2005年10月31日(月曜日)

【HR】 ゴミの日

 スバル氏がいないので、朝起きてまずパスカルにご飯をやり、庭に出て運動をさせる。燃えるゴミを集めて、ついでに落ち葉を拾って、道路まで持っていった。
 今日も職人さんたちが4人来て、いろいろ工事。ペンキ塗りは、デッキの下部の鉄骨構造へ移っている。もう少し。左官屋さんは、今日で終わり。最後は洗い出し(半硬化状態で表面のモルタルを水で洗い流して、骨材を表面にわざと出す手法)で仕上げをしていった。庭師さんは、アーチ橋の下に石を並べていた。明日、水を流す試験をすることに。
 パスカルはおてを完全にマスタして、自分から進んでおてを繰り出すようになった。自分のものにした、という感じか。スバル氏がいない間に覚えたので、彼女が帰ってきたらまず、これを披露した。散々遊んでやったのに、スバル氏の顔を見たら飛び出していって、「誰も遊んでくれませんでした!」と訴えるのである。嘘をつくのは人間だけではない。
 「なんでゴミが出てるの?」とスバル氏に言われて、曜日を間違えていたことに気づく。燃えるゴミは明日だった。幸いカラスにはやられていなかった。スバル氏は「恥ずかしい」と言っていたが、そんなに恥ずかしいとは感じない。「間違えた」というだけのことではないだろうか。
 工作も2時間ほどできた。工作しているときは、とにかく自分に対して、「慌てない慌てない」と言い聞かせている。手綱のようなものだ。わざと回りくどい方を選択したりする。このコントロールが面白い。気が短い人だけが味わえる楽しみかもしれない。
 写真は、ホビィ・ルームのGゲージレイアウトのターンテーブルに乗ったパスカル。方向転換をしているわけではない。人間の赤ん坊だったら、何をされるかわかったものではない。生後4カ月で、犬はもう人の言葉を解し、いけないことはしない、トイレも失敗しないし、騒いだりもしない。人間が犬を追い抜くには、3年くらいかかる。

【算数】 単位再び

 10/22に書いた内容の続き。人が整列しているときに人2にならないのは、何故か、という問題提起をした。50通ほどメールをいただいたが、どれもあまり説得力がある解答ではなかったので、もう一度取り上げたい。
 「生きているものなので」といった文系的な解答や、なかには、「解答があるのですか?」といった疑問もあった。解答はもちろんある。そんな曖昧なものではない。
 前から見て、5人が横に並んでいる。横に回って見ると、10人が並んで整列している。これで、5×10=50という計算をする。これは50人いるだろう、という推論だ。どうして推論かというと、5人の後ろにすべて10人いるだろう、という仮定をしている。本当にそうなのか、ということを調べるためには、上空から見なければならない。これはこの世が3次元だからだ。
 前から見たら1人だった。横に回って見ても1人だった。上から見ても1人だった。ここで、初めて1人の存在が確定できる。
 しかし、今回は面積と同じように人数を数えている。したがって行と列だけに限って、つまり2次元で話をしよう。前から見て1人、横から見ても1人。だから1×1=1で1人の存在が確認できる。
 では、前から見たら5人だったが、横に回ってみたら0人だった、という場合はどうか。
 人間ではなく、ぺしゃんこの板に描かれた人間の絵か写真が5つ並んでいたのである。この場合、5×0=0で、人間が1人もいないという計算になる。
 つまり、このような数え方をしているとき、1人、あるいは1個というのは、既に2乗になったうえでの単位と考えることができ、前から見たときに「1人いるらしい」という認識の単位は、「人の2乗根(ルート人)」つまり、「人1/2」という単位でしかない。
 面積を把握しようとしているとき、長さを測っているのと同じである。矛盾はない。


2005年10月30日(日曜日)

【HR】 パスカル留守番

 先週と入れ替わりでスバル氏が東京へ遊びにいったので、パスカルと留守番。朝は1時間ほど落ち葉拾い。昼にも落ち葉拾い。夕方も落ち葉拾いをした。パスカルはその間、庭を散策している。軍手を投げてやるとくわえて持ってくる。これはずいぶんまえからできる。これに満足して、その後はなにも教えていない。スバル氏は、椅子の上にボーロをわざと置いて、パスカルが立ち上がってそれを食べるのが可愛い、というだけの芸を仕込んでいて、傍から見ると、明らかにお行儀が悪くなっている。
 しかし先週、左官屋さんに遊んでもらっているとき、「おすわり」はできるが、「おて」ができない。スバル氏が、「おてはまだできないんです」と言い訳すると、左官屋さんに「今からでも間に合うでね」と言われたらしい。これにスバル氏はショック。まだ小さいと思っていたわけだが、左官屋さんは、もうパスカルを成犬だと間違えているかもしれない。
 そういうわけで、留守番中、ほとんどパスカルと一緒にいるので、おてを教えてみたら、すぐにできるようになった。ぱちぱち。
 パスカルが寝ている間を見計らって、工作をした。家で一人でいるときは、どういうわけか、いろいろな仕事が捗る。不思議だ。ある種の緊張感がなせる技かもしれない。
 今日、一つ変だな、と思ったこと。サッカーなんかで、職人芸のシュートを賞して「芸術的」という表現をよく耳にする。もの凄い正確なシュートなどがそうだ。しかし、これはそのぎりぎりを狙った精度の高さを褒め称えているわけで、どちらかというと「工学的」あるいは「技巧的」ではないだろうか。芸術というのは、もっと感性のもの、感覚的なものだ。英語のアート(art)は、もともとは「技術」という意味で、今でも芸術の他に「人工」という意味もある。つまり自然(nature)の反対語だ。だから、英語でartisticなら、けっこう意味が近いのだけれど。
 ハロウィンらしい写真を撮ってみましたけど。

【理科】 音の速度

 音とは空気の振動のことだ。物体はすべて圧縮されると縮み、元に戻ろうとする。気体である空気もこの性質を持っている。これは、いわばバネのようなものなので、長いバネを想像すれば良い。片方でバネを動かすと、その伸び縮みが、もう片方へ伝わっていく。これが空気中を音が伝播(でんぱ)する理屈である。
 実は、空気でなくても音は伝わる。物体はすべてバネの性質を持っているからだ。液体でも固体でも伝わる。そのとき、そのバネが固いほど、音が伝わる速度が速い。固いというのは、同じ力を受けたときに変形が少ないバネ、という意味である。
 空気中では、音は1秒間に340mほど進む。時速に直すと約1200km/hで、これがマッハ1。水中では、約5倍(1500m/sくらい)、鉄などでは、20倍(6000m/s)くらいになる。つまり、6km離れた電車の音が、レールに耳を当てれば1秒後に聞こえるけれど、汽笛などの空気を伝わる音だと20秒くらいかかることになる。
 音は物体が伸び縮みしてできる波であるので、押し引きの伝播もこれと同様だ。
 長い鉄の棒を用意して、これの片方を引っ張る。するともう片方が動く。一見、両者は同時に動いているように見える。しかし、実は同時ではない。6kmの長さの棒の片方を引っ張れば、もう一方が動くのは1秒後である。東京と名古屋の間を結ぶ360kmの長さの鉄の棒を用意して、片方を引っ張ると、もう片方が動くのには1分もかかる。


2005年10月29日(土曜日)

【HR】 浮遊研究室打ち上げ

 朝見たら、ブログが稼働していた。まだ問題がないわけではないが、とりあえず、これで普通になった。掲示板もオープンになった。欠伸軽便の掲示板との棲み分けが難しい(難しいことはないが、なりゆきで書いてみた)。
 予報のとおり朝から雨。工事がお休みになったので、スバル氏とパスカルとホームセンタへ行く。カートに乗せたら、パスカルは大暴れ。飛び降りようとするので、しかたなくだっこしていたので重かった。「もう赤ちゃんじゃない!」という訴えらしいが、赤ちゃんじゃなかったら大人しくしていたらどうかと思う。
 夕方から一人で高島屋のハンズへ出かけた。いろいろ欲しいパーツがあったため。それから、KIHACHIでダ・ヴィンチのI子さんと会う。「浮遊研究室シリーズ」が完結したお祝いのパーティ。ということで、車道君、御器所さん、上前津君(いずれも仮称)も出席。お祝いがこんなに遅くなったのは、もちろん休暇期間中だったため。奇しくも、ブログ正式スタートの日になった。久しぶりのKIHACHIだったが、料理は大変美味しかった。
 10月いっぱいは小説の仕事をしないつもりで、今日も工作に精を出した。いろいろ同時進行で進めている。
 写真は昨日の続きで、塗り終わった母屋。奥に見えるのがガレージ。

【国語】 「でしょう」再び

 メールを沢山いただいた。「でしょう」は「だろう」と同じで、推定を表す。だから、「晴れるだろう」と同じで、「晴れるでしょう」は文法として正しいのだ、というご意見が多かった。
 僕の認識では、「だろう」は「だ」の活用(この表現が正しいか不明)した言葉なので、「晴れるだろう」は、「晴れるだ」の活用だと思う。だから、「晴れるだろう」もおかしい。どう言えば良いかというと、「晴れだろう」「晴れるのだろう」「晴れることだろう」のいずれかだ。
 そうはいっても、自分でも、「でしょう」や「だろう」を動詞終止形のあとにつけて話しているし、書いている。文法的に間違っている(あるいは昔は間違っていた)とは思うし、違和感は感じるものの、しかし、もうこれが普通になっているように思える。きっと、学校でも今の文法では正しいと教えているのだろう。
 過去形にすると変な場合もある。「美味しいです」「美味しいでしょう」はなんとかぎりぎり許せても、「美味しいでした」は許せないのでは?


2005年10月28日(金曜日)

【HR】 色の好み

 工事の足場が撤去された。母屋がちょっとグリーンのかかったスカイ・ブルー、ガレージは、白っぽいクリーム色になった。いずれもつや消しでシックな感じにしてもらった。スバル氏が選んだ色だが、どちらかというと、こういったカントリィでパステルな雰囲気は僕の好みで、彼女の趣味ではない。
 ドライブなどをしていて、「あ、あの家良いね」と言うと、「私嫌い」と答える確率が90%なので、そうやってお互いの趣味を確認し合ってきた。歩み寄ることはないので、単に距離を測っているだけである。
 たとえば、自動車の色は、僕は赤や黄色が好みで、結婚するまえの車は赤かった。結婚以来、車の色は、スバル氏の好みを尊重して妥協している。自分は車の中にいるので、外側の色はそんなに問題ではない、と考えてのこと。ミニなんかも、自分のものなら、絶対に赤かオレンジにしたのに。もう一台、ミニが欲しいのは、その点の僅かな不満からかもしれない。どちらにしても、メタリックが嫌いだ。フラットなべたっとした原色が好きである。子供っぽい。
 きっと、スバル氏は、自分は家の中にいることが多くて、庭で遊んでいるのは僕だから、僕の趣味を尊重してくれたのだろう。そう思うことにする。
 犬は、今まで飼ったのがすべて多色のブチ。単色の犬は飼ったことがない。だから、真っ黒とか、真っ白の犬がいると、違う動物に見えてしまう。犬って、そもそも、小さいのから大きいのまで、ほんとうに同じ種族なのか、というほどばらついている。まだ、タヌキや狐の方が犬に入れても良いと思うほどだ。
 そういうわけで夜はパスカルシャンプーだった。通算で4回目だろうか。最初のときは一瞬で洗えたのに、時間がかかるようになった。

【社会】 プロ野球

 新聞やテレビは、「報道」のメディアとして、中立な立場が求められる、とよく耳にする。しかし、プロ野球のチームを持っている新聞社やテレビ局があって、どう見ても、中立な報道はされていない。つまり、スポーツについては、「報道」ではない、という立場のようだ。
 たぶん、読者、視聴者のニーズに合致した情報を、という大義を根拠にしているのだろう。求められるものを提供している、と。これはエンタテインメントの理念としては正しい。日本人が見ているのだから、日本人の活躍を重点的に取り上げる。日本贔屓の報道をする。たぶん、戦争をしているときの報道も、似た理由で日本贔屓だっただろう。求めるものを与えることは商売としても最も簡単な手法である。
 株を大量に買われた球団は、試合に負け続け、ファンも球場へ行かない、それで株価を下げる、という反撃(対抗策)が有効だ、と書こうと思っていたのだが、本気で考えた人がもしかしていたりして……。


2005年10月27日(木曜日)

