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戦史FAQ(ナポレオン戦役以降)
戦史FAQ目次

 【Link】

「ウェリントンの将軍たち ナポレオン戦争の覇者」(マイケル・バーソープ著,新紀元社,2001.9)

「新ナポレオン奇譚」(G.K.チェスタトン著,春秋社,1984.6)

「トラファルガル海戦物語」(ロイ・アトキンズ著,原書房,2005.11)

「ナイルの海戦 ナポレオンとネルソン」(フォアマン他著,原書房,2000.6)

「ナポレオン」(アンリ・カルヴェ著,白水社新書,1979)

「ナポレオン 獅子の時代」(長谷川哲也著,少年画報社,2003.10)

「ナポレオン戦争全史」(松村劭著,原書房,2006.1)

「ナポレオン年代記」(J.P.ベルト著,日本評論社,2001.4)

「ナポレオンの軽騎兵」(エミール・ブカーリ著,新紀元社,2001.2)

「ナポレオン秘話」(ジョルジュ・ルノートル著,白水社新書,1991.8)

 なお,ナポレオン書院ネタとナポレオン・ヒルのネタはありきたりなので自粛

『北清事変と日本軍』(斎藤聖二著,芙蓉書房出版,2006.5)


◆ナポレオン戦役


 【質問】
 ナポレオンは暴君だったのか?

 【回答】
 最近の研究本により,暴君説が優位に立っているという.
 以下引用.

〔略〕
〔2005年〕11月末に出版されたクロード・リッブ(Claude Ribbe)著「ナポレオンの犯罪」という本によって,ナポレオン暴君説が一挙に優位に立ちました.
 リッブは黒人の著名な学者であり,フランス政府の人権委員会の委員でもある人物です.
 リッブは,ナポレオンは,人種主義的・疑似科学的理論を打ち立て,ジェノサイドを行った人物であり,ナチスの先駆者と見なされるべきだ,と指摘したのです.
 すなわちナポレオンは,フランス革命によって廃止された奴隷制を,その8年後の1802年に復活させ,また有色人種のフランス入国を禁止する法律を制定するとともに,カリブ海のフランス領のハイチとグアドループ(Guadeloupe)における奴隷の叛乱を壊滅させるために,これら両島の12歳以上の黒人は根絶やしにする方針を立て,新たにアフリカからおとなしい奴隷を輸入することにし,6万人ものフランス軍を現地に派遣し,叛乱に関与した黒人のみならず,手当たり次第に黒人を射殺し,犬にかみ殺させ,溺れさせ,毒ガスで殺し(注5),その結果約10万人の黒人を殺戮した,というのです.

 (注5)
 フランス軍は,奴隷船に黒人達を詰め込み,一晩中硫黄を燃やして二酸化硫黄を発生させて殺害した.世界最初のガス室だ.
 また,叛乱のリーダーの一人の肩にその妻と子供達の前で将校肩章を釘で打ち付けた上,その場で妻子を溺死させる,といった残虐行為を行った.
http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A25167-2005Jan20?language=printer.1月23日アクセス)
 〔略〕

太田述正コラム #985 ( 2005.12.5 )


 【質問】
 ナポレオン戦役の収支は?

 【回答】
 少なくとも短期的には,フランスにとってはじゅうぶん割の合うものだったという.
 以下引用.

 ナポレオンのフランスは,ライバルのイギリスと比べても,3分の1の税金で済んだ.
 1803年にフランス人は15.2フランの税を支払ったが,征服されたオランダ市民は64.3フランも支払っていた.
 1806〜07年のプロイセン出征時には,年間歳入の三分の1を征服地の租税で賄ったが,これには外国に派遣している軍隊からの収益は含まれていない.
 フランスとその衛星国の軍隊は,略奪を働くことも許され,さらに数万人もの住民を徴兵した.

「イギリスがフランスより財政資源と管理で優れていることを考えれば,ナポレオンが最終的に敗北するのは間違いない」
との政敵の主張に対し,ウィリアム・ウィルバーフォース<1759〜1833.イギリス・ホイッグ党の下院議員>は「アッティラ<?〜453.フン族の支配者で,ヨーロッパの広大な地域を支配>の蔵相は誰だったか」
と反駁した.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.109


 【質問】
 ナポレオン戦役において,英国が結局勝利することができた要因は?

 【回答】
 圧倒的な金融上の優越のためだという.
 以下引用.

 イギリスが誇るパワーの主な要素は金融であった.
 1690年代から1815年まで英仏両国は帝国の地位を巡って争ったが,結局イギリスが勝利を収めた最大の要因は,その「圧倒的な金融上の優越」に他ならない.
 産業革命以前でも18世紀のイギリスは比較的豊かで,経済も当時としては進んでいた.
 フランスは領土の面でも人口の面でもイギリスを上回り,1760年代のフランスの歳入はイギリスより30%も多かった.

 それでも,国家の富を引き出す上で,イギリスの金融,信用制度のほうがフランスと比べ,遥かに効果的だった.
 イギリス人は既に,1789年当時のヨーロッパで一番の重税を負担し,ナポレオンの時代までに,平均的なイギリス人はフランス人の3倍もの税を収めていた.
 ハノーバー朝の時代<1717〜1901>には歳入の60%を間接税が占め,また,1780年代までには10万社もの企業から消費税が支払われていた.

 それより重要だったのは公共信用制度である.
 18世紀のイギリスは,フランスよりも遥かに低い金利で資金を借り入れることができたのだ.
 これが可能だったのは,投資家達がイングランド銀行をはじめ,1690年代に設立された各機関を,また,とりわけ議会による金融のコントロールを信用していたからだ.
 金融制度が秩序だっていて,透明性があり,効果的でもあったので,有産階級は,自分達と同類の人々にコントロールされている国家に対して喜んで金を貸したのだった.
 対照的に,国王に金を貸すのは非常にリスクを伴ったため,結果的に高い割増し金は避けられなかった.
 イギリスは対ナポレオン戦争中に,フランス陸上帝国の資源をヨーロッパ大陸に釘付けにしておくため,同盟国に報酬を支払った.
 この戦略は1813年から14年に頂点に達したが,その莫大な資金のおかげで,ナポレオンが最終的に敗北するまで,ロシア,オーストリア,プロイセンの軍を戦場にとどまらせることが可能になった.
 1700年代から1815年までに発生した戦争の最中に,イギリスの貿易は実際に栄えたのに対し,フランスの商業や船舶は破壊され,フランスの貿易や海運業者も打ち倒されてしまった.
 さらに,イギリスの富が増し,一連の勝利を収めたことによって,イギリスの議会政体や支配階級が正当性を獲得して強化されたのも当然だった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.207-208


 【質問】
 擲弾兵、ってのは何かを投げるんですか?

 【回答】
 擲弾兵(Grenadier)というのは元々は,擲弾(手榴弾の先祖)を敵に投げつけるのを専門とした兵士のこと。
 銃を持たずに敵に肉薄するので,勇敢でなければ勤まらなかった。
 後に意味合いが変化し,ナポレオンの時代には「選抜された精鋭歩兵」の意味になった。

 擲弾は今の手榴弾よりずっと大きかった.黒色火薬だから十分な威力を求めると大きくならざるを得ない.
 そのため,これを投げさせるには,ガタイのいいのを選んで部隊を作る必要があった。
 このことが「選抜された精鋭歩兵」と言う意味の発生につながったのだった。

 それに習えと戦時中にヒトラーが歩兵を擲弾兵と名称変更することになるが,それはまた後の話。


 【質問】
 19世紀の軍事について質問です
 オーストリアの本読んでて、兵の士気についてこんな内容があったのですが
「兵士の士気が低くて散開させると逃亡する恐れがあったので、ライフル銃の導入に躊躇するほどだった」
 ・・・すいません、意味がよくわかりません(汗
 分かる方いたら教えてください.

 【回答】
 19世紀に、それまでのマスケット銃に代わってライフル銃が登場しました。
 尖頭弾、ライフリング等の新技術の導入や、工作精度の向上などによって、射程と命中精度が格段に向上しました。

 それによって、散開して敵を一人一人狙い打ちにするという戦い方ができるようになりました。
 言い換えれば、そういう戦い方をしないと、新式のライフル銃も旧式のマスケット銃と大差ないわけです。

 それをふまえて考えると(ほかの部分も読んでみないことには確かなことは言えませんが)、 ライフル銃を有効に活用するためには散開隊形をとる必要があるが、兵士を散開させると逃亡する恐れがある。
 じゃあ,ライフル銃なんか導入しても,ちゃんと運用できないよなあ……という考えで,ライフル銃の導入に躊躇した、ってことだと思います。

 上の言葉をひっくり返すと
「散兵戦術やれないならライフル無くてもいいや」
ってことになるけど、
 これは,当時のライフルは従来の銃より弾込めに時間がかかる(2倍はかかるという記述も)という欠点があったから。
 従来の集団で集団を狙う用法ではそれほど優秀でもないわけ。

 もともとライフルを用いた散兵戦術の有効性が確認されたのはアメリカ独立戦争。
 狩猟の経験をそのまま軍事に活かせるところが訓練不足のアメリカ軍にとってよかったらしい。
(ライフル銃はもともと猟銃として発展した。15世紀には既に考案されていたそうな)

(世界史板)

 【参考画像】
ハンガリー歩兵

 【質問】
 散兵戦術は対砲兵用の戦術だったのでは?

 【回答】
 確かに散兵戦術は砲兵(及び機関砲)による損害を減らせるけど、必ずしもそのために誕生したとは言い切れない。
 横隊戦術が廃れて散兵戦術のみが残った理由は,確かにそうだけど。

(世界史板)


 【質問】
 プロイセンとオーストリアの国力が逆転したのは,いつごろからか?

 【回答】
 19世紀に入ってからだという.
 以下引用.

 1740年代から1870年代まで,オーストリアの北方には最大のライバル,プロイセンがいた.
 この時期を通じて,プロイセンの潜在的な資源や歳入は,ハプスブルクよりも遥かに劣っていた.
 例えば1788年,ウィーンはベルリンの歳入の2倍,兵士の数でも50%上回っていた.
 しかし19世紀になると,ドイツ北部の経済はオーストリアよりも急速に工業化した.
 さらに重要だったのは,プロイセンが常に,オーストリアよりも軍事的・財政的資源を効果的かつ冷静,理知的に動員し,利用したことである.

 1500年から1914年まで,ウィーンはオスマン軍に2度に渡って包囲され,フランス軍に同じく2回占領され,プロイセン軍には18世紀半ばと1866年の2回,占領の一歩手前まで迫られた.
 これに対し,オーストリア軍は一度としてコンスタンチノープルやベルリンに迫ることはなく,1814年にようやくパリに入城できたのも,ロシア,プロイセン,イギリスとの同盟のおかげだった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.306


 【質問】
 ゲッベルズが45年3月に演説していた,「ポンメルンの悲劇」について,誰か教えてください.

 【回答】
 1806年ナポレオン軍によりプロイセンが蹂躙された時に,旧ポンメルン公国領だった小都市コルベルク(現ポーランド領コウォブジェグ)の住民が,フランス正規軍に抵抗した史実を指すようです.
 ゲッベルスはこのエピソードがお気に入りだったのか,それをテーマにした超大作戦意高揚映画を作っちまったそうです.
http://home.att.ne.jp/iota/aloysius/cinema/01/c_kolbrg.htm

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 ドイツは「参謀本部」というものを発明したらしいですが,

 1.これはいったい何が新しかったのか?

 2.なんでドイツはこんなものを発明しようと思ったのか?

 3.どういった面でこのシステムが有利に働いたのか?

について教えてください.

 【回答】
 1. 参謀本部の雛形が生まれたのはナポレオン戦争時代.
 当時,参謀は司令官の命令を筆記したり,命じられたことをそのまま実行する側近という存在でした.
 これに対しプロイセンの参謀は作戦の立案,補給の管理,移動計画の作成,他部隊の調整といった作業を分担して行い,司令官の負担を軽減しました.
 今では官民どこでも当たり前の,こうしたスタッフはこのとき生まれたのです.

 2. 当時プロイセンなどの反フランス勢はナポレオンという天才的司令官に翻弄され,これに対抗するためです.
 3. 共通の教育を受けたスタッフが配属されることで各地域の部隊間で意思の疎通が図られ,大勢のスタッフが分担して作業を行うことで情報や命令の伝達速度が増し,部隊の機動性が増加,司令官が決断に専念できるため,自身の本来の能力を発揮できる,などです.

 そして,後に戦争の規模がさらに拡大していくと,司令部の負担する作業が膨大となり,現在に至るまで,参謀の存在は不可欠となったわけです.


 【質問】
 トラファルガーの海戦みたいな大きな海戦でも撃沈は1隻しかないようですが、砲撃によって軍艦が撃沈されるのが普通になったのは,いつ頃からなのでしょうか?

