄工、軽金属、繊維等の零細下請け業が数件あるが、雑業が多く、主として若い層、壮年層は日雇い労働者・現業労働者である。 結婚は部落同士の結婚であって、部落外の結婚は例がない。 生活水準は低く、教育状況は高校進学率はきわめて低い」
10年経ったこんにちのこの地域の現状は、次のようになっています。
道路の狭さは解決していませんが、すべて簡易舗装されています。 公共下水道の普及地域になっており、上水道が普及し、井戸使用はなくなっています。 墓地は最近整備され、住宅はほとんど建て替えられて、不良住宅はごくわずかとなっています。 雑業に従事するものはなく、若年層は大企業や公務労働についており、結婚も8割は通婚となっています。 またほとんど高校に進学しています。
東解連三多摩協議会の調査によると、三多摩の多くの旧部落は、一部問題が残っているところもありますが、だいたいこの昭島市のM地区と同じような傾向であったと報告されています。
心理的差別も現象
第3に、旧身分を問題にする悪弊・悪習の問題ですが、これも大きく後退していると言えます。 皮革関連産業(同和関係者が多く従事している)が集中している墨田区の2年間の生活相談205件のうち、「差別」についての相談が1件あったと報告されています。
さらに、同和対策の一環として建設された都立産業労働会館での法律相談の報告によると、1976年度75件、1977年4月〜10月で32件の相談がありましたが、部落差別問題はゼロで、大半が不動産・遺産相続の相談となっています。
東京都の都民生活局の1977年4月から1978年1月のあいだの生活相談件数563件のうち、同和問題に関する相談はゼロとなっています。
こうした東京の実態は、基本的には部落差別は解消の方向に大きくすすんでおり、国民融合の条件が広がっていることを示しています。
国民融合に向けての課題
こうした東京の実情に立って、国民融合に向けて東京における部落解放運動と正しい同和行政の課題は、
第1に、歴史的な部落差別をひとつの要因(すべてではない)として、生活環境の整備が立ち後れている地域や、皮革・履物産業などの労働条件、経営の改善・向上を進めていく課題です。
第2に、市民生活のなかで旧身分を問題にする悪弊・悪習がまだ一部に残っており、とくに『部落地名総鑑』や『特殊部落リスト』が悪徳出版社から出され、多くの大企業が購入した問題は、大企業に思想差別・学歴差別などとともに部落差別の体質が根強く存在し、憲法や教育基本法に基づく基本的人権尊重の教育、啓蒙のなかで、同和問題の正しい理解を広めていく活動が求められていること。
第3に、「解同」朝田派の新差別主義とたたかい、国民融合を進めていく課題です。
「解同」朝田派は、地域の実情や住民の意思を無視して「同特法」に基づく「地域指定」を要求し、鉄とコンクリートの新しい部落づくりを策動し、差別事件をでっちあげ、人権蹂躙の確認会・糾弾会をおこない、教育や行政への介入、同和事業における一般との逆差別、一部区行政に押しつけている「窓口一本化」など、国民融合に逆行し、新しい部落差別をつくるものとして、これとのたたかいが引きつづき重要になっています。