【HR】 黒山羊さんのイラストレータ

 朝方雨だったが、すぐに回復して晴天になった。でも、左官屋さんのおじさんは、朝のうちに一日の決断をしたようで来なかった。ペンキ屋さんと庭師さん2人が来て、作業。母屋とガレージの壁を塗り終わり、今日は壁を汚す作業。これは、風化した感じにするために、わざと白いペンキを少しつけて擦ったりした。明日はいよいよ足場を撤去する。でも、まだデッキとデッキ下の鉄骨を塗る作業があって、あと3日くらい。一方、庭師さんたちは、庭園の河川工事で、今日は大きな石を沿岸に並べる作業。こちらもまだ数日かかる見込み。パスカルがときどき庭に出て、作業の邪魔をする。僕は落ち葉拾いをした。
 講談社ノベルスの短編集のトビラ、メフィスト掲載の短編、IN☆POCKET掲載のショートショート、これらのイラストをすべてスバル氏に依頼することになった。10枚以上ある。すべて近日中に描かなくてはいけない。しかも、彼女は来春発行の絵本の作画もしている。大変なのではないか、と心配になって、「11月中に描ける?」と尋ねると、「描ける描ける」と二つ返事。しかし、描いてもらうには、本文を読んでもらわなくてはならない。そのためには、プリントアウトしなければならない(彼女は画面では文字を読まない人なのだ)。でも、プリンタがない。紙もない。普通はゲラが来たときに読んでもらうが、それで間に合うか。そのまえに、読んでもらった方が良いような気もする。そういう話をしていたら、スバル氏は「黒山羊さんは〜」と鼻歌をうたう。「読まずに描いた〜」
 ガレージは北側の壁がほぼ全面窓。少し東に振っているため、朝は明るい。この写真は夕方。

【図工】 絵と工作の時間

 小学校のときは、図画工作、音楽、家庭科、体育といった学科があった。これらは、いわゆる学問ではなく、文化活動というか、ようするにリクリエーションの基礎、みたいなことを学ぶためにあるのだろう。そういった機会が大切だとは思う。
 図工についていうと、最も問題なのは時間だろう。国語や算数と同じ時間で、絵を描いたり、工作をしたりする、という感覚が少しずれている。少なくとも、「今日は一日絵を描こう」というくらいの切換がほしい。あるいは、「今週かかって、これを作りましょう」くらいの時間配分が適当だと思う。毎週しないで、1年に1度、2週間なり、3週間かけて作ってはどうだろうか。
 本当は図工に限らない。算数だって、理科だって、細切れにする意味はないのではないだろうか。ただ、頭が疲れる。体育だと、躰が疲れる。だから、あの時間割になっているのだろう。絵だけは、描いていてどこかが疲れることはない。絵を描く行為は、それくらいリラックスした作業だからだ。画家に長寿が多いのもこのためだと思う。だから、せめて図工だけは、もっとゆったりと、時間をかけた方が良いと思う。


2005年10月26日(水曜日)

【HR】 ペンキ塗りと不自由なブログ

 朝からスバル氏がペンキ塗り。ペンキ屋さんからもらった塗料を、軍手に染み込ませて塗っている。刷毛を使わないので、窪んだ部分にペンキが届かない。隅に塗り残しが多々あった。まあ、それも一つの味かな、と僕は許容していたのだが、スバル氏はそこをなんとかしたいと言うので、工作室から使い捨ての刷毛を1本探してきて、渡しておいた。
 数時間後、見にいったら、綺麗になっていたので、「あ、刷毛で塗った?」と尋ねると、「ペンキ屋さんが、知らないうちに塗ってくれた」とのこと。イタレリィ・ツクセリィなセレブだ。ペンキ屋さんは「ちょっと、悪戯しといたでね」と言ったそうだ。コイキィなクラフツ・おじさんである。
 さて、この日記(臨時版)、毎日自分で自分のサイトのサーバにftpでアップしている。ダ・ヴィンチからリンクされているだけで、このままでは昔の日記と同じだ。ブログというのは、考えてみると、非常に自由度が低いようだ。人のブログを見ても、なんと画一的、しかも不便。こんなに不自由な形式でよくみんな我慢をしているな、と感じる。日記が2年、3年と続くことが想定されたデザインとは思えないし。まあ、ブログからインターネットに入った人は、これがスタンダードなので、不満は出ないということか。人間というのは、自分のエリアの中にしか自由を求めない奥床しさを持っているからだ(動物的といっても良い)。でも、外から来た人間、外を知ってしまった人間には、不自由さが洞窟の中の暗さと同じく馴染めない。
 10月分の小説のノルマを片づけたので、今夜から工作に専念できる。
 と書いたが、未だかつて、なにかに「専念」したことは一度もない。僕の場合、それが一番の苦手だと自覚している。専念したとたんに、ほかのことがしたくなるのだ。そういうわけで、いろいろ、無指向性で手を出し、どれもこれもものにならない。そんな人生だった。
 この頃では、そういった傾向がわかってきたので、絶対に「これをやり通そう」などと考えない。いつも自然体で、やりたいことをやる。やりたくないことはできるだけやらない。のんびり、ぽちぽちと、好きなことを少しずつ進めていきたい。まずは、好きなことが何か、を見極めることからスタートするのだが。

【算数】 90度

 直角のことを「90度」という。なんでこんな半端な数なのか、というのが、これを教えてもらった最初の印象だったはず。
 ようするに、360度の1/4なのであって、では何故、360度なのか、といえば、やはり、できるだけ沢山の数で均等に割れる、という数字を選んだのだろう。12進法の系列だ。
 でも、既に7では割り切れない。正7角形とかは困る。飛行機にも星形7気筒エンジンがあるけれど、あれの設計図を書くときは困るだろう。
 壁が床と直角なのは何故か? それは、家具が直方体だからだ、という本末転倒な答ではない。重力を支えるための力学的な理由である。では、壁と壁の角度は何故直角なのか? 部屋の形は4角形である必要はない。上から見たとき、3角形でも、6角形でも、あるいは円形でも良い。円形は、曲面の壁を作りにくいし、隣の部屋との隙間の処理が問題になるが、正3角形や正6角形ならば、その心配もない。3角形だと、部屋の隅が鋭角で使いにくい、と考えるかもしれないが、家具もすべて正3角形にしておけば、ぴったりと収まるだろう。現に、蜂は、自分の家を6角形で造っている。雪も6角形。結晶などは4角のものは少ない、蜘蛛の巣だって4角ではない。
 自然界には、90度は滅多に現れない。人工的な角度なのだ。人間が作るもののシンボルのような角度、それが90度である。十字を切ることが、その最たる象徴だろう。アーメン。


2005年10月25日(火曜日)

【HR】 塗装と河川工事

 現在、1月発行予定の短編集『レタス・フライ』の最終手直し中。明日くらいに終了する予定。それから、同じく1月発行予定の『工学部・水柿助教授の逡巡』ノベルス版のゲラも待機している。毎日、小説関係の仕事に3時間を割いている。このペースでずっと行く予定。
 母屋の色が塗れたので、今日からガレージ外壁の塗り替えに入った。窓をマスキングして、あっというまに色が変わった。スバル氏がホームセンタに行きたいと言うので、春日井まで出かける。また植木鉢を購入。あと小さなベンチも。帰宅すると、彼女はペンキ屋さんに材料をもらって、買ってきたばかりの新品に塗装。よほど気に入ったようだ。暗くなってもやっていた。今ふうにいうと、ペンキにハマっている。
 左官屋さんと庭師さんは、庭園の河川工事。池の骨格ができてきたので、その周囲に石を並べ始めている。白くて珍しい石で、あまり見かけないもの。パスカルは、何度も庭に出て、走り回っている。ペンキ屋さんに、軍手を投げてもらい、それを取って戻ってくる、という遊びをしてもらっていた。「名犬だ」と褒められただけで、食べものがもらえなかったのが、不思議そうだった。
 先日の講演会でも話したことだが、検索エンジンで「庭園鉄道」というキーワードで検索すると、もの凄い数がヒットするようになった。1年まえの100倍の数になっている。「森博嗣」は1年まえの8倍くらいなので、これがインターネットのサイトの増加平均とすれば、12倍ほどの成長である。少しは、皆さんハマりましたか?

【理科】 回転数

 回っているものは、世の中に沢山ある。
 家の中を探してみると、電気を使うものの半分くらいは回っている。だいたい、電気を使うものは、光るか、熱くなるか、回るか、のいずれかで、これ以外のものは、最近のデジカメくらいだろうか。パソコンにも冷蔵庫にも携帯電話にもモータが入っているからやはり回転している。
 エンジンの回転数は、車のタコメータを見るとわかるが、アイドリングが1000rpm弱である。rpmというのは、1分間で何回転するかを示している。60rpmだと、1秒で1回転になる。アクセルを踏み込むと、6000回転とかまで吹き上がるが、これは1秒間に100回エンジンが回っていることになる。相当速い。しかし、電池で回るモータでも、30000回転くらい回るものがあって、1秒間に500回転している。このあたりまで来ると、音は「キーン」とジェット機みたいに聞こえる。そう、ジェットエンジンの回転数もかなり高い。
 ようするに、回転数が速くなるほど、振動が速くなり、振動数が増えるから、音が高くなる。1秒間の何回振動するかを示すものが、ヘルツとか、サイクルという単位で、音の高低もこれで表される。
 直線運動と違って、回転運動は、たとえ空気抵抗がなくても、遠心力が作用するため、回転数に限界がある。構成材料が壊れてしまうからだ。


2005年10月24日(月曜日)

【HR】 仏像とトーテムポール

 午前中はミニで出かけた。そのあと、今度はミニでスバル氏が出かけていった。秋晴れの一日。講演会の出席者からのメールが沢山。今日は落ち葉を拾えず。
 よく通る道で、閑静な住宅地の中に、お寺があって、塀越しに大きな仏像が立っているのが見える。大きいといっても、身長5メートルくらい。三重に住んでいたとき、榊原温泉にあった金の大観音像に比べると、非常に質素だが、滑らかで新しそう。仏像も、神社仏閣の建築物も、できた当時は技術の粋を集めたものだったはずで、高層ビルかのように見られたのだろう。だから、今だったら、ロボットにして、表情が変わるとか、躰が動く、くらいのことはしてもバチは当たらないと思う。
 小学校にトーテムポールというものがあった。スバル氏にきいたら、「あったあった」とのことなので、中部にも関西にも一時期あったようだ。あれは、何だったのだろう? どうしてあんなものが小学校に広く普及したのか。たぶん、卒業生の記念製作として、流行したものと思える。この頃、見たり聞いたりしないのは、何故だろう? 人種差別とか、なにか引っかかるものがあったのだろうか。
 薪を背負って本を読みながら歩いている像(二宮尊徳?)は、子供の頃は見たことがなかった。あれは関東では普通だったらしいが。愛知県は交通事故が多いから、本を読みながら歩くなんてもってのほかだったからだろうか。

【国語】 「でしょう」の用法

 これも、きっともう方々で書かれていると思う。
 「明日は晴れでしょう」「明日は晴れましょう」は、それぞれ、「明日は晴れです」「明日は晴れます」の活用なので正しい。前者の「晴れ」は名詞。後者の「晴れ」は動詞である。ところが、近頃の天気予報を聞いていると、「明日は晴れるでしょう」と言うのだ。これは、「明日は晴れるです」の活用になるが、「晴れるです」なんて、日本人は普通使わない。つまり、変なのだ。きっと、間違っていると思う。「晴れるのでしょう」か「晴れることでしょう」ならば正しい。
 「頑張れば、きっとできるでしょう」もおかしい。「できるです」が変だからだ。「できましょう」と言ってもらいたいところだが、しかし、「できますか?」ときかれたとき、自分も「まあ、できるでしょう」と使うことがある。「できましょう」とはあまり言わない。30年くらいまえは、こう言っていたのではないか。今はもう、「できるでしょう」が日本中に広がっているようだ。
 「雨になるところがあるでしょう」も、本当は、「雨になるところがありましょう」が、美しい日本語だとは思う。たぶん。きっと。そう思いましょう。


2005年10月23日(日曜日)