 【回答】
 当時の砲弾は炸裂しなかったから撃沈は難しかったんだ。
 砲弾で帆柱を破壊して足を止める
→砲弾で水兵殺傷
→横付けして海兵隊を突入させて拿捕
が一般的だった。

 砲撃戦で敵艦が沈むようになったのは日本海海戦が最初だった。
 当時は『砲撃で敵艦を沈めることは不可能』だと言われていたらしい。

 当時の装甲板は砲弾より性能が良かったせいなのだが、海戦当日は波が高く,装甲化されていない喫水線下が見えてしまっていた。
そこに砲弾が命中したのだった.


 【質問】
 18世紀末〜19世紀初頭の戦列艦やフリゲイトは,なぜ砲塔式ではなく,舷側に数十門も砲を並べる搭載方式だったのか?

 【回答】
 「下手な鉄砲,数撃ちゃ当たる」に適していたため.
 以下,その根拠.

 初期の大砲には照準機能は殆どないに等しく,砲身の方向と仰角を経験的に調整し,あとは命中弾を得るまで繰り返し射撃するしかなかった.
 しかも当時の艦船は小さく,波による動揺も大きかった.
 帆船であるから高いマストや多くの索を持ち,それらに風を受けることによる動揺もあった.
 照準装置のない砲と,揺れる船体.
 これでは射撃精度に多くを期待する事はできず,砲の数を増やすことによって命中弾を得ようとするしかなかった.
 かくして戦列艦やフリゲイトは,数十門の砲を舷側に並べることになった.

 遠距離からの射撃も行われたが,これらの砲が威力を発揮するのは,外れようもないほど接近してからであった.
 当然,その距離では敵の砲撃も外れないわけで,自分が致命的な損傷を受ける前に敵の戦闘能力を奪うためにも,多数の砲が求められたのだろう.

 そのような状況では,射撃の威力は,照準よりもむしろ発射速度によって決まることになる.1門当たり数名の砲手達の装弾・装薬作業が遅れず乱れないように監督・指揮し,しかも周囲に敵弾が命中して木片が飛び散る中でも,戦意を失わずに発射を続けさせることが,この時代の射撃指揮であった.
 したがって,砲手達の作業に怒声を飛ばして叱咤し,時には鞭で脅かす掌砲下士官達が,当時の最高水準の「射撃指揮装置」だったのだろう.彼ら掌砲下士官が部下に与える訓練の成果と,部下を掌握している程度が,射撃の成果を決定したのである.

(岡部いさく from 「世界の艦船」,海人社,2003/10,p.69-70,抜粋要約)

 射撃を行う場合,艦上で目標を照準する方法は,極めて大雑把だった.照準器というものはまだ存在しなかったし,目標までの距離がポイント・ブランク距離 Point Blank Range ――砲弾が海面に落下する距離――以下であっても,非常に近くなければ目標に砲弾が当たるということは偶然に近かった.

 照準は,射手の目を砲身の中心線に平行に,砲身の外側の仮想的な線を目標まで延長することにより行っていた.この場合,砲口外径は砲尾外径より細くなっているので,仮想的な線の傾斜を補正しなければならない.
 砲尾と砲口との肉厚の差を補正するため,砲口または砲身の中心部付近にディスパート・サイト Dispart Sight と呼ばれる割れ目を入れた固定部,すなわち照星を設ける必要性が認識されたのは,比較的早い時期からであったと思われ,17世紀の砲射撃に関する数件の文献に記載されている.
 しかしながら,相手の顔が判別可能なほどの近距離での射撃では,ディスパート・サイトが一般的に使用される事は少なかった.

 18世紀頃の砲照準に使用された唯一の方法は,砲尾環に刻まれたクォーター・サイト・スケール Quarter Sight Scale を利用することだった.
 これは砲尾環に水平の位置から2-3度の仰角までクォーター度,すなわち4分の1度(=25分)毎に刻み目を入れ,この刻み目と砲口環上の一点とを結んで照準線を構成するのである.

 照準線設定後,船の動揺にどのように対処するかということも大きな問題だった.
 当時の砲は一般的に,方針は舷側の砲門から突き出ており,戦隊がロール(横動揺)すると砲身は上下する.
 砲身がほぼ水平(海面にほぼ並行)になったことを見計らって発射しても,特に火縄式着火の場合には作動遅れから,砲弾は目標より高く飛び上がったり,または海面に突入することが多い.
 砲身が下から上へ上がる場合(アップ・ロール)と上から下へ下がる場合(ダウン・ロール)のどちらの瞬間を捉えて射撃するかという問題は,18世紀初頭から議論があったらしい.
 アップ・ロール射撃は,ヤードや索具など帆装を破壊するフランス海軍の戦術に好都合であり,ダウン・ロール射撃は英海軍の船体破壊戦術に適していたと言われている.

 艦載砲や砲術をリードしていた英海軍で,砲尾環の刻み目や照準器のことが真面目に考えられ,その結果,正確な照準線を構成して砲に必要な府仰角を与えるために様々な道具が考案されるようになったのは,フランスとの戦争(ナポレオン戦争)が終結〔1815年)してからだった.
 19世紀初頭,英海軍ではネルソン海将に照準器使用が提案されたが,反応は好意的ではなく,
「我々の船はいつものように敵に十分接近するので,目標を撃ち損じる事はありえない」
というような返事であったという.
 ネルソンといえども,何らかの道具を使用して射撃命中率を上げるとか,射距離を延伸するというような事は考えなかったらしい.
 1805/10/21,スペイン南部,トラファルガー岬沖でネルソン指揮下のイギリス艦隊とフランス・スペイン連合艦隊が激突した.
 両艦隊が接近し,フランス・スペイン連合艦隊は1000ヤード以上の距離から発砲したが,当然,命中弾はなかった.
 一方,イギリス艦隊は,敵から浴びせられる砲弾の中を接近し,ネルソンの近距離射撃という戦術通り確実に命中弾を得て,大勝利を収めることになる.

(多田智彦,同 p.77)


 【質問】
 タンジェント照準器 Tangent Sight とは?

 【回答】
 多田智彦(防衛技術研究家)の解説によれば,以下の通り.

 19世紀初頭に艦砲にも活用されたと想像される照準器.艦船における砲射撃のための初めての道具と言える.

 タンジェント照準器は,砲尾環に取りつけて高さを変える事のできる金属柱である.
 金属柱の頂部(照門に相当)を砲口環または砲身長手方向のほぼ中央部(耳軸近辺)に取りつけたディスパート・サイト(照星に相当)とによって照準線を構成するが,高さを加減することによって砲の仰俯角(すなわち射角)を変化させるようにした.
 つまり,所定の高さの金属柱の頂部(照門)から目標が照準できるように,砲の仰俯角を設定するのである.

 ある種類のタンジェント照準器は黄銅製の六角柱で,その一面には角度目盛が刻まれている.
 残りの5面には,各々異なった発射薬量と砲弾種類に応じた距離目盛が刻まれている.
 射撃時には,該当する面(発射薬量と砲弾種類)の射距離目盛と第1面の角度目盛とを対応させ,射撃に必要な距離から角度,すなわち砲身設定に必要な仰俯角度を読み取るのである.

 このタンジェント照準器では,仰角5度までが対応可能だったが,それ以上の仰角が必要なときには,木製のタンジェント目盛尺を使用して,10度や12度の仰角に対応した.
 木製タンジェント照準器は,砲架のステップに垂直になるように取りつけ,船体の傾斜を示す振り子と共に使用された.
 また,今日で言うライフル・スコープのような照準器も発明され,1830年代に使用されたが,前装砲は再装填のため,砲架を前後に移動するたびに設定が狂うことが多かったので,間もなく使用されなくなった.

 タンジェント照準器使用により,海面に対してほぼ水平の位置に設定していた砲身の角度を上げて射撃するようになったということは,射距離延伸の点では大いなる前進だが,それを有効利用するためには,射撃前に目標距離を把握しておかなければならない.
 当時の目標距離測定は,自艦上から六分儀で目標艦のマストまたはその他の部分で高さの分かっている箇所を見込む角度(仰角)を測定する,自艦の艦首と艦尾から目標を見込む角度(旋回角)を測定する,または自艦のマスト上から目標を見込む角度(俯角)を測定するなど,三角法で距離を計算して求める方法が取られた.

 特に最初の方法では,目標艦の各部寸法を知っておく必要があるが,英海軍では仮想敵国フランスの各種艦船の寸法詳細を入手していたようだ.
 19世紀半ば頃の120門搭載のフランス戦列艦について,三本の帆柱各部の他,砲門など低い位置にある部分も含め,合計28ヶ所もの海面上の高さを英海軍が把握していたことが記録されている.
 この三角法を利用するという目標距離測定方法は,19世紀末に現れる目標距離測定専用装置である測距儀 Range Finder 開発に繋がるのである.

 このように射撃のための道具を利用するようになった結果,19世紀半ばにはポイント・ブランク距離より長い距離での射撃が可能になったはずであるが,トラファルガー海戦(1805年)以降は大きな海戦がなかったため,実戦での射距離記録が残っていない.
 一説によると,英海軍では1200ヤード以上での射撃が推奨されていたが,船体動揺や発砲時の煙の影響で,有効射距離はせいぜい700ヤード程度ではなかったかと想像される.

(from 「世界の艦船」,海人社,2003/10,p.78)


 【質問】
 ナポレオンの「ワーテルローの戦い」なんですが、よく
「天候がよかったら・・・」
とか
「プロイセン軍が・・・」
とか
「○○が●●だったらナポレオンは勝てた」
とかいうのを聞くんですが,プロイセン・イギリス連合軍はナポレオン軍の二倍です。どうみても勝てるようにはおもえません。
 ナポレオン軍には何か二倍の軍に勝てる秘策でもあったんですか?

 【回答】
 2倍の敵と一箇所で戦うのではなく、ナポレオンはワーテルローでイギリス軍6万を7万で撃破してから、プロイセン軍を撃破する予定だった。

 フランス軍は連合軍の半数の戦力だったが,装備や練度は連合軍より遥かに優っていて,ナポレオンは自分が勝つと信じきっていた。

 しかし、歴戦の知将・猛将の将軍達があまりにも無能になっていて,ナポレオンの思惑通りに行動しなかった。
 それと戦いの前日に豪雨が降り、兵士達は雨が降ってる外で眠れない夜を過ごして士気が低下し、かつ,フランス軍自慢の大砲も泥で使えなくなった。
 色んな原因が積み重なってイギリス軍を撃破できないでいる内に,プロイセン軍がやってきてフランス軍は壊滅。

(世界史板)


◆1816-1894年


 【質問】
 イシドロ・スアレス大佐とは?

 【回答】
 1824年,ペルーのフニンの激戦で有名を轟かした軍人.
 独立間もないアルゼンチンを20年近く支配した独裁者ロサス将軍の又従弟.

 ちなみに作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスの母親レオノルは,このスアレス大佐の孫.

(J. L. ボルヘス Borges 「伝奇集」,岩波文庫,1993/11/16, p.265)


 【質問】
 「33人のウルグアイ人」とは?

 【回答】
 ウルグアイ史における最大の英雄達である.
 1825年,ラバジェ将軍に率いられた彼らは,ウルグアイ川を渡ってブラジル側の大軍を繰り返し撃破し,その支配を逃れた.
 彼らは独立してオリエンタル州臨時政府を結成したが,後にリオ・デ・ラ・プラタ州連合に加わった.

(J. L. ボルヘス Borges 「伝奇集」,岩波文庫,1993/11/16, p.256訳注)


 【質問】
 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題の歴史的経緯を教えられたし.

 【回答】
 ドイツという国は,19世紀に諸邦が寄せ集まり,最終的にPrussiaの主導の下,統一を果たした訳ですが,四方に紛争地を抱えていました.
 南部は二重帝国,
 東部はポーランドを巡るロシアと二重帝国,
 西部は言わずと知れたアルザス・ロレーヌを巡るフランスとの争い,
 そして北部は,シュレスヴィヒ・ホルシュタインを巡り,デンマークと争っていました.

 今でこそデンマークは小国に甘んじている訳ですが,19世紀には世界中に植民地を保有していたりした,それなりに強国に数えられた国でした.

 元来,シュレスヴィヒとホルシュタインは別の国で,前者はシュレスヴィヒ公国,後者はホルシュタイン伯国(1474年以降公国)でしたが,シュレスヴィヒは中世初期からデンマークの支配下にあり,ホルシュタインはドイツ人が多数派で,神聖ローマ帝国を構成していました.
 これらの地はシャウムブルグ家の支配の下,同君連合を結んでいましたが,1459年にシャウムブルグ家が断絶した事で,デンマーク国王がシュレスヴィヒ公爵とホルシュタイン伯爵を兼ねる事になります.
 但し,前者はデンマークが支配し,後者が神聖ローマ帝国支配下にあったのは変わりません.

 1806年に神聖ローマ帝国が崩壊し,ウィーン会議の結果,ドイツ連邦が成立しますが,デンマーク国王は,ホルシュタイン公としてドイツ連邦に参加する事になります.

 1848年,ドイツで三月革命が勃発すると,デンマークはシュレスヴィヒを併合を宣言しますが,キールの臨時革命政府は両公国のデンマークからの離脱とドイツ連邦の加盟を目指し,1848〜50年の第一次スリースウィー戦争により,ドイツ連邦軍はデンマーク軍をシュレスヴィヒから排除する事に成功します.

