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社説:視点 派閥合併 時代遅れの集団に固執するな=論説委員・松田喬和

 自民党の古賀派と谷垣派が合流し、古賀派として再出発した。00年の「加藤(紘一元幹事長)の乱」で、両派は分裂した。「けんか別れ」をした派閥同士の合併は自民党史上初めてだ。

 派閥政治が全盛時の70年代は派閥の領袖になることが総理・総裁を目指す必須要件になっていた。いわゆるポスト佐藤(栄作首相・当時)を争った「三角大福中」はいずれも派閥のリーダーでもあった。派閥間の抗争は「疑似政権交代」作用と見なされ、万年与党の座を確保できた一大要因になった。

 半面、非公式の集団にすぎない派閥が権力を有するようになり、「派閥政治」への批判が高まった。金権政治の温床にもなり、自民党は野党に転じた。

 選挙制度の見直しを中心にした「政治改革」が進み、自民党内の派閥も急速に力を失った。派閥自体も「政策集団」と自称するようになった。同時に派閥が持っていた次世代のリーダー育成機能を自民党は失った。

 その結果、派閥の領袖ではない首相も多く誕生している。96年以後の6人の首相のうち、就任当時派閥を率いていたのは、小渕恵三、森喜朗両氏だけだ。合併した古賀派には06年の総裁選に出馬した経験を持つ谷垣禎一政調会長もいるが、総裁候補とは認定されていない。

 派閥力の低下に反比例して有力な世襲議員が増えている。ここ6代の首相は、実父が地元の首長だった森氏を準世襲と見なすと、全員世襲だ。世襲ゼロの「三角大福中」とは好対照だ。

 「政策集団」とはいうものの、基本政策で合意しているわけでもない。派閥形成の最大目的だったはずの総裁選でも、同一行動は難しくなった。実態の伴わない集団にもかかわらず、派閥は依然として拡大を目指す。党運営の基本的単位は依然として派閥のままで、その数でランクが付けられるからだ。

 古賀派の合併パーティーでもこんな場面が目撃された。町村派を代表してあいさつに立った中川秀直元幹事長は、その順番が数で劣る津島派の後に回されたことに対し、「グループの数では私どもの方が多いのだが」と皮肉交じりに語った。

 衆参両院で多数派が異なる「ねじれ国会」のルールは確立していない。来年秋までに行われる総選挙では、本格的な政権交代の可能性も指摘されている。派閥が果たした「疑似政権交代」も意味を失った。リーダー育成のシステム作りも、世襲に代わる人材供給源の確保も進んでいない。それでも、自民党は派閥単位の党運営に固執する。時代錯誤も甚だしい。

毎日新聞 2008年5月19日 東京朝刊

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