【HR】 味噌汁とナシゴレン

 今日も朝食券がある(昨日のうちに誰かにあげるか売るかすれば良かったか)。9時半頃、ロビィへ下りていったら、レストランの前に長蛇の列。こんなに並んでまで食べたくないので、諦めて引き返そうと思ったが、もう1軒、和食の店があったことを思い出す。そっちへ行ったら、がらがらだった。
 朝ご飯が珍しいし、そのうえ味噌汁が森的には珍しい。朝、味噌汁とご飯を食べるなんて何年振りだろう。英字新聞とか手にして、日本通の外国人の振りをしようかと思ったくらい。たしかに、店の中は外国人らしい人の方が多かった。名古屋の人がきしめんや味噌煮込みうどんを食べないように、和食もそのうち日本人以外の人のためのものになりそう。
 味噌汁もそうだけど、カズノコとか、たくわんとか、塩辛いなあ。鮭も塩辛い。塩分高いんじゃない? そうそう、それで思い出した。昨夜は、インドネシアのチャーハンみたいなのを食べて、その固有名詞を初めて耳にしたのだった。若者はみんな知っている様子。それで、帰宅したら、またも娘が帰ってきていたので(毎週東京から帰ってきている気がする)、「ナスゴハンって知ってるか?」と尋ねたら、「ナシゴレンなら知ってるけど」と即答されてしまった。それくらい、みんな知っているようだ。大して個性のある味でもないのに、名前が広がることがびっくりである。
 パスカルはしばらく(2日半)見ないうちにかなり大きくなった。毛が長くなっている気がする。家に電話したとき、犬が吠えている声が聞こえたので、スバル氏に「誰が鳴いてるの?」と尋ねたら、「私じゃないよ」と答えたが、しかし、帰ってきたら、またまったく吠えない。僕のいるところだけで吠えないらしい。
 そういえば、博物館でエンジンも見てきたのだった。この写真は、ガレージの2階に置いてあるラジコン飛行機のもの。黄色いところがカウリング。9気筒に装っているけれど、実際には、正立している1気筒だけ(ちょっと形が違う)が本もののエンジン。模型の場合、エンジンの回転数が高く、プロペラが小さくなる。本もののプロペラはもっと大きい。

【社会】 原価

 ホテルに宿泊すると新聞があるので読む。朝日新聞だったと思うが、コンビニでガス、電気、水道などの料金を支払う人が増えていて、銀行よりも多くなりつつある、という記事だった。銀行よりも店も多いし、開いている時間が長いから当然だ。それよりも、コンビニ側のコメントとして、1回の払い込みで、50〜60円の手数料が取れるので、これはおにぎり1個の利益と同じくらいだ、とあった。この記事で最も面白かったのは、この部分だった。おにぎり1個でそれくらい利潤があるのか、と……。
 喫茶店の飲みものなんかも、原価はどう考えても1杯、数十円だろう。10倍くらい(あるいはそれ以上)の値段がついている。ほとんどが、店の場所と、人件費に費やされている。建築だって、何千万円もするけれど、純粋な材料費は1割くらいではないだろうか。もっとも、「純粋な」という部分が難しい。
 たこ焼き屋さんがあって、400円の皿が100皿売れたとする。これは、8時間営業したとき、平均5分に1人客が来る場合だ。1日4万円の売り上げになる。でも、店の中には焼いている人が2人、レジに1人いる。3人の賃金が6000円として18000円。店の賃貸料円が1ヶ月10万円くらいとして1日約3000なので、半分以上が消える。材料費は1万円はかからないだろう。残りが儲け、あるいは、その他の雑費になる。100皿くらいじゃあ商売にならないか。
 食べるものに比べると、自動車や電子機器は、値段の割に原価がかなり高い。割合が高いというだけで、絶対値は大きいから、なんとか回っているようだ。しかし、自動車のディーラや、銀行などもそうだが、一等地に洒落た店を構え、そこに大勢店員がいたりすると、「この土地や建築費や店員の給料が値段に含まれているのだな」と思えてしまう。そう思ってしまって良いと思う。


2005年10月22日(土曜日)

【HR】 秋葉原と講演会

 ホテルに朝食が付いていたので(どういうわけかときどき頼みもしないのにセットになる)、しかたなくビュッフェでコーヒーとジュースだけを飲んだ。
 秋葉原へ出て散策。雨模様。主に電子パーツのジャンク屋さんを回る。新しい部品は安いのに、ちょっと古めかしいスイッチやパイロットランプは高い。黒い帽子とマントといった魔女のコスプレの人を何人か見かけた。ハロウィンなのだ。でも、そんな服装でも全然魔女に見えない人と、そんな服装しなくても魔女に見える人のどちらかだった。
 大きなヨドバシカメラも初めて入った。大きい。人がめちゃくちゃ多い。つくばエクスプレスの駅も見てきた。それなりに新しい雰囲気で、珍しい。駅って、だいたい古いものだから。
 それから、ホテルへ一旦戻り、今度は江戸川区の船掘へ出向く。ファン倶楽部の講演会が開催されるため。15人ほどのスタッフさんと久しぶりに会う。みんな控え室で忙しく準備をしていた。ここで、ノートを広げて今のうちに日記を書く。
 出席者はで300人くらいで、受付などいろいろ大変そう。感謝。パソコンが無事にプロジェクタにつながったので、一安心。6時半から始まって2時間話し、そのあと質疑応答が30分。トラブルもなく終わった。
 その後、スタッフの人たちと1時間程打ち上げの食事会。ホテルに11時半頃戻った。講演会の出席者から沢山メールが届いていたし、交換した名刺などを、ホテルの部屋でゆっくり読んだ。感謝。
 写真は、講演会の会場となった江戸川区のタワーホール船掘の吹き抜け。

【算数】 単位

 計算には不要のものなのに、実際の場合、数にはおおかた単位が付属している。数が単体で意味をなすもの(単位がないもの)は、非常に少ない。単位は、数えたものが何であるかという情報を少しでも残しておくという意味合いなのだろう。それ以外に、桁を示すという重要な役目もあって、これは間違えるととんでもない大きなミスにつながる。ヘクタールなのか、平方キロメートルなのか、違いはとても大きい。
 算数の場合は、式には単位を入れない。一度抽象化して数だけで計算をする。答が出てから、最後に単位を添える。単位を付けるのを忘れると、その数が意味をなさない。これを付け忘れたり、単位を間違えたとき、減点はあるものの、部分点がもらえたりするけれど、しかし工学においては、単位がないものや間違っているものは、致命的なので、0点が順当である。計算間違いよりも結果的に大きなミスにつながる恐れだってある。
 横幅を測ったら5m、奥行きは10mあった。面積は50m2だと計算できる。人が整列しているとき、横に数えると5人、縦に数えたら10人。長さと同じように、5×10=50と計算するのに、答の単位が「人」のままである。どうして「人2」にならないのだろう?(考えてみましょう)


2005年10月21日(金曜日)

【HR】 上京と地震

 新幹線に乗って上京。電車の中でコーヒーを久しぶりに飲んだ。スチロールのコップで飲むコーヒーはなんだか微妙に美味しい。ミルクも砂糖も入れないが、車窓の風景が入るからか(おやおや)。東京は2カ月振り。近頃子犬がいるため出づらかった。
 以前は新宿に泊まることが多かったのだけれど、この頃は山手線の東方面が多い。中央線にあまり乗らなくなった(その代わり、名古屋で乗っている)。銀座の天賞堂へ行き、中古の貨車を1両と、新車の貨車2両と、洋雑誌を8冊ほど買った。重いので、宅配便で送るつもり。
 ホテルに戻って講談社のK城氏と会って、新刊のこと、来月のパーティのこと、記念グッズのこと、その他いろいろ打ち合わせ。次に、文春のI井氏、Y田氏、O島氏と会って、今後の連載のこと、来年の新刊2冊について打ち合わせ。銀座でイタリアンを食べる。美味しかった。
 東京といえば、地震が多い。別に最近のことではない。写真は、ホテルのラウンジで窓の高い位置を撮影したもの。大きなガラスが高層ビルに使われている。ガラスは穴を開けてボルトで留めることができない。両側から挟んで支持されている。地震のときに大丈夫なのか、と心配する人は多いだろう。そんなことは考えもしないかもしれない。大まかにいうと、高い建物は安全だ。新しい建物も安全。慌てて外に飛び出さない方が良い。

【理科】 流動の法則

 中学生のときだったか、ホースの先からバケツに水を入れようとしている友人が、ホースの先を指で摘み、先を細めて勢い良く水を出しているのを見かけた。「どうしてそんなことをするのか?」と尋ねると、「この方が圧力が増して早く水がいっぱいになる」と答えるのだ。つまり、水の流速が早くなることで、より多くの水がホースから流出すると考えたらしい。
 もちろん、これは間違い。ハーゲン・ポアズイユ法則を知るまでもなく、流れる道が狭められ、抵抗が大きくなるほど流量は減少する。先を細くすることで、ホース内の圧力は高くなるし、流出の速度も増加するが、トータルとして流れ出る水の量は減る。なにもしないで、とろとろと出す方が水は早くバケツを満たす。
 大きな口を開けて息を吐き出すと一瞬で終わってしまうが、口笛を吹くように、口をすぼめると、息は強くなるし、また息が長く続く。つまり、大きい口の方が、一気に息を吐き出すことができる。
 ところで、流行もこれに似ている。ごく少数の人たちが始めたときは、勢いがあるように見えるが、トータルとしては量は少なく商売にはならない。この時期は比較的長い。大勢に広まると、勢いは衰えるものの、大量消費につながる。しかし、たちまち圧力差がなくなって、流れは止まってしまう。


2005年10月20日(木曜日)

【HR】 ネタは何故尽きるのか

 3日に1度の割合で、ダイエーに1人で買いものにいく。地下の食料品売り場だ。「ワカタカ軍団〜」という歌が流れているので、二子山部屋の応援歌だと思っていたが、どうも違うようだ。
 晴天。ペンキ屋さんが母屋に色を塗っている。スバル氏がペンキ屋さんの指導を受けて(材料をちゃっかりもらって、養生やマスキングや掃除も全部やってもらったうえで)庭にあるベンチに色を塗った。壁の色と同じグリーンっぽいスカイブルー。このあと、黄色や茶色でウェザリング(汚し)をして古びた雰囲気が出るようにチャレンジしていた。もともと、この上なく古びていたベンチなので、ベンチ本人も複雑な心境だろう。母屋も、綺麗に色を塗ってから、わざと汚してもらう予定。既に築25年の建物で、古びているので、まあ相応というところ。工事の詳細が知りたい場合は機関車製作部かその掲示板を。
 日記を始めて20日になる。感想メールが毎日沢山届いているが、「こんなペースではネタが尽きないですか?」といったご心配も幾つか。それで考えたのだが、ネタは何故尽きるのだろう?
 簡単である。ネタをストックするから、それが減ってしまって尽きるのである。溜め池が干上がるのと同じ原理だ。池は干上がるが、川はいつも水が流れている。いつも流れているものは、尽きない。
 日記を毎日書くコツとは、つまり毎日必ず書くことである。溜めないことだ。ネタも溜めない。その場で考え、その場で思いついたことをすぐに書く。違うところで面白いことを思いついても、あとで使おう、とメモをしたりしない。いつも、その場で書いていれば、いつも思いつくようになる。ネタをストックすると、思いつかなくても書けるが、そうしているとだんだん思いつけなくなる。つまり、メモやストックは、思考が停止する時間を増やしているに過ぎない。
 小説もすべてこの方式で書いてきたので、最初から常にネタ切れ、いつもネタ切れ状態である。したがって、これ以上にスランプに陥ることはないだろう。ただ、書いたものが増えれば、同じもの、似ているものが、増えてくるだけで、それは作者の問題ではなく、読者側の問題となる。厭きたら、他の読みものへ移られるのが良いだろう。

【国語】 いるかあるか

 語尾が「いる」か「ある」か、迷うようなことはないだろうか。自分の言葉であればそんな迷いはないし、文章を書いているときも迷わない。つまり、しっかり使い分けている。ところが、人が書いた文章を読んで、それを直すようなときには、ときどき、自分とは違う方が使われていて、どうしよう、この人の文章なのだから、このままにしておくべきか、と迷う。
 「壁が白く塗ってある」なのに、「壁が白く光っている」である。しかし、人がライトを当てて、「白く光らせてある」のか、「白く光らせている」のかは微妙だ。「壁が」ならば「ある」だし、「壁を」ならば「いる」だ。しかし、省いたときはどちらでも良い。
 「荷物を置いている場所」か、「荷物を置いてある場所」か、どちらか? どうニュアンスが違うだろう? 「コンピュータに記憶させていた」のか「記憶させてあった」のか、どちらか?
 人によっては、あるいは地方によっては、「荷物が届いてある」が普通のところもある。僕は、「荷物が届いている」だと思う。しかし、「靴が揃えている」は変だ。「揃えてある」でなければならない。うーん、留学生はどうやって学んでいるのだろう。この法則性は? 主語や、動作を分析すると、なんとなくルールが見えそうな気もするが。
 別にどちらでも、意味が通じて「いる」。通じて「ある」わけではない。


2005年10月19日(水曜日)