 しかし,英国とロシアの干渉で,1852年にロンドン議定書が締結され休戦に持ち込まれ,両地域は現状維持となりますが,1863年3月に議定書を破ってデンマークは再びシュレスヴィヒの領有を宣言します.

 18世紀以来,デンマーク王家はドイツ語を使用し,ミサや学校,裁判に於てはデンマーク語を使用していただけで,行政用語はドイツ語でした.
 この二重言語状態は,シュレスヴィヒ・ホルシュタインでも同じです.

 ところが,1839年に即位したクリスチアン8世は,1840年に官房令を発布し,行政語をデンマーク語にすると共に,官吏にもデンマーク語の使用を義務付けます.
 但し,デンマーク語の使用に慣れない官吏も多く,一旦ドイツ語で書いた文書をデンマーク語に翻訳して使用する事も認めていました.
 これに反発したのが弁護士達で,1841年に結局裁判用語に関してはドイツ語の儘とする通達が出されました.

 次の国王フリードリヒ7世の治世になると,シュレスヴィヒ長官ティリッシュによって,ドイツ人地域にもデンマーク語の使用を徹底する事になり,1850年ドイツ人教育のギムナジウムにデンマーク語を命じ,ドイツ語の個人授業も禁止,教会語もデンマーク語化を進め,牧師候補生にもデンマーク語の能力を要求します.

 1863年,ロンドン議定書違反を理由として,デンマーク(国王は連邦構成員の一人)に対する連邦制裁を決議し,12月にザクセンとハノーファーの軍隊がホルシュタインを占領,1864年1月にはオーストリアのプロイセン連合軍がシュレスヴィヒを占領し,3月にはユトランドにも侵入して6月にはこれを完全に占領します.
 ドイツ連邦の構成諸邦は,アウグステンブルク公を君主とする両公国の独立を主張しますが,オーストリアとプロイセンは,ロンドン議定書の堅持を目的と主張し,結局10月のウィーン講和条約で,デンマークは両公国をオーストリアとプロイセンに割譲します.

 以後は両公国は両大国の共同管理下に置かれ,1865年8月のガスタイン協定でシュレスヴィヒはプロイセンの,ホルシュタインはオーストリアの統治下に成りますが,それから1年も経たない1866年に勃発した普墺戦争で勝利したプロイセンは,両公国を自国に組み込み,全体をプロイセンの州として扱う事になります.

 先にデンマーク語教育をしていた両地域は,今度はドイツ語教育に方向転換する事になり,学校査察を行って授業の様子を細かく報告されると共に,師範学校の再編成でドイツ化の拠点とします.
 行政・裁判言語も,二重言語状態からドイツ語オンリーとなりますが,教会言語のみ,都市部ではドイツ語化が簡単だったのですが,農村部では住民の生活に宗教が深く食い込んでいた為,簡単には行かず,堅信礼はデンマーク語,ミサは午前中はドイツ語だが,午後はデンマーク語とするという緩和措置が行われています.
 最終的に,1888年のAnweisung für den Unterricht in den nordschleswigschen Volksschulen(北シュレスヴィヒ言語教育令)によって,デンマーク語を排除し,ドイツ語化の徹底が図られる事になった訳です.

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争のデンマーク陸軍

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月07日21:11


 【質問】
 ハンガリーとハプスブルク家との間の独立戦争(1848-49,直訳すると『自由の戦い』)はなぜ起きたのか?

 【回答】
 フランス2月革命の余波がハンガリーに押し寄せ,ハプスブルクはそれを潰そうとしたことから.

 1848年、フランス二月革命。ヨーロッパを覆った革命の波は,改革の努力をただちに法的に実現させるための、またとない可能性を提供した。
 1848年3月3日、 たまたま1847年以来開会中であった貴族議会において演説したコッシュート・ラヨシュは、ハンガリーの完全な自治を要求。
 1848年3月15日には、ブダペストにおいて青年達のデモが行われ、議会は農奴の解放、法の前での平等を宣言。政治的自由が実現され、ハンガリーとエルデーイの両貴族議会にかわって、統一された国民議会が設立されたのである。
 1848年3月31日、ハプスブルク家はハンガリーが独立の内閣を持つことを認めた。その結果、バッチャーニを首相とし、蔵相コッシュートを実質的な指導者とするハンガリー内閣が成立,ペシュト・ブダに中央政府が置かれる。
 こうしてハンガリーはハプスブルグ帝国の枠内で完全な自立性を達成し、ハプスブルグの大公の一人、イシュトヴァーン副王を国家元首に迎えたのである。

 このコッシュート・ラヨシュ Kossuth, Lajos (1802-1894)は現オーストリア領のMonokの生まれ.
 彼は,議会審議を取り上げる手書きの新聞を発行し、1841年からはペシュト・ヒールラップ紙の編集者として、ハプスブルグ帝国内では最初の近代的政治ジャーナリズムを生み出した。
 1847年には,彼は小地主層を代表する民族運動者として下院議員に当選、下院の自由主義勢力は革命的な性格を強めたのである。

 しかしハプスブルグ宮廷と,その周囲に集まった軍人達は、旧来の中央集権的封建権力の喪失を受け入れることが出来なかった。
 彼らは,ハンガリー国内で,少数民族を抑圧したため、国内での民族対立が激化していたことを利用。1848年9月、イェラシッチ・クロアチア知事を動員し、クロアティア人・スロヴェニア人の武装勢力をハンガリー本土に侵入させ,そして、法的根拠を無視しつつバッチャーニ政府を辞任させた。
 ハンガリー議会は,法律に定められた諸権利に依拠しつつこれに対抗し、執行権力を『全国祖国防衛委員会』(コッシュート・ラヨシュが委員長になった)の手に委ねた。
 彼らは武力攻撃の撃退に成功した。
 しかし1848年10月、ウィーン政府がハンガリーに対して宣戦を布告。ヴィンデッシュグレーツ司令官指揮の下、ハプスブルグ帝国で動員可能な全兵力10万名以上がハンガリーに殺到。ハンガリーのマジャール化政策に反発していた少数民族も,ウィーン政府につく。
 1849年1月、オーストリア軍がブダペシュトを占領する。
 ハンガリー立派は、コッシュートを首班とする臨時革命政府を組織して,デブレツェンへ首都を移し,抵抗を続けるのである。

 1849年の早春までにデブレツェン政府は兵力の集結に成功、反攻に転じた。
 1849年4月19日、ハンガリー国会がハプスブルク家の王の廃位を宣言。コッシュート・ラヨシュを執政に、セメレ・ベルタランを首相に選出。
 1949年5月21日、コッシュートを指揮官とする臨時革命政府軍がブダペストを奪還。
 さらに,奥軍は優秀な若き指揮官ゲルゲイ・アルトゥールによって国外に叩き出され,エルデーイも、ポーランド人のベム・ヨージェフ司令官によって解放される。

 こうした中,ハプスブルグの反革命指導者達は、妥協を模索するよりも、むしろ外部からの援助によって、ハンガリーを抑えつけるといる意思を固めた。
 彼らの呼び掛けに応え、十分な準備の後,1849年6月、20万名のロシア干渉軍がカールパート山脈を越えた。パスキエヴィッチ大公司令官に率いられたロシア軍とハイナウ司令官指揮下のオーストリア軍からなる大軍勢は,ハンガリーの抵抗を打ち砕いたのである。
 1849年8月13日、軍司令官ゲルゲイ・アルトゥール指揮下のハンガリー臨時革命政府軍は降伏。ここにハンガリーの独立運動は失敗に終わった。
 ハンガリー臨時革命政府軍の指揮官13名と政府を主宰していたバッチャーニ・ラヨシュは処刑。コッシュート・ラヨシュはオスマン帝国へ逃れる.
 1849年以降、ハプスブルグ帝国はハンガリーから法的自立性を剥奪し、そこを占領地として扱いつつ、絶対主義的に統治された統一的ハプスブルグ帝国に融合した。
 抑圧とドイツ化政策に対しては、ハンガリー国内では静かないわゆる消極的抵抗が広がり、国外では,コッシュート指導下の政治亡命グループが活発に活動した。

 ピンチの後にチャンスあり.
 1859年、イタリア独立戦争が起こり,ソルフェリーノの戦いにおいて、オーストリア軍はフランス・イタリア連合軍に敗北。オーストリア帝国内の諸民族は、イタリアの動きに刺激され、再び自治を求め始めた。
 同年、ハンガリーの独立に執念を燃やすコッシュートは、フランスにおいてナポレオン3世と秘密会談を行い、同盟を模索した.が,成果は得られず.
 しかし1866年、今度は普墺戦争においてオーストリアがプロシアに敗れた。
 ここでハプスブルグは,遂に妥協に追い込まれる。1860年代にいたると、かつて『反逆者』と呼んだハンガリー人達と妥協を模索するようになったのである。ハプスブルグを交渉の場に引き出したデアーク・フェレンツ指導下の自由主義者達は、1848年の諸成果の大部分を再び回復することに成功した。彼らが譲歩したのは、事実上、国家の独立性の点だけであった。
 1867年のいわゆる
『妥協(Kiegyezes)』
 はこうしてもたらされ、この体制がハプスブルグ帝国最後の数十年間における枠組みを決定した。

 この結果ハプスブルグ帝国は、同ランクの2首都(ウィーンとブダペシュト)を有する二極構造の二重制国家連合に変わった。
 フランツ・ヨーゼフは,戴冠式をマーチャーシュ教会で行なった。
 各首都には帝国構成国(オーストリアとハンガリー)各々の議会が置かれ、統治者は、ウィーンで採択された法律には皇帝として、ブダペシュトで採択された法律には王として署名した。
 法律は二つの別々の政府によって執行された。
 ただし、外交と国防が共同であり続けた他、もちろん経済の基本的土台(関税、通貨、経済秩序)も共同であった。

 コッシュートは、なおもハンガリーの独立および市民的自由という,彼の理想を辛抱強く運動し続けながら、アメリカ,英国)およびイタリアで人生の残りの45年を過ごし,追放者のまま亡くなったのだった.

http://www.europe-z.com/tabi/hu199605/h06.html

http://www2.gol.com/users/huembtio/intro/intro_4.htm

http://hungaria.org/projects.php?projectid=7

 【質問】
 ハンガリーとハプスブルク家との確執は,いつ頃からなのか?

 【回答】
 これは古くからあり,トルコによるハンガリー占領時代には対トルコ戦略を巡って,ハプスブルグ支配地域とエルデーイ(トランシルヴァニア)公国が対立した他,1707-1711年にはラコーツィ・フィレンツ2世の軍が,ハンガリーにおける王位回復を目指すハプスブルク軍と戦っている.
「600人以上の少女を殺し,処女の生血の風呂に入った」
と伝えられる「血の伯爵夫人」エリザベート・バートリにしても,最近の推測では、彼女の密かな反ハプスブルク、親トランシルヴァニア政策のために幽閉されたものとされる。

 『ハンガリー大百科事典』(アカデミー出版、1994)には,バートリ・エルジェベト(エリザベート)は以下のように紹介されている.

 エチェディ=バートリ・エルジェーベト (ecsedi Bathori Erzsebet)。
 1560年、サボルチ県 (Szabolcs varmegye) ニールバートル郡 (nyirbatorijaras) ニールバートル村 (Nyirbator ) 生れ、
 1614年8月21日、ニトラ県 (Nyitra varmegye) ヴァーグーイヘイ郡 (vagujhelyijaras) チェイテ村 (Csejte) [現在スロヴァキア共和国東スロヴァキア道 (Zapadoslovensky kraj) トレンチーン郡 (Tren inokres) チャフティツェ村 ( achtice)]没。

 エチェディ=バートリ・ジェルジュ (ecsedi Bathori Gyorgy)(1571年以降生) とショムヨーイ=バートリ・アンナ (somlyoi Bathori Anna) の娘。バートリ・イシュトヴァーン (Bathori Istvan) (1555〜1605)の妹、ナーダジュディ・フェレンツ (Nadasdy Ferenc) (1555〜1604) の妻 (1575年より)。

 結婚により5人の子供(2男3女)を生む。
 娘のアンナ (NadasdyAnna) は高名な詩人のズリーニ・ミクローシュ (Zrinyi Miklos)の叔父のザラ県知事ズリーニ・ミクローシュ (Zrinyi Miklos)の妻となる。
 娘のカタリン (Nadasdy Katalin) はホモンナイ=ドルゲト・ジェルジュ (Homonnai Drugeth Gyorgy) の妻となる。
 バートリ・エルジェーベトは早く夫を亡くし、その後未亡人として城と数百ホルドの領地を含む荘園を管理し (1 hold=1,600ネージセゲル=約0.57 ha)、外国を渡り歩く学生らの援助をした。