【HR】 わかるために読むのか

 暖かい秋晴れ。今日は庭師さん3人とペンキ屋さん2人が工事にやってきた。庭には大型トラックが入って、穴を掘って出た土を積んでいった。深さが50cmくらいの大きな穴があちこちにできた。死体が5,6人は埋められそう。母屋の方は、すっかり白くなった。これはまだ下塗りで、これからが本番の色になる。窓枠や屋根の周囲などの色をスバル氏が決めた。こうして手を入れていくと、だんだん自分の家に思えてくる。
 小説の感想でよく「わからない」というものがある。ミステリィだと「最後まで読んでも謎が明かされない」という声がよく聞かれるところだ。そういうのを聞くと思う。そうか、みんなわかろうとして小説を読んでいるのか、最後に謎が解けると思ってミステリィを読んでいるのか、と。
 マニュアルは、それを読めば、機器が使えるようになる。そのためにあるものだ。だから、読んでもわからないマニュアルは、困った存在といえる。それから、問題集などは、後ろのページに解答が載っている。あれがないと困るかもしれない。問題集を読む人は、やっぱり謎が解けることを求めているだろう。
 読者からのメールで、大変多い(たぶん最も多い)自己紹介は、「私はミステリィが苦手なのですけど……」というものだ。つまりは、「わかる」もの、「謎がしっかり解ける」展開に、違和感があるからではないか。その違和感が、ミステリィに自分は向かない、と感じる理由だ。
 何故なら、現実にはすっきりわかる例がまずない。現実の問題や謎は、滅多に解けない。原因が明確ではないものが多い。ある程度は解明できても、単なる一解釈であり、納得できる推論程度のレベルにすぎない。犯罪だって、動機が明らかでないものが多々ある。解決しているようでも、裁判でひっくり返る例も多い。犯人が明らかにならないことは日常茶飯事である。
 現実がそうなのだから、せめて物語の中では、と凝縮し単純化し、すっきり気持ち良くさせてくれる。それがかつては常套だった。芝居でも映画でも、当初はシンプルだった。だが、時代とともに、複雑になり、リアルになるように観察できる。

【社会】 

 名古屋でも東京でも、駅や公園などで、ホームレスの住宅(?)をよく見かける。段ボールや青いテント(支援団体が配布しているらしい)で雨風を防いでいる。自動車のバッテリィやカセットコンロを使っている人も見かける。電気もガスもないのだから、それなりの工夫が必要だろう。しかし、どうしてここに集まっているのか、と周囲を見渡すと、必ず自由に使える水が近くにある。つまり、人間が生きていくためには、水が不可欠なのだ。
 集落は必ず水辺にできる。大きな川がないところに大都会はない。飲料水だけでも必要だが、農業や工業にはさらに何十倍、何百倍もの水が必要なのだ。
 東京の近くへ行くと、大きくて有名な川でも、意外に流れている水が少ない。その代わり、河原がやたら広くて、グランドがあったり、公園があったりする。あれは、あの川を流れている水の大部分が、上流で吸い上げられ、水道に使われているせいだ。その割合は(20年もまえに聞いた話だが)98%以上だという。流れているのは本来の水量の2%以下ということ。
 名古屋の近くにある、木曽川、長良川、揖斐川は水が多い。やはり、東京よりは、開発がされていないということだろう。地域贔屓ではないが、名古屋の水道水は冷たくて美味しい。知っているかぎり、どこよりも美味しいと思う。
 地震などの災害時にも、最も重要なものは水の確保だろう。


2005年10月18日(火曜日)

【HR】 落とし穴?

 庭師さんたち3人が来て、庭に穴を掘った。けっこう深い。罠を作っているようにも見える。1つではない、もう1つあって、今夜は庭に出ると危険だ。
 今朝も雨上がりで濡れた落ち葉を1時間ほどかけて拾ったのだが、こういった地道な作業は、実は楽だ。人間に向いている、ということがよく理解できる。
 毎日コツコツと作業を進めていく方が偉いということはない。そちらの方が楽なので、むしろサボっている、といっても過言ではない。だから、きっと褒められないのだろう。
 締切ぎりぎりになって、大慌てで徹夜してやっつけ仕事で切り抜けると、体力は消耗するし、ストレスもかかって精神的にも疲れるし、おまけに仕事も雑になる。しかし、充実感があるし、仕事を依頼した方も、今更やり直しができないし、頑張っている姿が目の前にあるから、褒めてくれる。
 つまり、仕事のできがどうこうよりも、苦労を売っているのである、おおかたのビジネスは。なるほどなあ、そういうことだったのか、と落ち葉を拾っていて理解した。僕は、労力よりも、出来上がり具合で評価したいけれど。

【算数】 1/2と1/3

 横幅と高さをかけて四角形の面積を求めるが、これと比べると、三角形の面積は1/2という係数がかかる。これは何故か。まあ、絵を描いてみれば、すぐにわかるだろう。わからない人はこのあとは読まなくて良い。
 では、円柱や四角柱は、底面と高さをかけて体積を求めるが、それと比べると、円錐や四角錐は、どうして1/3という係数がかかるのか。これはちょっと考えても、感覚的に理解が難しいと思う。この1/3というのはどこから来るのか? この時点で、円柱とか円錐といった立体が頭に思い浮かばない人は諦めてほしい。恥じることではない、語学と同じだ。
 積分というものを習う。微分の反対である。代数の中でも比較的新しい発明で、つい数百年まえに考え出された手法ときいている(確か、ニュートンとかラグランジュとか)。X2(Xの2乗)を微分すると、2Xになる。逆に、2Xを積分すると、X2になる。思い出されただろうか。つまり、Xの積分は、1/2・X2なのだ。同様に、X2を積分すると1/3・X3になる。これらが、三角形や円錐に現れる係数だ。
 ということは、ある体積のものが、時間とともに線形に小さくなる場合、トータル体積(4次元の容量)は、最初の体積に時間をかけ、係数1/4をかけたものになる、と類推できる。4次元に存在する物体が、5次元方向に線形に変化すれば……。頭脳が引いてしまった人は諦めてほしい。


2005年10月17日(月曜日)

【HR】 ころころパスカル

 先週の天気予報は外れて、一日雨。しかし、昨日の時点では予報どおり。遠いさきの天気予報は気休めで、近づくにつれてだんだん現実性を帯びてくる。1時間後はほぼ確実に当たる。それならば、遠いさきのことなど予測するな、というのは間違いで、やはり遠くを予測しようという姿勢が近くの精度を上げるのだろう。
 ドッグフードがなくなったので、近所のブリーダさんへもらいにいった。パスカルも一緒。パスカルは、兄弟4匹のうち一匹だけ黒い。他の3匹はブルーマールで白い。それから、一番躰が小さい。一番大きい子と比べると、3ヶ月のときに半分くらいの体重しかなかった。
 そういう情報を聞いていたので、スバル氏が親心で余計に食べさせていたようだ。ドッグフードをお湯で軟らかくし、ミルクの粉をかけ、缶詰の肉を少しトッピングする、という子犬用メニューを続けていて、一日3回食べさせていた。欲しがるので量も増やしていた。このほか、トイレをするたびにササミをあげていた。これは、もともとはトイレを教えるためのご褒美だった。さらに、ボールを持ってきたらボーロ(1cmくらいのお菓子)をもらえる。ときどきジャーキももらえる。食いしん坊のパスカルもしだいに知恵がついてきたため、トイレは小出しにする。人が見ているときしかしない(ご褒美がもらえないから)。自分でボールを投げて自分で持ってくる。最近、躰がずっしりと重くなった。
 5kg以下の小型犬の胴輪を買ってきたら、胸回りが届かない。シェルティは、3,4ヶ月からしばらくの間、ほっそりとして別の犬種のように見えるのだが、「うちの子はならないね」とスバル氏と話していた。「このまま大きくなるのかな」と。
 どうも太りすぎだったようだ。ブリーダさんで、「まだミルクを?」「まだ3食?」と驚かれてしまい、ササミの話をしたら「高カロリィ」と指摘されてしまった。さあ、どうしよう。「2食にするなんて、いったいどうすればいいの?」とスバル氏は苦悩している。
 この写真はまだ1ヶ月半のとき。体重は2kgくらいだったと思う。鼻も手足も短い。愛犬日記になっているな。

【理科】 大きさと重さ

 物体には大きさ(体積あるいは容積)と重さ(重量あるいは質量)がある。大きさが同じでも、重さが違うのは、比重(密度)が違うためだ。水が、だいたい1リットルで1kg。つまり、10cm立方の大きさで1kgで、これよりも比重が小さいものは水に浮くし、重いものは沈む。
 ものの重さは、ものがそこに存在していれば変化しない(正確には、変化しないのは質量であって、重量は重力によって変化するので、地球から離れたりすると変わるが)。したがって、熱しても重さは一定、あるいは、複数のものを混ぜ合わせても、重さはそれらの合計になるだけで変化しない。人間が力んでも、死んでも、体重は変わらない。しかし、体積は変わる。たとえば、お腹を膨らませたりできる。水とアルコールを1リットルずつ混ぜると2リットルより少なくなる。粉状のものは、容器に入れたとき、密実さ(詰まり方)の具合によって見かけ上体積が変化する。
 一般に、「大きさが2倍になった」と言ったとき、体積が2倍になったことを示すようだ。これはもちろん重さがだいたい2倍になったのと等しい。しかし、なかには、長さが2倍になったと解釈する人もいる。つまり「あの人は普通の2倍大きい」を身長が2倍高いと解釈する。それは変だろう、と思われるかもしれないが、相似形のものを比べるときは、大きさの比率とは長さの比率のことである。たとえば、プラモデルの18分の1スケールなどは、長さが18分の1という意味だ。
 もし人間が同じ体形で3倍の大きさになると、身長は5mくらいになる。このとき体積は27倍になるため、体重は1600kgくらいになる。既に軽トラックでは運べない。地上で動き回ること、生きていくことも難しいだろう。


2005年10月16日(日曜日)

【HR】 初めてのお散歩と駐車場

 朝は雨上がり。庭で遊んでいたパスカルが門の外へ出たがった。胴輪とリードをつけてみたら、ちゃんと歩ける。それで家から200mくらいの距離まで散歩をした。スバル氏も一緒。数日まえは、パスカルがリードを気にして歩かなかった。ブレーキをかけ後退すると胴輪がするりと躰や首から抜けてしまった。中国雑伎団くらい柔軟な肉体なのだ。だから、そうならないように注意して歩いた。もちろん、外ではトイレをしない。帰宅するやいなやトイレへまっしぐらである。
 爽やかな秋らしい一日だった。夕方1時間ほど時間ができたので、庭で機関車を走らせる。いつもの大きな機関車は、今、母屋が工事中のため不通になっている。少し小さいスケールで人が乗らない大きさのもの。しかし、ライブスチームなので火をつけて蒸気の力で走る。今日はブタンガスが燃料の3台をそれぞれ10分ずつくらい走らせた。楽しかった。また走らせよう。
 買いものにいくときも、だいたいパスカルを連れていくので、スーパの駐車場などで車に乗って待っていることが多い。パスカルと待っているので、まあ退屈はしない。彼は窓の外を見ている。ドアミラーがすぐ近くにあるのだが、見ないようにしている。家の中では、最初の頃は鏡や窓ガラスに映った自分の姿に吠えたりしたが(そう、ときどき2回くらいだけ吠える)、今はもう慣れたようだ。だから、ドアミラーも無視しているのだろうか。彼の中でどう処理されたのだろう。
 駐車場で気づいたこと。民家などがあって、そちらに排気ガスがかからないよう「車を前付けで駐車して下さい」と指示されているところが多い。苦情対策だとは思う。これを守っている人が非常に少ない。なかにはバックで駐車し、しかもエンジンをかけたままで車内で待っているおじさんもいる(クーラをつけているから)。何人も見かけたが、だいたいお年寄り夫婦で、看板など見ていないようだ。そういう人の行動を観察していると、荷物を載せてきたカートも指定の場所へ戻さない。奥さんが返しにいこうとすると、「いいから、そこらへんに置いておけ」とご主人が大声で怒鳴っていたりする。年寄りのマナーの悪さは、どうも根強いように思えてしかたがない。やはり、長く生きてきたという自信なのか、ある種の居直りなのだろうか。
 何度も書いているがもう一度書く。前付けに駐車してもらいたかったら、駐車スペースの幅をせめてもう1mは広げる必要がある。直角に曲がりながら前進で車を入れるためには、自動車の構造上そうなる。両側に車が駐めてなければ狭くても入るが、そのあと両側に駐車されると、バックでは出られなくなるのだ。つまり、4台駐められる広さならば3台にしなければならない。それをしないで、ただ「前付けでお願いします」と書くのは、やはり苦情に対する言い訳的措置ということで、本心からそうしてほしい姿勢ではない、と判断されてもしかたがないだろう。

【国語】 入試問題微妙

 今年の春、関東の某有名理系大学で、拙著『工作少年の日々』が入試問題(国語)として出題された。もちろん、たとえ作者であっても、この種のものは事前には知らされない。したがって、許可を得るどうこうといったことはなく、また著作権にも触れないことになっている。ただし、試験後にその問題を一般公開する場合や、問題集などに載せるときには許可も必要だし、著作料も支払われる仕組みのようだ(最近、受け取った)。
 問題を読んでみたが非常に難しい。四角の中に適当な言葉を入れろ、なんていわれても、この作者のことだから、意味のない語句を使ったり、わざと変な言い回しをしそうな気もして、おいそれとは選べなかったのじゃった(ほら、ここが入試に出たら正解率は最低だぞ)。
 トーマが武士のような生活をしている、という文章の中で、「大奥の施しを受けている」と書いたのだが、それは具体的にどんな意味なのか、という設問もあった。書いた本人も、具体的な意味をあまり考えずに書いているので、びっくりした。どういう意味だったのか思い出せない。
 漢字なんか半分も正確に書けない。代名詞が何を示しているのか、そんなことをいちいち考えていたら、文章はちっとも書けない。そういうわけだから(ほら、どういうわけかわからないぞ)、国語で良い点を取れなくても、少なくとも小説家にはなれる、ということで安心して良いと思う。


2005年10月15日(土曜日)

【HR】 ブログと若干の世事

 一日中雨で一日中家の中にいた。ペンキ屋さんもお休み。パスカルのガーデン・ランニングもお休み。
 ダ・ヴィンチのI子氏が来宅。グラマシーニューヨークのケーキをいただきながら、この日記のブログと掲示板の打ち合わせ(あま〜い!)。それから、これを出版する話。ブログの方は今のところ作業中でまだ見通しは立っていない。そもそもブログにする意味は何か、というと、一番のメリットはftpを使わずに管理ができることだろう。あとはデータベースとしての検索機能くらい。リンクやトラックバックには興味がないし、するつもりもないので、いわゆるブログとはいえないかもしれない。
 雨のせいで外で工作ができないので、執筆作業を3時間ほどした。普段は、執筆は1日1時間くらいに抑えている。だいたい9月のノルマは書き上げて、あとは手直しくらい。このように、1日に3時間もすることは「小説に専念する」といっても過言ではないだろうか。雑誌社と新聞社から原稿依頼があったが、お断りした。いろいろなタイミングがある。
 株の買い占め(とまではいかないが)の話題がニュースを賑わせている。「金のある人が、さらに金を増やそうとしている」と卑下するキャスタもいて非常に見苦しい。誰だって、仕事に打ち込むのは当然だろう。「金でなんでも買えると思ったら大間違いだ」などと発言する元スポーツ選手もいた。当たり前だ、売っていないものは買えない。株は売っている。だから買えるのだ。従業員とかファンとか、そんなに大事なものがあったのなら、何故株式会社にした? 何故株を売りだしたのか? 金ほしさに売ったのは誰だ? もし感情論を持ち出すならば、買う人間よりも売る人間の倫理を問題にしてはいかがか?
 僕自身は、投資にはまったく興味がない。金を増やそうとは思わない。それだけのことである。人のやっていることに口を挟む必要がどこにあるだろう。犯罪ならばいざ知らず。
 衆議院選後には、「国民は小泉に騙されている」という負け組側のコメントが多く聞かれた。そういう表現こそが、国民を低脳だと馬鹿にしていると考えないのだろうか。その感覚がとても信じられない。一方は「国民に問いたい。国民を信じている」と言い続けていたのだから、この差は歴然だろう。もう十年ほど、郵政民営化や消費税アップに賛成する野党の出現を強く望んでいる。
 政治・経済のコメントは、しかしできるだけ慎もうと考えている。普遍的でないからだ。
 パスカルはテーブルの上のものが取れるほど大きくなった。ずっしりと重い。身が詰まっている。

【社会】 歴史のスピード

 親父から日本刀をもらった。そんなものに興味はないのだが、捨てるわけにはいかない。東京都庁に連絡をして、ちゃんと登録の名義変更もした。これをしないと不法所持になるのかな。刀は室町末期のものらしいが、鞘は江戸時代に作られた、と鑑定書にある。今のところまだ抜いていない。錆びているかもしれない。
 子供の頃には戦国時代って、もの凄い昔のことだ、と感じていたけれど、自分が既に半世紀近く生きてきたし、一世紀近く生きている人も何人も知っている。すると、100年くらい、そんなに大層な時間ではないな、と思えてくる。社会も人間もあまり変わっていない。子供たちは、100年後というと、人間の姿形も進化した未来を想像しているようだが、そんなに変わらないだろう。科学の進歩だって想像を絶するほどではない。現に今の状況は19世紀頃に皆が予想した社会よりもずっと控えめである。
 歴史というのは、そういった時間の流れ、変化の速度を捉えることが大事だと思える。学校で歴史を習っているときは、そんなことは考えもしなかったが。
 大きな変化は、大昔の農業の発祥や産業革命を初めとする工業の飛躍だろう。
 竪穴式住居というものがあったが、あれがいつくらいまで日本に存在したのか、というと、江戸時代にはまだ普通だったし、明治になってもまだ地方には一部あったらしい。壁のある家とか、あるいは身近なものだと食器や書物とかが、庶民のものになったのは、ほんの最近のことのようだ。


2005年10月14日(金曜日)

【HR】 万年筆

 午前中出かけて昼頃戻った。秋晴れの一日。
 近頃、万年筆がちょっとしたブームらしい。そういえば、今月号の「ラピタ」にも檸檬色の万年筆がオマケに入っていた。あれは以前、丸善で本ものの檸檬万年筆が売り出されていた。かなりまえになるが、丸善で名刺交換会をしたとき、おみやげにいただいたのが、その檸檬万年筆だった。限定商品だったらしい。どこかに仕舞ってしまって、現在どこにあるかわからない。
 つい最近、叔母から万年筆をもらったばかり。でも、もう使わない。使う機会がない。あるとしたら、模型の新作の構想を練るときのスケッチくらいだろうか(サインペンの方が滑らかだが)。宅配便が届いたときのサインくらいだろうか(シャチハタで済むが)。
 大学生になったときなどに、僕らの時代、贈りものは万年筆だった。パイロットとか、パーカとか。今は何を贈るのだろう。時計かな。
 「万年筆」とか「万年床」からわかるように、「万年」は、常に使える状態にあることを示すようだ。そのわりに便利な電化製品が名前に「万年」を冠さないのは、やっぱりすぐに故障してしまうからだろうか。地球環境のために、長く使い続けられるもの、という意味で、「万年自動車」とか「万年住宅」とかを売り出してはいかがだろうか。
 『100人の森博嗣』(文庫版)のゲラを読み終わった。解説は俳優の松田悟志氏にお願いしていたが、今夜原稿が届いて、読ませてもらった。やっぱり、小説分野以外の人の方が面白い。読者だって、小説分野以外の人が多いわけだから、解説(この言葉が変だが)も、いつもできるだけ外の人に、とお願いしている。明日、担当のI子氏がゲラを取りにくるので、(文庫化に際しの)あとがきも1800文字ほど一気に書いた。
 母屋は半分くらい白くなった。まだ下地処理の段階だろうか。スバル氏は「診療所みたいで格好良い」との評価。今のところ工事は天気に恵まれているが、明日から雨かもしれない。

【算数】 ツルカメ算

 ツルカメ算というものがある。連立2元方程式を解くための手法だ。ご存じの方が多いとは思うが念のために解説すると、たとえば、「ツルとカメが合わせて10匹いる。足の数は全部で28本あった。さて何匹ずついるか?」という問題である。
 X+Y=10と、2X+4Y=28の2式から連立方程式を解くわけだが、こういった代数を使わないで考える。「もしツルの足も4本だったとする。すると、ツルとカメは同じく4本足なので、10匹いれば足は40本あるはずだ。しかし実際には28本。そこで、1羽のツルを2本足に戻すと、2本だけ足が減る。差は40−28=12なので、12÷2=6で、6羽のツルを2本足に戻せば数が合う。だから残りの4匹がカメである」というわけだ。
 この「ツルも4本足だとする」とか、「ツルの足を2本に戻すと」といったあたりが、シュールで恐ろしく、算術はほとんどホラーだ。これは冗談ではなく、論理とはこのような恐ろしさを本来持っている。
 現実問題として、ツルとカメを合わせて数えることはない。普通はツルを数えて、カメを数える、というように最初から分けて認識するだろう(ツルは羽だし、カメは頭で数える)。また、足の数を見境なく数えるのも極めて不自然である。
 しかし、たとえば、こんな場合に利用できる。「明日の誕生日パーティに7人の友達が来る。みんなのために果物を買いにいった。お母さんがくれたのは500円。お店へ着くと、リンゴは80円、ミカンは60円だった。リンゴを7つ買うと560円なので足りない、ミカンを7つ買うと420円なので余ってしまう。いくつずつ買ったらぴったりになるだろう?」
 もっとも、賢い子ならば、翌日取り合いの喧嘩になるかもしれないので、友達用にはミカンを7つ買って、残りで自分のためにリンゴを1つ買うだろう。こういった優れた解は、方程式でもツルカメ算でも出てこないことがままある。


2005年10月13日(木曜日)

【HR】 短編と短編集

 爽やかな晴天。今日もペンキ屋さんが来て一日ごしごし壁を磨いていたらしい。ペンキ屋さんは親子2人。こういった職人と呼ばれるような職業が2代、3代と続くことは、とても素晴らしいと思える。
 1月の短編集の最後の1作をのんびり書いている。今週中にはちょっと無理か。執筆しているとき、いつも思うことは、「さあ、今はまだ練習だけど、再来年くらいには期が熟すかもしれない、そろそろブレークしようか」である。
 短編は好きだ。特に、短編集が好きだ。同じ作者の作品が並んでいると、その振幅が大きくて面白い。ミュージシャンもアルバム(今はLPではなくなったが)が好きだ。「この1曲を」と用意されたものよりも、広がりがある。逆に、大勢の人の作品を集めたアンソロジィ(この言葉を知ったのは作家になってからだが)はそれぞれが、「この1作で勝負しよう」となるため、まとまりがありすぎて、面白くない。人と競うことも芸術家の場合はマイナスだと感じる。落語だって大喜利が一番つまらない。
 光文社の方が4人いらっしゃったので、そんな話をした。ジャーロにまた「ZOKU」の続編を書く、という打ち合わせ。微妙に続編にはならないと思う。
 来年の出版予定が次々に決まりつつある。自動車雑誌の取材を受けることにした。中公の『大学の話をしましょうか』がもう重版。
 8月だったか、自著の発行部数が700万部を突破した。2001年に300万部、2003年に500万部の記念パーティをしている。今度は750万部でやるのか迷ったが、結局700万部で、中途半端だが11月に開催することになった。この数字は、漫画、海外翻訳本、アンソロジィ、専門書などは含まれない。招待するのはそれらの本を作った担当者で今年は31名に案内を出す予定。
 庭の万年紅葉が、今年は何故か夏からずっと緑。不思議だ。しかし、毎年決まった時期に決まった色から決まった色へ変化するという方が、むしろ不思議か。

【理科】 植物の教え

 前回のつづき。
 雑草というのは、何をもって雑草なのだろう、と理解していなかった。雑草の特徴は、あっという間に成長するが、すぐに枯れてしまう、ということだろう。ずっと枯れずにいれば、それほど嫌われなかったかもしれない。また、雑草は、地上部が大きくなっても、地下部が小さい。すぐに抜けるようだ。このあたりに雑草らしさがある。
 一度枯れた部分は二度と緑にはならない。枯れかかった茎から緑の葉っぱが出たとしても、新しい緑の茎が先に伸びたとしても、枯れかかった部分は緑には戻らない。こういう部分が、いつまでも残ってしまう。しかし、リストラできない。
 秋の落ち葉が目立つのは、そのあと枝に葉がないから。初夏の落ち葉は、秋より量が多くても目立たない。それは枝にすぐに新しい葉が出るから。つまり、地面ではなく、枝を見て、人は落ち葉を評価している。
 どんなに無限に見える落ち葉も、一枚一枚拾っていくと、思いのほかすぐになくなってしまう。湯水のごとくあるものはこの世にない。すべてが有限。
 いずれも、他分野へ応用ができる傾向である。


2005年10月12日(水曜日)