 一部の資料によれば1609年にベンデ・ラースロー (Bende Laszlo)という名前の貴族との再婚を望んだが、彼女の遺産の自分らの取り分を心配する親戚らによって妨害されたという。
 この時から彼女に対する中傷誹謗攻撃が始まる。
 従兄弟のバートリ・ガーボル (Bathori Gabor) が,彼を失脚させようと謀るウィーン宮廷の一部の勢力との対立を深め、対ハンガリー戦の準備を進めていた1610年12月30日に,バートリ・エルジェーベトは、彼女がチェイテの城で農奴の若い娘らを拷問に掛け、一部の者を殺害せしめたという容疑で逮捕された。
 裁判の記録によれば彼女は精神に異常をきたし、それらの殺人を行なったということになっている。

 これらの告訴を最初に考え出したのは副王トゥルゾー・ジェルジュ (Thurzo Gyorgy) であった。
 1611年1月にトゥルゾー副王が裁判長を務める裁判所は彼女の無実を証明しようとした従僕を断頭の刑に処し、2人の女中を焚刑に処し、バートリ・エルジェーベト本人はチェイテの居城に幽閉した。
 彼女は貴族世論や国王の支持を取り付けて再審を求めたが、副王はこれに抵抗した。
 バートリ・エルジェーベトはほどなく不可解な状況の下で死亡した。

 その後伝説は彼女を血で湯浴みをする怪物として描くようになった。
 しかし最近の推測では遺産相続人のいないまま未亡人となった彼女は政治的な理由による思想的な領地裁判の常套手段の犠牲者であり、彼女の密かな反ハプスブルク、親トランシルヴァニア政策のために幽閉されたものとされる。
 彼女が犯したとされている犯罪のうち、確実に彼女の犯行だと証明されたものは1件もない。

 彼女を描いた有名な文学作品には
ファーイ・アンドラーシュ著『2人のバートリ・エルジェーベト』(Fay Andras: A ket Bathori Erzsebet) (1827)、
シュプカ・G著『呪われた女 (Supka G.: Az atkozott asszony) (1941)
などがある。

 参考文献:
 レクサ・D『バートリ・エルジェーベト』(Rexa D.: Bathori Erzsebet)(1908)、
 ナジ・L『悪名高きバートリ一族』(Nagy L.: A rossz hirq Bathoryak)(1984)、
 ペーテル・K『チェイテの女城主、バートリ・エルジェーベト』(Peter K.: A csejtei varurnQ) (1985)、
 サーデツキ=カルドシュ・I『バートリ・エルジェーベトの真実(Szadeczky-Kardoss I.: Bathori Erzsebet igazsaga) (1994)。

 [Magyar Nagylexikon, III. kot., Bah-Bij, Akademiai Kiado, Budapest, 1994]

(しい坊 in 世界史板)※リンク切れ

 エルジェベート・バートリの娘の嫁ぎ先を見ると、クロアチアの大貴族ズリーニ家があるんですが、こことナーダシュディ家は謀反の容疑で同じくクロアチアの大貴族フランコパン家ともども当主が処刑されています。

 トルコから国土を奪還して後のハプスブルグ家の旧来の、マジャール貴族への締め付けは相当なものだったようで、対トルコ戦の英雄であったズリーニ・ミクラーシュ(シゲトヴァールで玉砕戦をやった人の孫、優秀な軍人で詩人)が首謀者となった独立運動が起きます。
 不幸にしてミクラーシュは狩猟中の事故で死亡(手負いの猪に襲われた)し、弟のペーテルが後を継ぎますが、発覚し処刑されてしまいます。
 ペーテルの娘がラコーツィ・フィレンツ1世の妻で、後にクルツ軍(対ハプスブルク反乱軍)の将テケイ・イムレの妻になり、今はウクライナにあるムンカーチの城に立て篭もる女傑ズリーニ・イロナ。
 その子がやはり反乱軍の将となるラコーツィ・フイレンツ2世です。
 ハプスブルグ家から見ると反逆者の系譜という感じですね。

(ギシュクラ・ヤーノシュ)


 【質問】
 ベム・ヨーゼフ Bem József 将軍とは?

 【回答】
 1794-1850.
 ポーランド生まれ.
 1848年の独立戦争で,コッシュートによりエルデーイ(トランシルヴァニア)のハンガリー軍の指揮官に任命される.
 当初,勝利をもたらしたが,49年,敗退し,トルコに亡命.
 彼の下で戦った国民詩人ペテーフィ Petõfi ・シャーンドル(1823-49)は,彼のことを「ベム父さん」と謡っている.

 ブダのドナウ川添いのマルギット橋と鎖橋の間には,ベム・ヨージェフ広場があり,像が立っている.

(岩崎悦子訳注「ハンガリー短編集」2,大学書林,
1990/2/20,P.139-140脚注,抜粋要約)

 ブダペスト市内にある像は,負傷して片手を吊った状態で兵士を指揮している姿です。
 戦上手で「ベムの親父」と兵士に親しまれたといいます。

http://historicaltextarchive.com/sections.php?op=viewarticle&artid=522#bem
によれば,彼はタルヌフ出身なのですね。
 ポーランド出身ならばオーストリア側についても良さそうですが...特殊な事例なんでしょうかね。

(Josef Svejk ◆z4Op9cXCnM & ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w
in 世界史板)


 【質問】
 1848〜49年にオーストリア国内が民族運動でゴタゴタしている最中、デンマーク人のDahlerupなる人物がオーストリア海軍の司令長官に就任し、以後,数年にわたり海軍の再編成に務めたようですが、彼はどのような人物ですか?

 【回答】
 Hans Birch Freiherr von Dalerup は、デンマークの海軍軍人ですが、オーストリア帝国が1848年の「3月革命」で混乱に陥り、近年領土としたベネツィアの「反乱」により、オーストリア海軍軍人約5千人のうち、帝国に忠誠を誓ったのが、わずか士官72人と水兵665人という危機的事態に陥った海軍を再建するために招請されたそうです。
 基本的に当時の帝国海軍を構成していたのがイタリア系の人間が大半であったから、当然の結果といえますね。

 1849年3月にダーラップ提督が着任して、再建に乗り出しベネツィアの反乱を8月に鎮圧しています。
 その後、1852年に皇帝の弟フェルディナント・マクシミリアンが海軍総司令官に着任するまで、その任にあったようです。

(権兵衛さん in 世界史板)

#Hans Birch Freiherr von Dalerup 氏の略歴
1790年8月25日、デンマーク、ゼーラントのヒラーレエト産まれ。
1851年8月16日叙爵(勲功)
1872年9月26日、コペンハーゲンにて没(best: 同市Holmenskirche,異端(笑)
 因みに彼の二代後に「ベーメン人のカルバン派の異端」が提督になるまで,カトリックしかアドミラルになっていません。(つまりドイツ海軍史上初のエヴァンゲリック)

 父はハンス・ジャンセン(21.4.1758.〜30.1.1838)
 母はソフィーネ・マリー・ビルヒ(1767〜1799)
 妻はルイーゼ・マルガレータ(2.12.1829結婚)でデンマーク海軍少将ヨースト・ファン・ドックウムの娘
 子はハンス・ヨースト・ヴィルヘルム(27.9.1830生、9.12.1876、デンマーク金融相就任)
    イーダ・スザンネ・ソフィー・ルイズ(7.3.1833生)
    (一人夭逝)

#ベネチアの叛乱
 イタリア系ではなくベネチア系であるからで故にベネチアが翻意であった場合不服従となっただけ。
 ベネチアが他のイタリア諸邦の為に不服従(消極的抵抗)を起こした事例は私は知らない。
 現在でも,ベネチアのゴンドラ乗りが観光客相手に「オーソレミヨ」を舟歌として歌っていることを,怒りを覚えて胆忍しているのがベネチア人。

イケイケ吉野 in 「三脚檣」 BBS

シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争のデンマーク海軍
上から順にHeimdal,Niels-Juel,Rolf


眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月07日21:11


 【質問】
 第一次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1848−50)の最中に,プロイセン陸軍砲兵がデンマーク木造戦列艦「クリスチャン8世」を一撃で爆沈させたという話を聞いたのですが,本当ですか?

 それと同時に,デンマークフリゲート「ゲフィオン」が座礁してしまい,プロイセンに鹵獲されて、同名のプロイセン海軍3等巡洋艦になったとも聞きました。

 【回答】
 確かこの話は、海軍関係の「トリビア」のひとつとして有名なものです。
 詳しい資料は手元にありませんが、「陸の砲兵隊に撃沈された唯一の戦艦」 として知られていると思います。戦艦というか、戦列艦ですけどね。(陸上の砲台と撃ちあった戦艦が沈んだというのはいくつかあります。))

 後者も本当ですね。
 デンマーク海軍の帆走フリゲートであるGefionが1848年に座礁して、プロシアが捕獲、自国海軍に組み込んで、Eckernfoerdeと改名、後にGefionに再改名して1891年まで使用しています。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板)


 【質問】
 Billeデンマーク海軍提督の世界周航について教えられたし.

 【回答】
 19世紀半ばになると,欧米各国は植民地の獲得に躍起となります.
 実はデンマークもその流れに遅れまいと,東アジアに使節を送ることになりました.

 その先頭を切って行われたのが,1845〜47年に行われた,Bille提督のコルベットGalathea号による世界周航です.
 彼の使命として,政府から命令されていたのは,先ず海域や港湾の測量と言った海洋地理学的事業ですが,それ以外に,既に実態を失っていたデンマーク・アジア会社の拠点であったトランケバーとサランポーを1845年に英国に売却したので,その終焉に立ち会うこと,次が東アジアにデンマークの国旗を翻すことでした.
 因みに,トランケバーとサランポーの代りの土地として,ニコバル諸島をデンマーク領にすべく準備が行われていましたが,調査の結果,気候がデンマーク人の滞在に適さず,1848年に計画は断念されています.
 最後に,中国では新たに任命されたデンマーク領事を無事に就任させる事でした.
 当時のデンマークも領事館開設に積極的で,1825年には281カ所だった領事館は,1848年には363カ所に増えています.

 まぁ,以上4つの目的を以て,世界周航に出た訳です.

 Bille提督と言うのは,デンマーク海軍の中でも立志伝中の人物で,1848年の対独戦役の際に,勇名を馳せ,戦後は実務能力を買われて政界入りし,海軍大臣に就任して,19世紀後半のデンマーク海軍の増強に力を入れました.
 為人は威風堂々厳格な人で,後進にはその厳格さから余り好かれていませんでしたが,教養もあり,何事にも積極的な海軍軍人でした.
 1868年に現役を退きますが,1874年に行われた岩倉使節団の来訪の際には真っ先に駆付けています.

 ところが,このBille提督,非常に衝動的な人…と言うか当時,海軍軍人たるもの,独自の判断で動くべしを地で行く人だったので,当初の目的はおろか,飛んでもない事を遣って退けます.
 彼は政府に何の相談もせず,1846年8月に浦賀沖に来て,日本と交渉しようとしたのです.
 結局,日本との交渉は成りませんでしたが,次に寄航したハワイ王国では,国王と正式に通商条約を締結しています.
 これまた,政府には相談しない独断です.

 Bille提督が日本に赴こうとしたのは中国での出来事でした.
 中国では1845年に総領事Hansenが就任し,英米仏と同条件で中国での商行為に携わり,領事を置く許可を纏めました.
 そして翌年,Bille提督がデンマークから赴き,Hansen総領事が指名した3名の領事を無事に赴任させ,事務の開始を見届け,かつ,デンマーク人が列強諸国と対等の立場で商取引を行いうる許可の再確認を清から取付けることになります.

 先ず,香港領事Burdsは英国のDavis総督が許可を受けて直ぐに落着しました.

 次いで,広東領事Mathesonについては,彼がJardin & Matheson商会の社長と言う事で,香港の英国政庁が難色を示しますが,結局,英国当局が反対を取り下げ,彼は広東に赴くことになりました.
 ところが,広東では英国人と中国人の紛争が起き,銃撃事件まで発展し,騒然となります.
 英国総領事の求めにより,Bille提督は乗艦Galathea号から60名の上陸部隊を派遣し,その騒ぎを鎮圧しました.
 英国当局からは評価されたものの,収まらないのが現地政府の市長です.
 そこで彼は市長に丁寧な書状を書き,彼の面子を重んじて,彼の代理人と会う事を受容れた為,これも無事纏めることが出来ました.

 最後の上海では,領事館の用地を探す必要がありました.
 この為,外国代表と交渉権を持っていた両広総督である耆英と交渉を持ちますが,彼はBille提督が上陸部隊を送って英国を手助けしたのを嫌い,例えば,書簡に書かれているHansen総領事の国称「丹国」と,Bille提督が用いた国称「大尼」の相違などについて,徹底的に拘るなどの嫌がらせを行いました.
 結局,Bille提督が辞を低くし,事情を懇切丁寧に説明することで,耆英を説き伏せ,漸く,上海領事Duusの就任が確定しました.

 此の交渉の間,香港総領事のDavisらと語らい,極東情勢の情報を仕入れているのですが,当時流行の西洋中心主義の影響を受け,列強諸国に後れを取ってはならじと,オランダの厚い壁が壊れて北から南から開国を促されている,剥身状態になっている日本に対しても,力で交渉しようと考えたのかも知れません.