【HR】 足の裏サロンパス

 一日よく晴れていたようだ(無関心)。ペンキ屋さんは、今日は2人で、母屋の半分の壁を磨いた。まだ塗っていない。庭師さんがまた測量にきた。ホームセンタへまた行った。10円で買える木材の破片というか半端ものが一番の狙いめ。けっこう大きくて厚い合板が見つかったりする。
 ホームセンタのペットのコーナに子犬がいる。小さな部屋に一匹ずつ入れられている。金魚くらいなら、ああいった売り方もありかと思うけれど、犬や猫は少し違うと思う。やはり、まずお腹の大きな母犬に会いにいき、母犬をよしよししてあげることから始めるのが、礼儀かと。なかなかできないことだが……。
 スバル氏と昨夜論争になったのは、サロンパスを足の裏に貼っても効くか否か、という問題。僕はアンメルツで試したことがあるが、全然すっとしなかったので、効かないと考えたのだが、スバル氏はもの凄く気持ち良いと主張。足の裏の皮の厚さが違うようだ。こういうどうでも良いことを書けるのが日記や水柿君シリーズの醍醐味である。
 写真は、つい最近庭に設置したオブジェの上の水溜。スバル氏が選んだもの。ガラスビーズも彼女の趣味。クリックすると写真が大きく見られることに、皆さん気がつかれているだろうか。

【国語】 主語を省く

 「受け身」というものがあって、たとえば、「私はそれを赤いと思う」を受け身にして、「それは赤いと思われる」と表現する。英語だと、「be considered」なんかが、論文でよく出てくる。主語を消すと、少し上品になる。あまり、私、僕、俺、と表にしゃしゃり出ない方がハイソな感じなのだろう。受け身と敬語が同じ形なのも、理由があったはず。
 「貴方がこれをしてくれたら、私は嬉しい」という状況を、「していただけると嬉しい」と表現する。「していただける」のも「嬉しい」のも主語が「私」なので流れが良い。ところが、「していただくと嬉しい」と言ってしまうと、なんかもやっとする。それは、「していただく」のは貴方で、嬉しいのは私、というように主語が入れ替わって目まぐるしいせいだろう(たぶん)。
 「していただくと楽しいですよ」は、楽しいのが貴方になるので、若干自然だが、「貴方は楽しいですよ」は少し押しつけがましい言い方に聞こえる。「していただくと楽しめるかもしれません」と流すのが良いか。しかしこれを、「していただけると楽しいです」と言ってしまうと、「していただく」のは私になるので、楽しいのも私に聞こえる。言われた相手は「おまえが楽しくてもな」とむっとなるだろう。
 こういった難しさを避けるために、最後に、「思います」とか「存じます」を加えると曖昧にできるかもしれない、と思います。


2005年10月11日(火曜日)

【HR】 どこを狙うか

 今日から工事。母屋の外壁、デッキ、ガレージ、その他の修繕をする。10日ほどかかる見込み。庭園鉄道もこの間、一部の線路を撤去するため運休。
 読んでいるゲラは、『100人の森博嗣』の文庫版(予定より1ヶ月繰り上がり、11/18発行予定となった)。自分が書いた古い文章を読むと、「このときからもうこう考えていたのだ」と思い出す一方で、全然進歩(あるいは変化)がないな、と感じる。子供のときからずっと同じことを言い続けてきたのではないだろうか。きっと、言っていることを聞いてもらえない、という思いが強かったのだろう。そんな気がする。
 それから、『赤緑黒白』文庫版(11月中旬発行予定)の解説が届いた。お茶大の菅聡子先生にお願いしてあったもの。なるほど、わかる人もいるのだな、と思う。そういう人に対しては、くどくどと同じことを言わなくても良いのだな、と反省する。難しい。どのあたりを狙えば良いのか……。
 もちろん、弓矢のように1つのベクトルに絞るものではない。創作とは多様である。同時に複数の的が狙える。しかし、少なからず無駄が出ることも確か。
 たとえば、いままで幾つか小説を書いたが、どの本も例外なく、「この作品が一番好きです」という感想をもらう。また、どの本も例外なく、「この作品が一番駄作ですね」と非難される。読み手の広がり(ばらつき)は大きい。しかし、そもそも本を手に取ってもらえた、というだけで、既にほんの一握りの、極めて特殊なごく一部の人たち、なのである。読まない人の方が何千倍も多い。少なくともいえるのは、これまでと同じものを書いていては、届く先はまったく広がらない、ということ。いずれ、もう少し詳しく書こう。

【理科】 電子レンジ

 数年のおつき合いであるが、模型で知り合った井上昭雄さんという人がいる。模型の神様的な存在の方だ。つい最近知ったのだが、日本で最初の電子レンジを作った技術者。最初にそれを利用したのは国鉄の食堂車だった、という記事も読んだ。
 結婚した頃には、まだ一般的な電化製品ではなかったけれど、数年後にはかなり普及していた。最初は、スバル氏がクイズかなにかの応募で、電子レンジを当てようとハガキを50枚くらい書いていたことがある。数学の確率が不得意だったようだ。
 電子レンジは、電波をものに当てて、分子を振動させて熱を生じさせる。電波が箱の中から出ないように、透明ガラスのドアにもよく見るとシールドの網がある。電波というのは、えたいのしれないものだが、たとえば、光は電波の一種だ。光で温めるものもある。地球だって、太陽の光で暖まっている。ちなみに、黒い色は光を吸収しやすい、とよくいうけれど、そうではなく、光が吸収されるから黒く見えるのだ。
 分子によって振動しやすい周波数があって、電子レンジは水に周波数が合わせてあるため、水分が一番温まりやすい。水気のないものは温まりにくい。もっとも、食品で水気がないものはほとんどないが。
 ケータイが普及し始めた頃、それが人体に与える影響を心配する声があった。ケータイの発信する電波がすぐ近くの頭脳を温めないか、というような心配。それは、出力と周波数による。影響がまったくないわけではない。アマチュア無線をしていた中学生の頃、強力な送信機のアンテナの近くへは近づかないようにと注意された。髪の毛が白くなってしまったという話も聞いた。嘘ではないと思う。もう今の世の中、どこも電波でいっぱいだ。もし光よりも低い周波数の電波が目で見えたとしたら、きっと夜も眩しい輝きに満ちているだろう。


2005年10月10日(月曜日)

【HR】 映像読み

 休日らしい。また雨だった。スバル氏が出かけたので、留守番。昼寝をしたり、雑誌を読んだり。あまり工作はできず。修理ばかり少しだけ。
 ホビィルームのGゲージ(線路幅45mmの鉄道模型)て遊んだ。パスカルがすぐ近くにいる。機関車が警笛を鳴らすと、籠もった声で吠えて身構えるが、飛びついたりはしない。躰が大きくなって架線の下を潜るときに電信柱が揺れて傾くから、あとで直さないといけない。いつか通れなくなるだろう。今のうちだ。
 12月の文庫のゲラが届いたので、午後はそれをさっそく読んだ。小説以外の文章は比較的速く読める。100ページほど進んだ。小説の場合は、場面を展開するのに時間がかかる。おそらく、数時間で一冊の小説を読み切ってしまう人たちの多くは頭の中で映像を展開していないのだろう。そういうテキスト読みが小説の読者には多い。映像読みの人は、すべてのシーンを展開するのに時間がかかることにくわえて、テキスト読み系の作者が書いた文章だと、ちっとも上手く映像展開できないことで疲れてしまうため、小説を読まなくなる傾向がある。
 稀に、速読しても映像展開ができる天才もいる。おお、それは凄い、と感心する。そういう人は例外なく、小説を書いているし、例外なく大作家だ。
 そうそう(大作家で思い出したわけではないが)、「吉本芭娜娜デス!」というメールをすぐにいただいた。なんか、琵琶法師が揶揄されて狐狸庵の細道を行く憂鬱な子持ち柳葉魚か助惣鱈くらい「なめんなよ!」という漢字。いっとき、博嗣のシの字を説明するとき、「喫茶嗣瑠琵亜(シルビア)のシ」と言えば通じた時代と地域があったことが懐かしく思い出されて蜃気楼の新日本紀行。
 連休中、娘が里帰りしていたので、数日間食事が豪華だった。と書くと、娘が料理が上手い、と想像されるかもしれないが、そうではない。スバル氏が娘のためにいつもの十倍くらい力を入れるためである。

【社会】 竿竹屋は何故潰れないのか

 最初に断っておくが未読である。だから、勝手に考えてみよう。まず、最初にいいたいのは、「竿竹屋が潰れないという前提が何故あるのか」を疑うべきだということ。おそらく、ほとんどの竿竹屋は潰れていると思われる。何代も続いているだろうか。製造業としては成り立っても、販売だけでは無理だ。このように、「何故潰れないのか」と問題提起することによって、実は潰れている現実を隠す手法が一般に多い。
 「どうして我々がこんなに汗水流して、一所懸命がんばっているかわかりますか?」と涙ながらに訴える人は、だいたい汗水流していないし、それほどがんばっていないものだ。
 世の中に潰れない商売はないし、いつかは必ず潰れる。長く持ちこたえるか短いか、のいずれかだろう。ある竿竹屋が潰れて、あるいは竿竹製造業が潰れて、品物をただ同然で引き取った人が、いわゆる多く観察されるところの竿竹屋になるのかもしれない。そうなると、元手が0に近いため、利潤が極めて大きい。売っただけ利益だ。そして、売り切ったところで、廃業すれば良い。
 繁華街でもない住宅地の細い道に面した小さな貸店舗に、ときどき名前だけ洒落た高級ブティックが開店したりする方が、竿竹屋よりはよほど不思議だ。やたらに花が沢山届いていたりするし、「店を持たせてやる」というアルコール混じりの声が聞こえてきそうな気もするし。それに比べれば、竿竹屋など謎のうちに入らない。


2005年10月09日(日曜日)

【HR】 中国語に訳す場合

 昨日書いた台湾・香港の翻訳本のつづき。送られてきた見本の中に折込広告が入っていた。綿矢莉莎氏の『Install未成年載入』とある。ほとんど同じ絵の表紙だが、微妙に顔が中国系になっていたりして、感嘆。
 綿矢氏は日本では「りさ」だが、そうか、名前がひらがなの人は、中国バージョンの漢字を考えないといけないのか? それとも勝手に当てるのだろうか? 今度よしもとばななさんにきいてみよう。
 同じ折込に金原睛(ちなみに、目偏に青と書かれていたが)氏の名前もあった。しかし、ひらがなのルビが「かわはらひとみ」になっている。間違っているなあ。大らかだなあ。ローマ字で書いたら良いのに。
 それから、東京生まれのことを「東京人」と書くようだ。そうか、それは「日本人」「地球人」と一貫していて好ましい。
 名前の英語表記で、日本人は何故か姓と名を逆にする習慣がある。戦争に負けたからではなくて、そのまえからだ。しかし、あまり良い習慣とは思えない。できればやめた方が良い。僕は、自分の名前は、「MORI Hiroshi」と書くことにしている。姓を前にする。ただ、Moriがファミリィネームだとわかるようにすべて大文字でMORIと書く。近い将来、この表記が一般化するように願っている。
 秋晴れ。朝は庭で1時間ほど落ち葉拾い。それから出かけて昼頃戻る。午後はペンキ塗り、洋雑誌読み、資料調べ(研究方面)など。「次に犬を飼うときは、散歩は全部に君の役なのだ」と主張していたスバル氏なのに、夕方リードをつけてパスカルを散歩に連れ出そうとしていた。しかしパスカルは行きたがっていないため、門の外に出たら歩かなかったらしい。スバル氏はリードのせいにしていたが、一般によく観察される「気持ちを道具のせいにする」現象である。
 パスカルは後ろ足を後方へ投げ出す、いわゆる「オットセイ伏せ」をする。これは、森家ワードなので、「いわゆる」といわれても誰も心当たりはないと思う。大きくなったらしなくなるだろうか。できればいつまでもしてほしいものだ。ちなみに、顔は怪傑ゾロリのパターン。

【算数】 計算しない症候群

 なかなか仕事が進まないとき、「こんなペースじゃあ一生かかってもできない」とか、「こんなことしてたら一晩かかるぞ」といった愚痴が聞かれるが、それを聞くたびに、瞬時に計算をして、「いや、一生はかからない」とか、「このペースなら午前3時頃には終わる」と言ってくれるロボットがいたら和むだろうか、ますます険悪なムードになるかもしれない。
 よく計算するのは人間の一生。だいたい3万日くらいだ。この数字は、たいして多くはない。たとえば、毎日10円を貯金しても、30万円だ。3000万円の金があれば、毎日1000円使える。このように同じ数を足す行為は変化に乏しい。当たり前か。
 同じ数を繰り返してかける場合は、もう少し劇的に変化する。たとえば、前日の2倍の貯金を毎日していく。つまり、1円、2円、4円、8円……と。すると、1ヶ月で1億円を超える。1年も続かない(世界中の金を集めることになるだろう)。人に金を貸すだけで銀行や大きな会社が成り立っているのは、このメカニズムだ。
 ちょっと計算すれば、結果がだいたい予測できるのに、それをしない人たちが多いように見受けられる。わずかな計算さえすれば、大損をしないで済むことが多い。「そんな計算どおりに世の中はいかないから」なんてわけのわからないことを言う。計算どおりいかないのは、ちゃんと計算しないからだ。


2005年10月08日(土曜日)

【HR】 金儲け

 一日中雨。体調が少し悪かったので午前中2時間ほど寝直し。工作を諦めて、こういう体調の優れないときは執筆でもするか、ということで3時間で15000文字ほど書いた。ちなみに、これまでに、作家として稼いだ金額を執筆した文字数で割ると、1文字が100円ちょっとになる。
 「金儲け」という言葉は、だいたい悪い印象で使われているが、この意味はつまりほとんど「仕事」と等しい。仕事以外の金儲けも稀にあるが、金儲けしない仕事はありえない。「いや、全然儲かりません。赤字なんですよ」という商売人もいるけれど、赤字ならどうして今すぐにやめないのか? それは、生活費などがそっくり経費として計算されて赤字になっているためだ。あるいは、投資を一時的な赤字と表現しているにすぎない。いつかは儲かると信じているから仕事を続けているのである。基本的に、金儲けのためにみんな朝から会社に出勤しているのだ。
 しかし、たとえば大金持ちになったりすると、自分が生きていく一生分の金を既に持っている。そうなると、もう儲ける必要などない。しかし、それでも仕事は簡単にはやめられない。何故か。それは、自分の周りに仲間がいる、自分を頼っている部下がいる、関連企業もある、つまり、まだこれから儲けなければならない人たちがいるからだ。そういった人たちのために義理が生じる。こうしてみると、金持ちというのは、人のために働いていることになる。税金も普通の人の何百倍(もっとか?)も払っているはずだし、方々へ寄付もしなければならないし。一般に、「あいつら、金儲けのためにやっているんだ」と陰口をたたく人間の方が、むしろ自分だけのための金儲けに必死だ、ということにお気づきだろうか。
 欧米では、金持ちはイコール社会に貢献している人、という一般認識が日本よりも浸透している。だから、成功して金持ちになって、人のためになる人間になりたい、と考える。何故か、日本の場合は、金儲けは悪いことをしているようなニュアンスが今まではあった。しかしこの頃、なにかというと「セレブ」という言葉に置き換えて金持ちが登場しているようだ。金儲けに対する日本人のトラウマが解消されてきた兆候といえる。
 写真は、外国で翻訳されている自著。もっとあるが、探せなかった。中国版の『封印再度』は、『再度封印(発音:ザイ ドゥ フォン イン)』というというタイトルだったのを、中国語として不自然でも『封印再度』にしてもらうようお願いした。日本語だって「封印再度」は不自然なのだから。

【国語】 「すぎ」の用法

 少しまえからだが、「面白すぎ」「美味しすぎ」というように、単に強調の意味で「すぎ」が会話で使われるようになった。もともとは、「行き過ぎて逆に困った状況」を評価したニュアンスがあったのだが、今はそれがすっかり消えている。
 でも「食べすぎ」とか「遊びすぎ」のように動詞につくときは、まだ否定的なニュアンスが残っているはず。否、わからない、「よく食べた」という意味で「食べすぎました」と言っている若者もいるかもしれない。コミュニケーションに気をつけよう。
 「食べ過ぎを気にしなさすぎ」というような複雑な用法もある。否定に「すぎ」がつくと難しい。「食べなさすぎ」があるなら、「食べすぎなさすぎ」もありえるか。どう意味が異なるか考えるのが面倒なさすぎなくもない?
 「私にはできすぎです」が謙遜にならなくなるし、デキスギ君が非の打ち所のない優等生になってしまう。ようするに「すぎたるは、及ぶがごとし」であって、世の中なにかと頭打ちになっている影響といえなくもない。


2005年10月07日(金曜日)

【HR】 日記らしいことも

 午前中は秋晴れ、午後は雨。天気予報はインターネットに頼っている。地域限定で何時間後に雨が降るか、かなりリアルタイムでわかるため、電車をいつガレージに仕舞うか、という判断に欠かせない。
 お客様があって、秘密の話をした。中公のN倉さんも来て、電車を運転していった。庭師さんが雨の中、庭の測量をしていった。モビリオの後ろのドアが内側から開かなくなって、マニュアルを読んだがわからず。でも、ドアを開けたところにある小さなスイッチを切り替えたら開くようになった。チャイルド・ロックらしい。4ドアって、こういう面倒なことがあるのか。今までの人生で、後部座席にドアがある車に乗ったことがないので。
 外国で出版された自著翻訳本の見本が2冊届いた。先日、台湾へ行ったときも書店で自分の本を見かけた。かなり格好良い装丁。日本語が絵として表紙の背景に使われているのだが、誤植があった。折り込み広告も誤植だらけだった。大らかである。
 これまでの経験では、誤植は、表紙や目次、それから奥付に多い。どうしてかというと、ここはデザイン部が作るかららしい。デザインの人にとっては、文字は単なる絵なので、似ている形の全然違う文字が使われたりする。英語のスペルはたいてい間違っている。デザイン的には、影響がないからだろう。その価値観はわからないでもない。でも、目立つところだから、もう少し気をつけたら良さそうなものだ。
 仕事の話を書くと、今月は、短編を2作書かなくてはいけないスケジュール。このほか、エッセィの連載が1つ。日記公開後、というか休暇明け後、読者からのメールが爆発的に増えた。10月は、仕事始めなので、スローペースでスタートしているつもり。
 写真は、スバル氏のプランタ急増のポーチ。庭園鉄道は晴れていれば毎日運行。中央の遠くに見える白い家が、昨日書いたモルタル塗りの模型新作。

【理科】 アルコール

 蒸気機関車の模型を何台か持っている。形だけ蒸気機関車で、実はモータで動く電気機関車、というものは除く。つまり、本当に蒸気の力で動くおもちゃだ(ライブスチームという)。たぶん、30台以上あると思う。燃料には、石炭やブタンガスやアルコールを使う。ガソリンは使わない。
 アルコールは、そう、理科の実験で使うアルコールランプに入っている液体。においは消毒液のような感じ。蒸発が早い。床にまいても、すぐに消えてしまう。アルコールを持った男が「火をつけるぞ」と店員を脅した、というニュースをあまり聞かないのは、値段が高いからか、買う場所が限られているからか。子供の頃、ガレージの床(コンクリート)にこぼしたアルコールに火をつけてみたことがある。見えにくくうっすらとした青い炎が上がって、たちまち燃え尽きた。火遊びはいけないことだが、三度くらいしてみないと、火の大きさ、速さ、つまり危険さはわからない。さすがに、ガソリンに火をつけたことはない(否、模型飛行場のバーベキューのときやったかも)。あれは恐そうだ。灯油は火がつかない。灯油を持った男が店に押し入っても、それほど恐くないと思う。
 アルコールは、この頃は、量販のドラッグストアで買っている。子供の頃は、なかなか売ってくれなかった。危険だからか、それとも、飲むといけないからか(そうそう、メチルとエチルとあるのだった。思い出したぞ)。「最近、簡単に買えるな」と思ったら、そうかもうすっかり大人になっていたのだ。


2005年10月06日(木曜日)

【HR】 象と技

 秋晴れ。清々しい。欲をいえば昼はもう少し涼しくても良い。夜は今くらいがベスト。大正の頃は今より3度以上寒かったわけだから、温暖化の影響は小さいような大きいような。親父は大正生まれだから、「昔は寒かった?」と尋ねると、「よく覚えとらん」と答える。
 この頃、モビリオをよく運転する。親父が乗っていた(というか、親父のために僕が買った)のだけれど、もう年寄りで危ないから、免許の更新を断念し乗らないことになったので、代わりに乗ってあげている。大きいし、ドアが沢山あって便利は便利。ナビもついているから、いつも走る町の地名とかもわかる。この塀の向こうは何があるのだろう、と抱いていた疑問も解消。しかし、どうも動きが緩慢で、象に乗っているような気持ちになる。サーカスに出ているみたいな感じ。町なかを、大きなRVが走っているが、あれも象に乗っているように見える。機敏に走る車種のはずなのに緩慢な車は、運転手が象なのだろう(象が人間に乗っている可能性もある)。

【社会】 ガソリンの値段

 ガソリンが最近値上がりして話題になっている。しかし、僕が大学生のときは、もっと高かった。一番高いときは1リットル150円くらいだったと記憶している(調べていないのであやふや)。だから、もう20年以上、「ガソリンって安いなあ、まだまだ沢山あるんだなあ」と思い続けてきた。子供の頃には、「君たちが大きくなる頃には、石油は枯渇する」と威されていた。耳にタコができるほどでもないし、耳が痛くなるほどでもないが、それなりに頻繁に聞いた。
 このまま値上がりして、150円くらいになったとしても、でも、まだ安いと思う。何故かというと、自動車の燃費がずいぶん改善されたからだ。同じ1リットルでも長く走れるようになっている。つまり、実質的にガソリンの能力が上がったことに等しいから、同じ値段でも安い、と判断できる。
 このように、技術の進歩は、原料の性能を引き上げることが可能であり、また「知る」ことによって、ものの価値が上がったり、下がったりする。「情報」というものが価値を持ち始め、値段がつくようになるのもこの道理。
 お弁当も安くなっている。それ以上に美味しくなっている。そういう意味では、昔の(特に売られている)食べものは、もの凄く高かった、ということになる。技術が進歩することで、豊かになり、値段が下がる、というわけ。
 僕の人生は今のところ、前半はインフレで、後半はデフレだ。


2005年10月05日(水曜日)

【HR】 見本が2冊届く

 10月の新刊のうち2冊が午前中に宅配便で届いた。中央公論新社の『大学の話をしましょうか』と、日経BP社の『森博嗣のTOOLBOX』である。自分自身、小説を滅多に読まない方なので、このような小説以外の自著は少し嬉しい。本を開いてページをめくったり、少し読んだりする。誰かにあげようか、と考えたりする。そういうことは小説の場合はない。
 著者には「見本」というものが通常10冊届く。封を切って、1冊を取り出して、しばらくデスクの近くに置いておく。これは読者からのメールで誤植などの指摘があるので、それを確認するためである。残りの9冊はそのまま仕舞われる。人にあげたりすることは滅多にない。そういう人が周りにいない。周り以外でもいない。重版があると、その見本が2冊か1冊また届く。最初のうちは、ちゃんと整理して並べていたが、今はもう駄目だ。このように自著の見本は、既に千冊以上、森家に存在していて、どこに何があるのか、把握できない。
 自著以外にも深刻なものがある。出版社から、他の作家の本が送られてくる。もちろん、著者自身から送られてくるもの多数ある。これも尋常な量ではない。たとえば、講談社ノベルスなどは、ほぼ全冊送られてくるから、全部溜まってしまう。いや、迷惑だと言っているのではない(言っている気がするが)。
 あまりいないのだが、ほんのときどき、森家へ来る友人の100人に1人くらいは、小説を読む人間がいるので、そういう人に、「好きなものを持っていって」と頼むことにしている。だが、小説を読む人って、そんなにいないのだ。日本人の1%もいない。それに、趣味に合う本が100冊に1冊もない。トータルの確率は天文学的な数字になる。
 まえに住んでいた家は、そういう本で埋まってしまった。スバル氏は読書家だが、自分で買った本しか読まないし、そっちも尋常な量ではないほど蓄積しているので、相乗効果となる。その家は、そのままにして逃げ出してきた。今もそのまま。
 今日も一日雨。秋雨で冷たい。書斎の窓から見下ろした夕方のポーチ。

【国語】 作文について

 子供のときに読書感想文というのがあって、あれが実にくだらないと、子供心に感じた。だから、絶対に本当のことなど書かなかった。いい加減に書いて、つまり、先生が喜ぶようなことを書けば褒められた。実際に、それで賞状をもらったこともある。ああ、くだらない思い出。
 本を読んで、その感想を文章にすることは、自分の考えをまとめる、という訓練としては、そこそこの価値がある。気持ちというのは、なかなか他人に伝達できないものだから、その局所的なものを一般的にする行為は価値がある。しかし、そもそも、人に伝えたい、という気持ちがまず大切であって、「わかってもらいたい」という動機がなければ、文章はけっして良くはならない。その気持ちがない状態で書けば、ようするに入試の小論文に見られる、おきまりの構成、テーマ、常套句の嵐になって、読めるけれど、意味のない文になる。そういったものをいくら書いたところで、それは文章を書けることにはならない。
 それよりは、この頃の流行のブログの方が、少しはましだと思う。誰ともわからない相手に(そんな者はいないかもしれないのに)、気持ちを伝えようと前向きになってアウトプットする素直さは、非常に平和的で、社会的で、そして善良である。
 自慢したいことや、同情してほしいことや、知ってほしい気持ち、褒めてもらいたい行動、そういうものが誰にもあって、それをこれほど公的かつ私的に(つまり遠いけれど身近で)書けるシステムは今までなかっただろう。この際だから、読書感想文なんかやめて、ブログを学校の先生が読めば良いのではないか。