 幸いにして彼は国王から当初の計画を変更する事が可能であるとの委任状を頂いていました.
 そして,彼は日本に向けて舵を取ります.
 丁度その頃:,米国の東インド艦隊も日本に到達し,穏便に日本を去っていました.
 Bille提督が日本に来たとき,既に日本側には,そうした彼らに対応する十分なKnow-howが蓄積されていた上に,浦賀まで来たものの,野比沖に行こうとして悪天候に遭遇してしまい,結局,本土に足跡を印すこともなく終わった為,Bille提督の航海は,米国艦隊の二番煎じとしてしか受け止められていなかったりするわけです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年03月03日22:25


 【質問】
 小銃の旋条は理論上15世紀には生まれたにも関わらず,19世紀半ばになるまで一般化しなかったのは何故でしょうか?

 【回答】
 猟銃としては一般的だった。が、ライフリングに弾を噛ませる為には,銃身内径より大きな弾を使うしかない。実際には僅かに小さい弾を革で包んで銃口から装填するんだが・・・・・、そんな力仕事をしてたら毎分1発程度しか発射できない。軍用銃としてはそれほど実用的では無かった。

 ライフル銃自体は存在していたが、弾丸を回転させるには弾を銃身にしっかり食い込ませなければならず,当時の前装式の銃ではその為装填が難しかった。
 また、無煙火薬発明以前の火薬は,大量のすすが銃身内に残るので,銃身と弾の隙間が小さい当時のライフル銃では,しっかり中を掃除をしないと暴発の危険性があった。
 故に速射性に欠け、猟兵や狙撃兵等の一部に装備は限られていた。

 ところが、1852年にフランス陸軍のシャルル・ミニエー大尉が発明した『ミニエー弾』によって,ライフル銃が脚光を浴びる事になった。
 これはライフリング付きの銃身を持つ前装銃でも容易に装填できるよう、弾頭の底に窪みを設け、ここに鉄の栓を入れたものだった。
 発射時に燃焼ガス圧で鉄栓が入り込んで,弾頭の周囲をスカート状に押し広げ、ライフリングに食い込ませるというアイデア。これによりライフル銃が各国の小銃の標準になり、射程距離と命中率が飛躍的に上昇した。


◆クリミア戦争


 【質問】
 クリミア戦争の際,なぜオーストリアは英仏側についたのか?

 【回答】
 ドナウ川やバルカン半島でロシアの影響力が強まることを恐れたためだという.
 以下引用.

 1853年にロシア軍が今日のルーマニアの大半を占領し,オスマン帝国の君主に圧力をかけると,ウィーンは困った状況に追い込まれた.
 ここを流れるドナウ川は,オーストリア商業の幹線水路であり,加えて,バルカン半島でさらにロシアの影響力が強まれば,オーストリア南部国境の向かいの諸民族や各国政府に対してオーストリアが有している支配力が削がれる恐れもあった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.310


 【質問】
 クリミア戦争に英国は何故参戦したのか?

 【回答】
 とめどなく前進しているロシアのパワーを抑えんがためだったという.

 1854年にイギリスが参戦を決意したのは,とめどなく前進しているロシアのパワーを抑えんがためだった.
 クリミア戦争中,パーマストン卿は次のように述べている.
「将来のヨーロッパの平和にとって,最良で一番効果的な安全保障とは,ロシアが後に獲得するであろう国境地帯の領土,すなわちグルジア,チェルケス,クリミア,ベッサラビア,ポーランド,フィンランドをロシアから切り離すことである.
 ……それでもロシアは依然として巨大な列強としての地位を獲得するだろうが,隣国への侵略にはさほど有利な立場は保てなくなるだろう」3

 ロシアはクリミア戦争で敗北し,1856年のパリ条約では屈辱を味わった上,黒海での立場も著しく弱められた.
 しかし,それから15年の内に条約は破棄され,ロシアは自由に黒海艦隊を再建できた.
 一方,ロシアは中央アジア征服に乗り出したが,これはイギリスの警戒感を煽った.
 1891年から1902年にはロシアは極東へと急速に前進し,まさに崩壊の瀬戸際にあった中国から最大の戦利品を得るかに見えた.
〔原注〕
 3 M.B.Broxup (ed.), The North caucasus Barrier, St.Martin's Press, New York, 1992所収のP.B.Henze, 'Circassian Resistance to Russia' , pp.62-111の80ページに引用されている.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.114-115


 【質問】
 クリミア戦争でオーストリアが英仏側についた選択は正しかったのか?

 【回答】
 愚の骨頂だったという.
 以下引用.

1854年から56年までのクリミア戦争時にとったオーストリアの政策は,愚の骨頂だった.
 ウィーンは積極的に英仏側につき,ロシア皇帝に戦争の脅しをかけて,ロシアとの同盟を破棄してしまっただけでなく,その後20年間に渡り,一貫してロシアを敵に回してしまったのである.
 その間,ヨーロッパのパワー・ポリティクスに重大な変化が起こり,それらは全てハプスブルクの不利益となった.
 オーストリアが,その脅しにも関わらず,最終的には英仏の同盟国側に立って戦闘に参加しなかったことも,英仏の反感を招いた.

 しかし実際には,オーストリアがクリミア戦争で何もできなかったからこそ,英仏は,ドイツとイタリアにおけるオーストリアの突出した立場を確実に保障したのかもしれない.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.310

 オーストリアは地政学的な立場,相対的な弱さのため,大半の歴史を通じて同盟が不可欠だった.
 〔略〕

 オーストリアは1813年から14年に,主な戦勝国として頭角を現し,失った領土を奪還し,イタリアにおいて支配的な勢力となったほか,ドイツでも突出した勢力になった.
 しかし,オーストリアの対外的な関与は,今や自国の資源の限界を越えていた.
 これはとりわけ,オーストリアの財政が,20年に及んだ戦争で疲弊した上に,1815年から48年にオーストリア経済は,工業化を終えたイギリスばかりか,工業化の途上にあったドイツ北部よりも著しく遅れていたからである.

 オーストリアの地位と領土を保障したのは,主にロシアだった.
 これは,ジャコバン主義革命の脅威と,間違いなくそれに続くであろう国際的な無秩序状態――現実に1792年以降の数十年に渡る戦争で発生した――の脅威に対して,平和と保守的な安定を維持するためには,オーストリアとの同盟が極めて重要であるとして,メッテルニヒがロシアを説得できたおかげだった.
 1848年から50年には,ロシア軍がハンガリー革命に介入したことで,ロシアの保障のもたらした価値がどれだけ重要かが明らかになった.
 ベルリンがドイツにおけるオーストリアの突出した立場に挑戦するのをやめたのも,ロシアの圧力のおかげだった.

同,p.307-310

 【質問】
 当時のオーストリアは,ロシアとの同盟の重要性を認識していなかったのか?
 【回答】
 誤った「教訓」を引き出しており,認識していなったようだ.
 以下引用.
 しかし残念ながら,若き新皇帝フランツ・よぜふとその顧問が1848年の事態から学んだ教訓は,王朝を救ったのは自国の軍隊であると言うものだった.
 そのため,現実主義政策を追及し,軍事力に依拠することが,帝国としての地位を守り,国際問題において揺らいだ自信を取り戻す最良の手段だと考えた.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.310


 【質問】
 皇帝フランツ・ヨゼフ時代のオーストリア陸軍の質は?

 【回答】
 歩兵部隊の装備はフランスより優っていたが,その兵器に見合う戦術を兵士は訓練されておらず,戦略物資運搬用の鉄道もなく,司令官や参謀将校達は,戦争の様相の変化に無知だったという.
 以下引用.

 1858年から59年までの,ナポレオン3世とピエモンテ王国に対する戦争で,オーストリア軍の歩兵部隊の装備はフランスより優っていたが,
「射程を測らせたり,動いている標的に照準を定めさせたりすることは,教養のない農民徴用兵に教えるなど,とても不可能だと信じて」
いたので,その兵器に見合う戦術を兵士に訓練させることができなかった.
 1814年以降,列強と戦った経験のないプロイセンに比べ,オーストリアは1859年以降,近代戦争の教訓を汲み取ってきたと考える事もできよう.
 加えて,フランツ・ヨゼフは1866年当時,3400万人の臣民を抱えていたのに対し,プロイセンは1900万人に留まっていた.
 殆ど全てのドイツ諸邦も,オーストリア側に立って戦った.もっとも,ザクセンを除いて戦闘の効率はお粗末なものだった.

 不適切な財政状態は問題ではなかった.なぜなら1848年以降,軍部は政府のお気に入りで,しかも皇帝が決める予算の優先権を抑える議会組織もなかったため,1850年代は「かつてないほど軍事予算が拡大した10年間だった」からだ.13
 しかし,外部からのコントロールを受けない軍の高官は,軍のために思慮分別なく予算を使った.
 戦術的な訓練は無視され,時代後れになり,戦略物資運搬用の鉄道も敷かれなかった.
 そしてとりわけ,司令官や参謀将校達は,教育を受けた兵員が増加し,新兵器や新たな通信技術が生まれたことが,現代の戦争をどのように変えつつあるかについて,頭を使って考えようとはしなかったのである.
 1866年にプロイセンが勝利したのは,経済的にオーストリアより発展していたからでもなければ,ドイツ民族主義者の原則を効果的に組み入れていたからでもない.
 プロイセンの将校,特に参謀将校が,軍人としての職業について熱心に学ぶよう奨励されたからであった.

 これについて,フランツ・ヨゼフ自身も責任の一端を負わなければならない.
「軍の力は,教養ある将校よりも,忠実で騎士のような将校の中に存在する」14
と述べたのは,フランツ・ヨゼフ本人だった.
(原注)
 13 最後の2つの引用の出典は,G.Wawro, The Austro-Prussian War. Austria's War with Prussia and Italy in 1866, Cambridge University Press, Cambridge, 1996, pp.24, 38.
 14 HM, vol.V, Die Bewaffnete Macht, 1987所収のJ.C.Allmayer-Beck, 'Die Bewaffnete Macht in Staat und Gesellshaft', pp.30-31.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.312-313


◆1855〜1894年


 【南北戦争関連はこちら】


 【質問】
 テーゲトホフ※提督って,確かリッサの前にデンマークとかと海戦してませんでしたっけ?
 御存知の方がありましたら教えてください。

 【回答】
  たまたま、今日付け(2004年12月24日)のドイツの新聞、 Hamburgaer Abendblatt 紙に
「ハンブルグ市(州)が危機に陥った時、テーゲトホフ提督が救ってくれた」
という記事が載っています.
 1864年5月、デ ンマークとドイツ諸州連合とが紛争になり、「シュレスヴィッヒ=ホルシュタイン戦争」と呼ばれる戦争状態になったおりに、テーゲトホフ提督が登場し、活躍したことは確かなようです。デンマー ク海軍がドイツ北東部の海岸線を封鎖して、「ハンザ同盟」の諸都市ハンブルグ、ブレーメンなどが経済的窮地に追い込まれたとき、 はるばる地中海から遠征してきたオーストリア海軍艦隊の司令官が,このテーゲトホフ提督でした。

 彼は5月9日、エルベ河口沖のヘリゴランドという小島の沖合いでデンマーク艦隊を撃破して、「ハンザ同盟都市」および周辺の諸州を危機から救った。

  「ヘリゴランド沖海戦」でテーゲトホフの旗艦「シュバルツェンベルグ」は153発の命中弾を受けて、乗員の約20%を失ったが、2時間におよぶ海戦で戦力的には劣勢だったオーストリア軍が「勝利」したのは、その作戦 と機動性において優れていたからだったとされる。

 ハンブルグ市国はオーストリアの貢献と犠牲に感謝して、37人の戦死者の霊を祭る記念碑を建立した。そして今日にいたるもそこへの慰霊の儀礼は続けられている。
 皮肉にもこうした「ハンザ同盟諸国(当時、ドイツは統一されておらず、 小さな諸国、都市国家などの連合体だった)」へのオーストリア帝国の肩入れがプロシアとの対立の原因のひとつとなった。

 これ以上の内容は読み取るのが「大仕事」になるので、ご勘弁を。

 手元の Dupuy の The Encyclopedia of Military History でもシュレヴィッヒ=ホルシュタイン戦争の項目では、
「1864年2月1日、プロシアの皇太子フリードリッヒ・カールの率いるプロシア軍と応援のオーストリア軍がデンマーク王国のS=H州に侵入した。
 オーストリアが関与した主な軍事行動は、デンマーク海軍によるエルベ河、ウェーゼル河口域への封鎖を打破したテーゲトホフ提督の小規模な艦隊行動くらいなものであった」
と簡略に書かれているくらいですね。

(権兵衛さん)

 1864年5月9日、北海のヘルゴランド島沖で小規模な海戦があった。
 Comm.Suenson率いるデンマーク艦隊と、Comm.Tegetthoffの率いるオーストリア・プロイセン連合艦隊との間でのものであり,蒸気とスクリューで動く軍艦同士の最初の対戦であった。

 この年、デンマークはユトランド半島の付け根に当たるシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方の領有を巡って、プロイセンとその同盟国オーストリアと対立し、戦争を始めていた。
 強力なプロイセン陸軍はたちまちユトランド半島を席巻したが、海軍力で勝っていたデンマークは、島嶼部への侵攻を阻止すると共に、逆にプロイセン沿岸を封鎖した。
 劣勢なプロイセン艦隊を支援すべく、オーストリアは地中海から艦隊を遙々北海に派遣したのである。

 Tegetthoffの率いた艦隊はその先遣支隊で、蒸気フリゲートのSchwarzenberg(砲門数51)とRadetzky(砲門数37)より成り、クックスハーフェンでプロイセン砲艦三隻(うち一隻は外輪船)を加えた上、封鎖中のデンマーク艦隊と遭遇した。

 デンマーク側は蒸気フリゲートのNiels Juel(42門)、Jylland(44門)、蒸気コルベットのHeimdal(16門)の三隻で、約1時間の後、両軍とも撤退した。

 戦闘は一般にデンマーク側が優勢であったとされ、Tegetthoffの旗艦、Schwarzenbergは炎上しながらヘルゴランド島に辿り着いたのだが、デンマーク側の損害もひどく、ノルウェーの港に退却した。
 オーストリア側の戦死傷130名に対し、デンマーク側のそれは68名と約半分と人的損害はデンマークに分があったが、この戦いの結果、北海沿岸の封鎖が解けてしまったので、戦略的には連合艦隊の勝利と言うべきであろう。

 この戦争で、デンマークは国際的に孤立無援、期待した英、仏、スウェーデンの援助を得られず、遂に和を乞うて、肥沃なシュレスヴィヒ・ホルシュタイン地方はプロイセンとオーストリアの二重支配となった。

……てなことが、四半世紀以上前の世界の艦船に掲載されていました。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

 とある欧文サイトより

 シュレスヴィヒとホルシュタイン公国をめぐるデンマークとの紛争で、プロシアとオーストリアは そこを占拠しました。
 また,オーストリアの海軍はデンマーク海軍に対抗する事のできる有効な海軍力でしたが、その船はアドリア海から北海へ移動させなければなりませんでした。

 オーストリア海軍はテーゲトホフ提督の率いる汽走フリゲイト艦Schwarzenberg、Radetzkyおよび砲艦 Seehundよりなる艦隊を北海に派遣しましたが、その存在は英国人にひどく嫌がられました。
 また,報告によると、1864年4月にオーストリア艦隊が燃料補給の為に英国の港に立ち寄った時、そこの 責任者の不可解な手違いにより砲艦Seehundが座礁して大きな損害をうけたので、残りの2隻がプロシアの艦隊(砲艦3隻)と合流し、5月9日にデンマーク海軍との間で行なわれたヘルゴランド沖の海戦で有名になりました。

 この戦闘は木造艦隊同士の最後の海戦でした。そしてオーストリアはこの戦争の勝利を記念し、新たな軍艦(コルベット艦)を「ヘルゴランド」と命名しました。

 1864年8月にデンマークは,プロシアとオーストリアにシュレスヴィヒとホルシュタインを引き渡しました。
 しかしその2年後には,プロシアとオーストリアとの間で戦争が行なわれ、その結果シュレスヴィヒはプロシアの支配の下ホルシュタインと統合しました。

 久保田正志著『ハプスブルク家かく戦えり−ヨーロッパ軍事史の一断面−』(錦正社 2001年)では,簡単な記述ですが、デンマーク戦争(1864年)の中で触れられております。
「〜略〜更にオーストリア海軍のテーゲトホフ提督率いるオーストリア・プロイセン連合艦隊3隻(砲 40門)は、5月9日にヘリゴラント島沖でデンマーク艦隊(砲120門)を撃破したことで戦局は連合軍有利となり、イギリスの斡旋で5月12日より休戦に入った。[396頁]」

(ハウス)

(以上,世界史板)

 【参考サイト:図表】
「テゲトフと2つの海戦」(from 「三脚檣」)

 ※日本では「テゲトフ」表記が一般的だが,ドゥーデン発音辞典によれば,Tegetthoff /t[e:]gethof/となっているため,本サイトにおいては「テーゲトホフ」と表記する.


 【質問】
 1864年当時、デンマークが保有していた艦艇は?

 【回答】
 Screw Battleshipとして、1833年建造、1858〜60年改装のSkjold(2,550t、30ポンド砲64門)。

 Screw FrigateとCorvetteとして、
1855年建造のNiels Juel(2,320t、30ポンド砲42門)、
1858年建造のSjaelland(前者と同型艦?)、
1851年建造のThor(1,000t、30ポンド砲12門)、
1856年建造のHeimdal(1,170t、30ポンド砲 16門)があり、いずれも、一軸艦で片舷2〜12門の砲を備えていました。

 このほか、帆走艦としてWaldemarとFrederikVIがあり、それぞれ30ポンド砲30門と18ポンド砲54門を備え、
Danneborgは、30ポンド砲72門、
Thetisは18ポンド砲48門、
Rota、Havfruen、Bellonaは18ポンド砲46門、
Tordenskjoldが30ポンド砲44門、
Galatheaが18ポンド砲26門、
Valkyrienは18ポンド砲20門、
Najadenが30ポンド砲 14門、
Sagaは18ポンド砲12門がありました。

 DanneborgとTordenskjoldは後にスクリューを装備した艦になっています。
 前者は1850年建造で、3,057t、改装により1863年にスクリューを装備し、主砲を30ポンド砲72門から60ポンド砲 16門に変更して装甲帯を張って甲鉄艦に種別を変更、
後者は1861〜62年に改装を受け、同じくスクリューを取り付け、1,718t、代償として30ポンド砲を34門に減じています。

 更に1860年以降に建造されたのが、1864年に建造された甲鉄艦、Peder Skramで、3,330t、8in砲6門、26ポンド旋条砲12門を備え、装甲として4.5inの鉄を木造船体に貼り付けたもの、
そして、南部連合の発注で英国が建造中に注文流れとなった甲鉄艦を引き継いだ、4,670t、8in砲12門、26ポンド旋条砲12門の鉄船で、4.5inの装甲帯を持つDanmarkを1864年に取得しています。

 モニターとしては、68ポンド砲4門を旋回砲塔に持つ1,320tのRolf Krakeが1863年に英国で建造されており、
木造Screw Frigateとして、先に書いたJylland(2,420t、30ポンド砲44門)、
帆走Sloopとして、1861年建造のDagmar (1,175t、6in砲14門)、
1862年に英国で建造されたAbsalon、Esbern、Snare(516t、6in砲3門で2〜2.4inの装甲帯持つ)、
1862〜63年に建造されたFylla、Diana(550t、6in砲3門)などがありました。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板)


 【質問】
 なぜハンガリーは,ハプスブルク帝国の中で独自の立場を維持できたのか?

 【回答】
 マジャール人貴族の抵抗が侮り難いほど強かった他,ハンガリーで反乱が発生すれば,ハンガリーは外国の支援に頼る可能性があると,ウィーンは認識していたためだという.
 以下引用.

 ハプスブルク帝国の中でハンガリーが独自の立場を維持し,自治を守るのに成功したのは,マジャール人貴族の抵抗が侮り難いほど強かった他,対外的な地政学的要因のおかげでもあった.

 どの帝国であっても,反抗的な地方を抱えているものだ.
 中央がそうした地方への支配を強化したり,帝国の軍事力という大目標のために地方の資源をもっと有効活用したりする必要性をきっかけにして,反乱が発生する場合が多い.
 そのような圧力に地方が抵抗できるか否かは,外部の支援があるかないかにかかっている.

 この点で,ハンガリー人は幸運だった.
 ハプスブルク帝国の周りには,帝国内部の問題につけこもうとする強力なライバル諸国がひしめいていた.
 17世紀のウィーンも,ハンガリーで反乱が発生すれば,オスマン帝国の支援に頼る可能性があると認識していた.
 オスマンは当時,歴史的に続いてきたハンガリーの大半を支配し,ハンガリー人の支配するトランシルバニア公国も,その傘下にあった<トランシルバニアはオーストリア・ハンガリー二重帝国に編入されるまで,オスマン君主の宗主権を認める独立公国だった>. 
 1790年と1860年代には,ハプスブルクの集権化に反対するハンガリー人は,プロイセンからの軍事援助まで保証されていた.
 1790年と1867年にウィーンがマジャール人に譲歩したのも,こうした危険を承知していたからだった.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.319-320


 【質問】
 歴史的出来事の陰に「この電報による一文あり!」な例が知りたいのですが…(あの 電報により○○戦争は終結した,みたいな…どんな文だったかも知りたいです.)

 【回答】
 1870年の普仏戦争のきっかけとなった,エムス電報事件という例があります。
 ビスマルクが,国王の静養先から打電された文から単語をいくつか抜いて、ベルリンからマスコミ各社に打電した一文,
「(プロイセンの)国王(皇帝だったかもしれません)は(フランス)外交官(大使だったかもしれません)との謁見を拒否した」
 これで、普仏戦争が始まってしまいました.

 エムス電報事件の詳細はこちらに.
http://www.tabiken.com/history/doc/C/C118C200.HTM

 張本人のビスマルクの人となりはだいたいここに書いてあります。
http://taweb.aichi-u.ac.jp/doitsugo/files/2003/okada.pdf

「はてな」


 【質問】
 セルビアとベルリン会議について質問です.
 セルビアは1878年ベルリン会議で,ニシェといった地域をオーストリア・ハンガリーの援護によって獲得していますが,なぜオーストリア・ハンガリーはセルビアの拡大を支持したのですか?
 セルビアはオーストリア・ハンガリーにとって「目の上のコブ」では無かったのですか?

 <補足>
「ハプスブルグ帝国衰亡史」という本では,オーストリアがベルリン会議でボスニア・ヘルツェゴビナを管理したのは,ロシアやセルビア,汎スラブ主義から守るためだとあります.
 しかし「バルカン史」という本では,
「セルビアはベルリン会議でロシアに冷遇され,オーストリア・ハンガリーの後押しによって,ようやくニシュなどの南方の領土を拡張した」
「これによってセルビアは外交的にオーストリア・ハンガリーに接近した」
と書いてあります.
 明らかに矛盾していると思うのです.(−−;
 それとも懐柔策として領土拡張を認めたのでしょうか?

 【回答】
 簡単に言うと,ベルリン会議からボスニア併合(1908年)の間の30年間に,両国の関係が劇的に変化したためです.

 セルビアは元々オーストリアから支援を受けていて,ロシアの支援を受けるブルガリアと激しく対立していました.
 1881年にはオーストリアとセルビアの間で秘密条約が結ばれ,セルビアは更にオーストリア依存を高めます.
 この流れが変わったのは1885-86年のセルビア・ブルガリア戦争です.
 ブルガリアが東ルメリ自治州を併合したことをきっかけに起こったこの戦争で, セルビア国内の親オーストリア派は開戦を強く主張したのですが,結果はセルビアの敗北.
 これをきっかけに,新しく急進党が躍進.1903年にはクーデターが起こって親オーストリア派の国王アレクサンダル・オブレノヴィチが暗殺され, 親仏派のペータル・カラジョルジェヴィチがセルビア王となり,1904年に急進党党首パシッチが首相に任命されました.
 パシッチの急進党政権は反オーストリアを打ち出し,ロシア・フランスに急接近します.
 1905年,セルビアはオーストリアからの経済的独立を目指し,ブルガリア・フランスと経済協定を締結. オーストリアはこれに対して豚の輸入禁止を打ち出しました(いわゆる「豚戦争」)が,効果上がらず.これ以降セルビアは完全にオーストリアの手から離れてしまうことになります.
 そして1908年,オーストリアのボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合,と.

(カラジチ ◆mWYugocC.c in 世界史板)


 【質問】
 映画にもなった「チュッ・ニャ・ディン」について教えてください.

 【回答】
 チュッ・ニャ・ディンは1850年,アチェ東部の地方領主の家柄に生まれた.
 1873年,オランダはアチェ王国に侵攻し,1875年,彼女の故郷 の町ランパダンをはじめ東アチェの平野部一帯を支配した(アチェ戦争 1873〜1904) .
 最初の夫テウク・チック・イブラヒムは1878年, オランダとの戦闘で死亡.1880年,チュッ・ニャ・ディンは西岸の港町ムラボーの貴族テウク・ウマールと再婚した.
 彼は一時期オランダ側に降服,協力者となったが,その後,豊富な武器・弾薬・兵力を もってオランダとの戦闘を再開,各地でオランダ側に甚大な被害を与えた.
 1899年2月,テウク・ウマールはスパイの通報によってオランダ側の待ち伏せを受け死亡,アチェ人領主たちの投降が相次いだが,チュッ・ニャ・ディンは配下の武将たちと共に,6年間にわたり神出鬼没のゲリラ戦を指揮した.
 しかし,オランダの圧倒的な軍事力と封鎖作戦によってゲリラ側は武器, 弾薬,食料の窮乏に見舞われ,チュッ・ニャ・ディン自身も目をわずらい,ほぼ盲目となり,重いリュウマチにもかかった.
 1905年11月,彼女の健康状態を憂うる腹心の部下の裏切りによって,ついにオランダ軍に捕らえられ, 州都クタ・ラジャ(現バンダ・アチェ)に移された.
 その後,オランダは彼女を西ジャワのスメダンに流刑し,1908年11月彼女は流刑地で死んだ.
 遺骸はスメダンの郊外に葬られ,いまも墓には参詣者が絶えない.