2005年10月04日(火曜日)

【HR】 人に合わせて生きる

 おそらく自分の特性だと、薄々気づいているのだが、人に歩調を合わせることが大の苦手だ。自分だけでなにごとも進めたい。人と組まなければならない事態になることも少なくないけれど、たいてい良い思いをしない。分担を決めても、自分の領域だけを片づけて、あとは放っておく、というわけにいかない。結局、いらいらして、口を出すか、手を貸すか、ようするに不本意な仕事をする羽目に陥る。
 できれば、そういうことをしないで生きていきたい。そのためにはどうすれば良いか、ということばかりを考えてきた。それなりの努力と犠牲によって、かなり一人だけで仕事をできるような環境を作り上げたと思う。でも、ときどきそうもいかないことがあって、がっかりするのである。
 この日記をWEBダ・ヴィンチで公開することは半年以上まえから決めてあった。打ち合わせもした。こちらは早めに考え、コンテンツも決めてあった。でも、公開のブログのソフトがようやく完成したのが9/30で、テストの結果、使えず。別のソフトを急遽インストール。そのテストが可能になったのが、昨日くらいで、今それを試したところ。そもそも基本的なテストは、開発者がすべきことではないか? 何がそんなに難しいのか。ようするに、既成のソフトをカスタマイズするレベルの作業がテクニックとして仕事になっているこの頃である。今回も、少しデータを増やしてテストしたら、バグが出てくる。もちろん、すべてが正常に動いたとしても、言葉の表現やレイアウトのデザインなど、細かい部分で直したいところが山ほどあった。今が8月下旬だったら、ちょうど良い仕事運びだと個人的には感じる。
 こういうぎりぎりの仕事をしている人たちが多数派であって、ああ、やっぱり人と組むんじゃなかったな、と溜息をもらし、自分の判断が間違っていたと後悔するばかり。どんどん心配性になっていくだろう。仕事ではこんな思いばかりしてきたので、多少は慣れたものの、人と関わらないで自分一人で生きられたらどんなに幸せだろう、と今も夢見ている。
 今日は午後から雨。でも、ホームセンタへやっぱり行った。パスカルはカートに乗せて、店内にも一緒に連れていく。

【算数】 数字は役に立つ

 算数や数学の知識が日頃役に立つことは稀である。しかし、自分でものを作ると、たちまち数字を使い、計算せざるをえなくなるだろう。たとえば、ピタゴラスの定理などは寸法を割り出すときに頻繁に使うわけで、このときには、どうしても平方根を求めなければならない。電卓があれば簡単だが、ないときは、筆算でルートを開くか、あるいは、かけ算を繰り返して見当をつけるか、いずれかである。実物大の図面が引ける場合は簡単だが、縮小した図面しかないときには、乗算と除算は避けられない。少し複雑なものを設計する際には、方程式も必要になるだろう。
 ものごとの予測にも計算が基本となる。今日した仕事を振り返り、一週間後にはどこまでできるかを想像する。それを3日で片づけるためには、どうすれば良いかを考えることができる。計算とは、つまり未来予測、そして事前対処の能力といえる。
 あるいは、手もとに現物がないものを、数字によって把握することができる。現物を持ってきて突き合わせなくても、わざわざ出向かなくても、いろいろ比べて対処ができる。
 このように幾何学は設計にはかなり重要だ。これは古来変わらない。また代数も、微積分などは、会社の勢いの把握で、前年度比などを意識する場合に登場する。確率も実生活で重要で、変なものに手を出して損をしないための基礎知識といえる。まあ、どうも役に立ちにくいのは、複素数くらいではないだろうか。
 ところで、計算能力はまったく別物で、小学校低学年の算数は単に頭のトレーニングをしているにすぎない。応用問題というものが登場して、ようやく算数が本領となる。つまり、現実の問題を数式に置き換える、という抽象化こそが重要だ。すっかり抽象化した世界の数学は、数学者に任せておいても良いだろう。
 算数の視点とは、結局、そのような抽象化の力、現実の把握能力の起点に等しい。


2005年10月03日(月曜日)

【HR】 ぎりぎりの仕事

 今日もホームセンタへ行った。もう6日連続くらい。スバル氏がまたガーデニングに燃えだしたからだ。花ではなくて、葉っぱ系。それを寄せ植えしている。毎日、直径が30cmもある鉢を3つずつくらい買ってくるから、玄関の前は非常に通りにくくなった。いずれ枯れるものもあるだろうから、無限に増えることはないと思って気を紛らせている。庭仕事をしているときは、パスカルがずっとスバル氏について歩いているのが微笑ましい。トーマではありえなかった光景である。
 このように、事前に大まかな計画さえなく、その日その日で思いついたものを買いにいき、その日のうちに仕事をしてしまう、というやり方も、スローライフで楽しいかもしれない。趣味の場合は、王道ともいえる手法だ。
 一方では、出版社の雑誌などの仕事を見ていると、ほんとうにぎりぎりである。3号さきのこと、半年さきのことを考えているようには思えない。森博嗣は、3ヶ月以内に締切がある仕事を引き受けない、ともう5年ほどまえから公表している(HPの出版社向けのページに正式に書いたのは1年ほどまえか)が、それでも毎月、1ヶ月以内に締切がある仕事の依頼が平均5件ほどある。もちろん、すべて丁寧にお断りしている。締切が2ヶ月さきというものは、ほとんどない。余裕があることが、この世界では「悪」なのだろうか、と勘ぐりたくもなるほどだ。

【社会】 高齢化社会

 高齢化社会や少子化、などがよく聞かれる。少子化は、人口を減らさなければならない現代において当然の方向性であり、何故あんなに問題にするのかわからないが、まあ、若い人が減ると活気がなくなる、という問題はある。それは、その分、年寄りががんばるしかないだろう。若者が減ったら、老人を養えない、という不安があるとしたら、そもそも、大勢の若者によって支えられるようなシステムに問題がある、と見るべきである。
 ところで、老人が一人暮らしをすると、コンビニへ行ったり、インスタント食材を利用することになるだろう。ところが、コンビニも、インスタントものも、何故か若者のものである、という認識が企業側にまだある。たとえば、カップ麺など、どうやって作れば良いのか、あの小さな文字のわかりにくい説明を老人に読めというのだろうか。コンビニのおにぎりの封の開け方だって年寄りには無理だ。スパイシィで量の多いものが多すぎる。だんだん、自分も年寄りになってきたので、こういった心配をしているのかも。


2005年10月02日(日曜日)

【HR】 シェルティがいっぱい

 平和公園でシェルティとコリーのコンテストがあったので、見学にいってきた。可愛いシェルティがいっぱい。コリーもいっぱい。最近はブルーマールという白と灰色と黒のぶちが流行らしい。パスカルと同じトライ(黒・茶・白)も沢山いた。写真はコリーのブルーマール(両側)とトライ(中央)。

 スバル氏は、茶色のセーブルを見るとどれに対しても「トーマそっくり」を連発。全然似ていなかったけれど。シェルティは本などによると「無駄吠えが多い」と言われている。トーマは確かによく吠えた。ところが、このコンテスト、100匹くらいいるのだが、声はほとんど聞こえない。連れて行ったパスカルも全然静か。写真は暑いからお水をもらっているところ。カフェオレを飲み、なめらかプリンを食べたわけではない。

【理科】 植物から学ぶこと

 昨年、庭園大工事をしてから、ガーデニングらしきことをするようになった。それまでは、庭にはまったく興味がなかったし、植物にも関心はなかった。花も好きではない。スバル氏も同じだった。それが、庭園鉄道を始めて庭にいる時間が増えたせいもあって、少しずつ見様見真似で楽しんでいるこの頃。スバル氏は、トーマがいなくなってから、花を植えるようになった。
 雨が降っていなければ、毎日、庭に1時間以上はいる。あちこちを眺めている。すると、だんだん草木のことがわかってくる。名前は知らない。調べたこともない。植物を観察して感じたことは、やはり、同じ生物、つまり、動物に似ているな、ということ。若いときの美しさ、花を咲かせる直前の勢い、その後の安定、そしてあっけない死。いろいろなことが学べる。
 小学校の理科の時間には、固有名詞ばかり覚えさせられた。そんな知識はどうだって良いと思う。たとえば、プランタの植物に肥料を与えるのは、それが弱り始めてからでは遅い、一番勢いのあるときに肥料が必要だ、ということなどは、そのまま、人間や組織に適用できる真理である。綺麗だけれど、咲いたばかりの花を切ることで、その植物がもっと成長することがある、なんてのも、役に立つ手法である。こういった「教え」は、現代では理科ではなくて社会だろうか……。しかし、もともとは、物理も化学も生物も、そこに役に立つ普遍的な真理を見つけようとした洞察と発想だった。


2005年10月01日(土曜日)

【HR】 ひさしぶりの日記

 子供の頃にも日記はつけて続いたためしはなかったし、大人になってもそういった習慣はないのに、インターネットのサイトでかつて日記を始めたら、これが5年も続いて5冊の本になった。今まで書いてきたどの著作よりも、その日記が自分では一番の力作だと思っている。最初から、出版するつもりで書いたから、つまり仕事としてやったから続いたと思う。でも、マンネリを感じて2001年でいったんやめてしまって、そのときは「ああ、もう書かなくて良いのだ」と本当に嬉しかった。きっと、小説をやめたら、同じくらい嬉しいだろう。
 さて、日記をもう一度書いてみることにした。今回も仕事として書くし、出版物になる予定だから、続くだろう。前回は、「ネットの日記を本にするなんて」という目で見られたけれど、今では普通になった。もの凄い大勢の人がネットで日記を書いている。いったい読み手はいるのか、と不思議。そういう話はまたそのうちゆっくりと……。
 今日は、午前中はひとりで出かけてお昼頃戻った。それから3時間ほど工作。そのあと、スバル氏とパスカルと3人でショッピング。夕方はガーデニング。少々肉体疲労。気候が良いのでつい無理をしてしまうのかも。10月に予定していた仕事を9月に前倒しで片づけたので、少しゆったりしている。
 まあ、とりあえず、今回は「ですます調」はやめて、簡潔に書くことにした。別に怒っているわけではないので。あと、一人称を「森」で書くか、「僕」で書くかも迷っている。森で書くと、客観的で明快だが、森へ行ったときにややこしくなる。
 写真は、いつも小説を書いているガレージ2階の書斎のデスクトップ。ノートパソコンを3台同時に使っているが、そのうち1台は、つい最近、大きなディスプレィを接続した(本体は蓋を閉じ、おもちゃがのっている)。だから、15インチ、17インチ、22インチの3種類になった。このうち、執筆をするメインは一番小さいマシン。

【国語】 「中」がつくと変な感じのもの

 休暇が終わったわけだが、これまでは「休暇中」だった。これは変だろうか? 人によって違うと思うが、この頃は、「考え中」とか、「故障中」とかも、普通に使われるようになったから、許容範囲かも。もともとは、「中」は「〜する」「〜をする」という動作を行っている最中である、という意味に使われる。「休暇をする」や、「考えをする」とかは言わないので、「中」が後ろにつくと違和感がある。「休暇中」は「風呂中」と同じくらい変だ。「休息中」ならOK。でも、「期間中」という使用例もあって、これに準じていると考えられなくもない。また、「故障する」は言うけれど、「故障」は動作ではない。状態を表しているものだから、「故障中」と書かなくても単に「故障」で意味が通る、というわけ。これって、もうあちらこちらに書かれていることだと思う。
 「考え中」が広まったのは、平成教育委員会という番組のせいらしい。普段でもよく耳にする。しかし、「食べ中」とか、「遊び中」とか、「歩き中」とかはあまり聞かない。「ワープロ中」は、「ワープロする」を使う人には普通。
 英語だと、「ing」がつくつかない、というのに似ているかも。でも、ちょっと変な語感だから、印象に残って広まることも多い。これは、英語も同じらしい。ちなみに、「ガーデニング」は和製英語ではない。

| 2005年11月 »