 詳しくは
http://www.mapro.or.jp/~araitaku/aceh.htm
を参照.


 【質問】
 明治期の日本海軍は,軍艦をどのように種別していたか?

 【回答】
 まず明治5年に、軍艦と運送船に分かれ、明治20年5月に、
艦齢10年以内の甲号、
水雷艇などの小型艦艇である乙号、
艦齢10年超の丙号
に分かれました。

 次に、明治23年5月の海軍艦船籍条例で、
戦闘航海の役務に耐える軍艦を第一種、
水雷艇を第二種、
戦闘航海の役務に耐えない軍艦を第三種、
運送船、曳船、小蒸気船を第四種、
倉庫船、荷船、雑船を第五種
とする五種類に分けられました。

 明治29年には、第一種(以前の第一種)、第二種(以前の第三種)、水雷艇(第二種)、雑役船舟(第四種と第五種)の四種に集約されました。

 実際に戦艦、巡洋艦と言った艦種が設定されたのは、明治31年に制定された軍艦及水雷艇水別標準が定められてからです。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 明治期,大日本海軍にとって最大の敵は?

 【回答】
 明治期,大日本海軍にとって最大の敵は,清国海軍でもなく,ロシア極東艦隊でもなく,はたまたアメリカ海軍でもありませんでした……

 明治15年,朝鮮半島で任牛の変が起きました.
 これに対し帝国海軍は金剛,日進,天城,比叡を派遣しましたが,同じように艦隊を派遣していた清国海軍と一触即発の緊張状態に陥りました.
 しかし,この時の帝国海軍は戦える状況にはなかったのです……

 脚気で(w`;

 同年,海軍兵学校十期生を乗せ遠洋航海へ出かけた軍艦龍驤は,艦長以下乗組士官までもが機関員の代わりをするという事態に陥りました.
 操帆運用の水兵も汽走用の機関員(当時は火夫)が次々に倒れたのです……

 脚気で(w`;

 帝国海軍において脚気は深刻な問題であり,明治11〜16年頃は常に兵員の2割から3割が脚気患者と云う事態に陥り,早急に解決しなければならない案件の一つでした.

 ですが,医学会で 『脚気細菌説』 主流がを占める中,適切な対策が生まれるハズもなく,結局,帝国海軍は,明治23年の高木軍医大監による糧食改革が行われるまで,脚気に苦しみ続けることになるのです……  

ベタ藤原 in mixi


 【質問】
 「日本海軍vsパン」の顛末を教えてください.

 【回答】
 初期の敵,脚気に勝利を収めた帝国海軍でしたが,次なる敵が帝国海軍の前に立ちふさがります.

 新たなる敵の名前,それは,
【パン】
でした.

 それまでの糧食を改め,脚気問題を解決した高木軍医大監でしたが,彼は積極的に日本の西洋化を推進しようとする,強烈な鹿鳴館思想主義者で,コレを機に海軍の食事を欧米風に改めようと考えていました.
 そのため明治23年3月に発布された 『通達131号,糧食品経理規程』 では,主食の内,白米の給与は隔日40匁っきりで,後はパンか乾パンという事になりました.

 当時の一般庶民にとってパンは馴染み薄いもので,新兵を教育する海兵団でのこんな逸話が伝わっております.
 短艇撓漕訓練が終わって短艇を揚収しようとすると,新兵たちが短艇索を引くのをやめて,フラフラした格好をするので,教班長の下士官が,
「どうした! だらしないぞ!!」
と叱ると,新兵たちは,
「腹が減って力が入らなくて引けません」
と言う.
「お前たち,飯食ったじゃないか!」
と教班長が言うと,
「まだ飯は食っていません」
と新兵達は答える.
 それを聞いた教班長は驚いて
「本当にまだ食べてないのか?」
と尋ねると,
「パンと砂糖のオヤツしか食べていません!」
と新兵たちは答えた,そうです(w`;

 また,主食の白米が麦飯と乾パンに代わった際,軍艦海門では下士卒がこれに不満を持ち,ストライキを起こした,という話もあります.

 結局この糧食改定は不評で,わずか3ヶ月後には白米給与は一回50匁の週6回に改められました.

 でも,まぁ,パンは不評で,下士官兵はパンの柔らかい部分しか食べず,周囲の硬い部分(いわゆる「みみ」の部分)を残し,残飯として海中投棄していました.
 このため,泊地には捨てられたパンの耳が漂い,海外航海に出る船があると,捨てられるパンの耳を狙ってカモメの群れが3日間ぐらいはつきまとうという有様.
 たまたま同一泊地に停泊していた英国艦船の乗組員たちは,最初 「もったいないなぁ」 と思って,それを見ていたのですが,終いには反感をもつようになったとか,ならなかったとか(w`;

  主計長の会報等では 『パンの耳』 をどうやって下士官兵に食べさせるかが研究の対象になりましたが,結局,妙案はでませんでした.

 明治31年の改定でそれまで週15回だったパン食は週7回に減り,大正7年の改定で軍港内では週4回,それ以外では週2回. 昭和6年の改定で,軍港内では週3回,それ以外では支給しなくてもよい,ということになり,これにより帝国海軍は 『パンの呪縛』 から逃れることとなったのでした(w`;

ベタ藤原 in mixi

▼ これが昭和になると
「パンはアーマー,ロープはエンド」
という言葉があったようで,B級グルメ的なご馳走だったようなことが,「よもやま話」シリーズにあるはずです.
 体面上,班長(?,海軍用語忘れました)とかは好みであっても食べませんが,下級者にとってはうれしい物だったそうです.
 パン両端のミミの2枚を装甲板にたとえてアーマーといったそうです.
(「ロープはエンド」というのは一番後ろは楽なんだそうです.アーマーと違って下級者がつくと怒鳴られたらしいです)

部外者 in FAQ BBS ▲


 【質問】
 琵琶湖運河計画について教えられたし.

 【回答】
 日本海と京都,大阪を最短で結ぶ為には,江戸期には北前船で敦賀に到着し,其処から荷物を人の背に載せて,街道を下ると言う方法が採られました.
 所謂,鯖街道と呼ばれ,何度か村おこしの題材に使われています.

 …とすれば,敦賀から運河を開削して,琵琶湖を経て,淀川を下れば,日本海からの物資が最短距離で京都や大阪に齎されるのではあるまいか…そう夢想した人達が過去にいました.

 1872年,吉田耕運と言う人は,
「国防上及び殖産上共に有利有益にして国家将来の為め,最も緊要なること」
と自認し,その人生をかけて琵琶湖運河の実現に奔走します.
 その甲斐あって,1894年からは海軍も琵琶湖運河の実現に向けた研究を開始し,1901年には滋賀県会で内務大臣と貴族院に請願を行うことに決し,1905年にはその請願が貴族院で採択されました.

 しかし,時は日露戦争の直中で,戦費の捻出に力を注いでいる時に,こうしたプロジェクトを興す体力は日本に無く,結局,この計画は頓挫しました.

 その耕運亡き後,遺志を継いだのが憲兵大尉として陸軍に奉職していた吉田幸三郎です.
 彼は,1923年に『阪敦運河開鑿』の提案を行いました.
 彼の計画は,大阪から淀川の一部を利用し,琵琶湖を経て敦賀に抜ける運河を開鑿し,敦賀と琵琶湖の高低差を解消する為に,途中にパナマ運河の様な閘門を設け,3,000トン級の商船,4,000トン級の軍艦を通航させようというものでした.

 彼の提案で雄大なのは,閘門の数を少なくする為に,琵琶湖の水位を現状より43m低く,海抜41m強に下げようとした点です.
 つまり,琵琶湖の面積を半分にして,残りを干拓地にしてしまうと言う,今から考えれば乱暴な提案.
 これを行えば,閘門は3カ所で済みますが,堀割の工事費用が嵩みますし,高低差が小さくなるので,琵琶湖を利用した水力発電所の発電量に影響が出ます.
 一方,面積をそのままにした場合は,閘門は6カ所に増えますので,通過時間が掛ります.

 この運河開鑿の効果としては,先ず日本海沿岸都市(小樽,元山,清津など)と神戸,大阪を結ぶ交通線が短縮出来ます.
 例えばウラジオストクと大阪の間は,850nmが550nmとなり,その時間は,閘門通過の待ち時間を考慮しても1日以上短縮出来るとしていました.
 次に,敦賀側に放水路を設けて,現状の6倍半の水を流し,水害から農産物や家屋の被害を除去する事が出来るとしています.
 これにより,年平均140万円の被害を食い止めることが出来,其の分生産額が増えると言う訳です.
 三点目は,琵琶湖を半減することで,新たに34,836町歩の干拓地が生まれ,新しい農地が確保出来,国内の食糧不足(米輸入は,1919年で1億7千万円分に達していた)を解消出来るとしています.
 この琵琶湖干拓地の他,工事で生じる土砂を用いて,大阪湾,敦賀湾,巨椋池の一部を埋め立てることで,新たに農地や市街地,工業地を確保出来るとしていました.

 更に,運河を利用して発電事業を展開したり,沿道の地価高騰を指摘し,総工費4億円,完成期間10年でも,新たに得られる土地の評価額が2億2,363万円,沿線地価の上昇,農地の収穫高,運河での漁獲高,船舶通過税,水力発電事業などで,年の売上が4,937万円,経費を差し引いても純益は2,468万円ですから,総工費は10年程度で償還出来るとしています.

 ただ,これを実現したとしても,通過可能船が小さいので,あまり効果がなかったも知れませんね.

 1933年には琵琶湖疏水を実現させた土木技術者である田邊朔郎が,琵琶湖大運河構想を発表しています.
 彼の場合は,通過可能トン数を1万トン級の船とし,敦賀〜近江塩津〜琵琶湖〜宇治・巨椋池〜大阪湾と言うルートを通すものでした.
 敦賀と近江塩津の間には6カ所の閘門を設けて高低差85mを調整し,宇治川から淀川を経て大阪湾に流れていた流れを堰き止め,全ての水は運河を経由して敦賀湾に落とします.
 これにより淀川を廃川とし,その川筋に3カ所の閘門を設けた大運河を建設,木津川から淀川に流れ込んでいた水は,新たに排水路を建設して枚方,大阪市南部から大和川河口の北側に流し込み,鴨川や桂川から淀川に流れ込む水は,神崎川に流し込む付け替え工事をする,と.

 この工事は期間10年,総予算5億7,600万円の工事で,この費用捻出の為に,廃川とした淀川河川敷に大運河を軸とする帯状の工業地帯を設けるとしています.
 淀川には洪水対策の為に遊水地となっている部分があり,この面積は枚方以西でも476万坪もありました.
 これらに工場を建設すると,工業用水は目前の運河から取水可能ですし,排水も目の前に排水すれば良く,物資も目の前の運河を通って来るし,出せるので,理想的な工業地帯となり,地価が75円程度でも,総資産は1億6,000万円に達し,回収はあっと言う間に出来ると言うものでした.

 但し,この案は一つ目を瞑っていた部分があり,吉田案の大陸との時間距離短縮という面は余り効果がありませんでした.
 これは閘門の数が多く,それを通過するのに時間が掛る為,夜間運行でも短縮時間は僅かに数時間でしかありませんでした.
 寧ろ,内陸工業地帯が整備出来るという側面に重点が置かれた訳です.

 とは言え,これだけの資金を投じて効果のある事業であるのかは不明で,もう少し現実的な案として,田邊案を基に,谷口嘉六と宮部義男の共同案では,敦賀湾まで運んだ荷物を艀に積み替え,その艀をインクラインで陸上に引揚げて台車に乗せ,其の儘貨物列車として運行,塩津港で再び湖上に浮かべ,曳船で曳航して,琵琶湖沿岸各地に運ぶと言うもので,工費は900万円とお安くなっています.

 しかし,この提案にしても,積み替えて艀に乗せるのであれば,港で貨物列車に載せ替えるのと何がどう違うのか,余りメリットが見いだせません.

 今となっては,技術者の夢想,オナニーに過ぎないものではなかったか,と思ってみたりして.
 でも今,こんな構想をぶち上げたら,それこそ環境保護団体から袋叩きに遭いますわねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/20 21:12


 【質問】
 ケブラチョの戦いとは?

 【回答】
 1886/3/26〜31,軍事独裁政権再登場を防ぐため,モンテビデオの若者達が蜂起した戦い.
 彼らは戦いには敗れたが,それが残した影響は深かった.

(J. L. ボルヘス Borges 「伝奇集」,岩波文庫,1993/11/16, p.256訳注)


 【質問】
 長崎事件について教えてください.

 【回答】
 清国北洋艦隊が突如長崎に来襲,水兵が暴動を起こした事件.
 以下引用.

    長崎で暴れた辮髪水兵
{略}日本に要塞を築かせたものは,黒船来航と長崎事件だった.そして,日中戦争の原点は長崎事件にあることが分かった.
 {略}
 長崎事件は全く知られていないが,1886年(明治19)その当時,清帝国と呼ばれた中国の北洋艦隊が突如長崎に来襲し,水兵の大集団が大暴動を起こした侵略事件だ.
 このころ,大清帝国は日本を威圧するため,旅順に要塞と軍港を作り,北洋艦隊根拠地にした.北洋艦隊水師提督(司令長官)丁汝昌は,李鴻章(北洋大臣)の右腕だった.
 1886年8月1日,北洋艦隊の新鋭戦艦「定遠」「鎮遠」と巡洋艦「済遠」「威遠」の4隻が,日本政府には何ら予告なく,無許可で修理のためと称して突然,長崎に入港した.{略} 要するに,弱小国,日本を舐め切っていたのだ.
 艦名の「遠」は外国を意味し,特に日本を指していた.「定遠」「鎮遠」は日本鎮定の意味だ.この僚艦はドイツ・フルカン社製で,排水量7,400t,主砲は30cm×4,当時世界第一の大戦艦だった.
 その頃,日本海軍は英国アームストロング社製の「浪速」と「高千穂」(3000t)の小艦があるだけだった.
 その挙句,8月13日には清国水兵が勝手に上陸開始した.兵力は500人以上.長崎市内をのし回り,商店に押し入って金品を強奪した.酒を探して飲み,市民の女性を追いかけるなど,散々に暴れ狂った.
 清国水兵は辮髪をしていた.{略} その髪を蛇のように振り立て,喚き狂うのだから,長崎市民には,まるで地獄の鬼のように見えた.
 急報により,日本人巡査が鎮圧に出動したが,多勢に無勢,袋叩きに遭った.やがて応援の巡査の一隊が駆けつけ,双方抜刀して市街戦になった.斬り合いの結果,双方とも八十数人の死傷者を出した(水兵4人、巡査2人が死亡).
 この長崎事件は当時,日本全国に一大ショックを与え,清国に対する日本人の敵愾心が,烈火のように燃え上がった.

 この事件の背景には,朝鮮問題を巡る日清両国の紛争があった.そこで日本を脅かすため,清国海軍が計画的に長崎に殴り込みをかけたのだ.当時の弱小国,日本は,歯噛みしながら,なす術もなかった.
 この長崎事件を契機として,日本人の防衛思想の根底に,大陸を国防の第一線とする考え方が生まれたのである.

(益井康一(元毎日新聞記者) from 月刊「丸」 Aug. '99)

 事件後,両国委員により構成された長崎会審は難航の末,解散したが、外国公使の斡旋もあり、翌年2月8日、東京で井上馨外相と徐承祖駐日清国公使が,双方自国の法律による公平な処分と死傷者へ撫恤金給与を議定し,解決した。

日本史板

済遠


 【質問】
 日本陸軍で,陸軍士官学校を卒業するまでの流れはどのようなものか?

 【回答】
 以下のごとし.

明治30年(地方幼年学校設立)から大正9年くらいまで

13歳    旧制中学入学
     ↓            ↓ 
14歳 地方幼年学校入学 ↓
17歳 中央幼年学校入学   ↓
18歳  ↓           隊付
19歳  隊付           ↓
     ↓            ↓
      陸軍士官学校入学
21歳   卒業、見習士官となる

 第2次大戦中については,第2次大戦FAQ(アジア・太平洋方面)の該当項目を参照されたし.


 【質問】
「現在のマケドニアの政党には,VMROを称するものが複数ありますが,VMROとの関係は必ずしも明確ではありません.マケドニアの国民運動の嚆矢としての「VMRO」との関係を称することで,いわば格を上げようとしているという側面があるようです(カラジチ ◆mWYugocC.c@世界史板)」とのことですが,詳しいVMROの沿革を教えてください.
 なるべくなら,ユーゴにおけるマケドニアとギリシャの軍事緊張と社会背景について論述してほしいのですが.

 【回答】
 そもそも,露土戦争の結果,サン・ステファノ条約で成立した大ブルガリア公国の領土に,マケドニア地域(現在のヴァルダル・マケドニア,ギリシャのエーゲ・マケドニア,ブルガリアのピリン・マケドニア)を含む地域を含めていたのが問題の最初で,この条約は英・独・墺の三国干渉によって撤回され,結局オスマン・トルコ帝国の領土へ返還されました.

 しかし,ブルガリアは,言語的近親性から自国領土「西ブルガリア」であると主張し(今でもブルガリアには公式にマケドニア人はいないことになっています),なおかつ,大ブルガリア帝国の領土だったことを声高に言えば,セルビアは文字が近しく,宗教的祝日の監修の近親性から,自国領「南セルビア」と主張し,これも中世のセルビア王国領だったことを主張しました.
 また,ギリシャはマケドニア人がスラブ化されたギリシャ人であることを主張し,ビザンツ帝国時代には,自国領だったことを主張しています.

 内部マケドニア革命組織(VMRO)は,1893年に20代の若手教師であったゴシェ・デルチェフを中心に結成されたもので,この組織によってマケドニア人独立の準備が整えられ,マケドニア人と言う民族のアイデンティティが確立されます.

 1895年,ブルガリア(この国は,マケドニア地域を自国に組み込む野望を持っており,実際,30%を後のバルカン戦争で手に入れている)で,最高マケドニア委員会が結成され,これに同調した人々がゲリラ活動に走り,ついには1903年に中部の街クルシエヴォで蜂起して(イリンデン蜂起),マケドニア共和国の臨時政府樹立を宣言しますが,これはトルコ軍の大軍に鎮圧されました.

 この解決策として,墺,露がマケドニアを国際管理下に置いて,秩序回復後に民族別行政区を作る構想をぶち上げますが,これが混乱を招き,バルカン戦争の遠因となっていきます.

 VMROはその後歴史の中に埋もれていきますが,第一次大戦中はあくまでも独立を目指すのか,また,ブルガリアの一地方として生きるのかを巡って,分派活動が起き,またテロ組織としてセルビア国内でゲリラ戦を展開,ブルガリア合同派は枢軸国,特にブルガリアと連携しつつ,生き延びています.
 ブルガリア合同派はブルガリア軍部の道具としてピリン・マケドニアを制圧した後,其処を実効支配してその地を根拠地に,ユーゴ国内,ギリシャ国内で様々なテロを行ないます.
このため,1925年には,業を煮やしたギリシャがブルガリアに侵攻すると言う事件も引き起こしました.

 1920〜30年代に,ユーゴはセルビア人中心の中央集権体制を強いて,他民族の反発を買い,また,周辺部に於いても,Thessalonikeの領有を巡ってギリシャと対立し,ユーゴ自身はブルガリアに接近します.
 丁度その頃,ブルガリアでもボリスIII世の国王独裁が成立し,中央集権体制に移行しようとしていたために,1934年にピリン・マケドニアを実効支配していたVMROを弾圧したため,ブルガリア統一派は支持を失い,マケドニアのVMROは今度は,同じユーゴ国内で虐げられてきたクロアチア人に接近します.
 そして,再びこの組織が表に出るのは,1934年,ユーゴスラヴィア国王ペタルをマルセイユで暗殺した時です.この時はウスタシと共同で暗殺を行なったようです.

 その後,第二次大戦ではユーゴスラヴィアがドイツ軍に占領した時に,ブルガリア軍も同時に彼の国に侵攻し,マケドニアの解放を謳います.
 その際に先頭に立ったのが,統一された内部マケドニア革命組織(VMRO)で,セルビア人の中央集権国家に虐げられてきたマケドニア人の心を擽り,一定の支持を得ることに成功します.
 しかし,進駐したブルガリア軍が傍若無人な振る舞いをするに及んで,民心は離れ,1940年にマケドニア人の自治を認めたTito率いる共産党が浸透していき,再びVMROは衰退していった訳です.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 ドイツって何であんなに髭を生やした将軍が多いのでしょうか? マッケンゼン、シュリーフェン、ティルピッツ、グレーナー、ファルケンハイン、ルーデンドルフ、ベロウ、フーチェル、ゼークト、ヒンデンブルク、ヒッパー、 フランソワ、モルトケ、シェールetc…

 【回答】
 当時はヒゲの時代だったから。
 ドイツに限らず,19世紀末〜20世紀初頭の頃の男は、み〜んなヒゲを蓄えるのがトレンドだったのです。
 男のファッション史を見ると、髭が嫌われる時代と好まれる時代が繰り返されていたんです。
 日本でも長岡外史と言う凄い髭の持ち主がいました。マジで空飛べそうなほどの。

 これはイギリスでの話だけど,19世紀前半くらいまでは,イギリスの上流階級の人は髭をはやしてなかった。
 19世紀半ばのクリミア戦争に従軍した軍人たちが髭面で帰ってきて、男らしくてカコイイというので上流階級で流行になった。
 それが社会に広まって19世紀後半は髭の時代に。
 でも世紀末になると,髭は俗物の印だってんで、若者や芸術家の間では剃るのが流行りに。
……と,こんな感じで髭の興亡があった。


 【質問】
 セポイの反乱が英国のインド支配を揺るがすことにならなかった理由は?

 【回答】
 インド内部の分裂を利用して,英国はインドを押さえつけることができたため.
 以下引用.

 イギリスはインド軍に接したように,インド全体にも接した.
 仕事や庇護者を切望してやまない貧しい社会で,インド政庁は多くの服従者を見つけることができた.
 とりわけインドは,言語集団や宗教,地域,カーストによって著しく分裂していたため,イギリスは前のムガールと同じように,こうした分裂を利用しながら,インドを支配するようになったのである.

 それでも,他の植民地社会と同様,インドでも本当の意味でのナショナリズムの台頭によって,住民の幅広い層は言うまでも無く,現地のエリートが団結すれば,帝国の支配はすぐにでも不可能になりそうだった.
 〔略〕
 イギリスのインド支配の鍵を握っていたのは,〔1880年代,ケンブリッジ大学のJ.R.シーリー教授が著した「イギリス膨張史論」によれば〕
「インド人には……国民性がない.もっとも一部にはその兆しが見られ,そこから国民性が発展していくと想像できる」
ということだった.
「国民性は幾つかの要素から成り立っており,その内血縁感覚はまたとないものだ.
 共通の利益とか,単一の政治的統一体を構築する慣習といった感情は,また別である」
 イギリスの支配が確立されたのは,おおむね,インド内部の分裂のおかげであり,
「セポイの反乱にしても,かなりのところ,インドの種族を互いに敵対させることで押さえつけることができた」

 インドは依然として,国民を形成する状態からは程遠かったが,それまでのインドに於けるどの国家よりも,イギリスの支配はインドの人々を一つの国民とする上で,多くのことを成し遂げた.
 もし,1850年代のイタリアのナショナリズムに匹敵するような民族主義運動がインドでも広がっていたら,イギリスの支配は一夜にして解体しただろう.
 オーストリアも軍事帝国であり,イタリアの外から軍を駐留させておいたにも関わらず,ハプスブルクはイタリアを掌握しておくことができなかった.
 一方インドには,殆どがインド人で構成される部隊が駐留し,ロンドンからの補助金を受けない独自の金融の仕組みも手元にあった.
 もし,イギリスが現地の盟友や大衆が黙って従わない状態で,征服者としてインドを支配しなければならなかったとしたら,
「企てただけでも,我々は確実に財政破綻していただろう」
 イギリスがインドを支配するために進んで行った軍事・財政両面での関与は,常に限定的でしかなかったため,現実にイギリスは直ちに撤退できた.
「大した努力もなしにインドを掌握しなければならない,ということが,我々がインド帝国を維持するための条件だった」

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.216-217


◆日清戦争


 【質問】
 「西太后が清朝を滅ぼした」という言い方は正しいの?

 【回答】
 最近の中国史研究では,従来語られてきたような西太后の悪事とされてきたことの多くが,根拠の無い流言であったとこが明らかになってきており,むしろ西太后の存在が当時の清朝の安定装置となっていたことが注目されてきている.
 これは日本だけの話ではない.
 この再評価は海外で始まっており,そして大陸中国の学会※でも西太后の再評価が起こっている.
 ちなみに袁世凱の再評価も,1970年代初めから始まっている.

 西太后の悪評は,彼女と対立した変法派が流したプロパガンダや,海外の新聞で取り上げられたものが,あたかも史実のように取り扱われてきたのが多い.
 西太后の具体的な政治過程への対応は,史料の問題から永らく分からないことが多かったが,80年代以降の原文書(档案史料)の公開により,ようやくその姿が見えはじめてきているという所である.

 西太后の功罪としては,以下のことがあげられるだろう.
功績
 ・19世紀最大の内戦の1つである太平天国戦争(戦死者5000万人)を鎮圧し,アロー号戦争や打ち続いた内戦や経済危機で屋台骨の傾いだ清朝を再建することに成功
 ・国内勢力の調停者として内政を安定させつつ,近代化政策である洋務運動の推進者たちの後援者となった.
 ・従来,政権中央から排除されていた漢人官僚の勢力を取り入れることで,国内政治の活性化に成功.
 ・義和団戦争後,抜本的近代化政策である「新政」を実施,これは現代中国の各種制度の基本となる画期的なものであった.
 彼女の統治が40年清朝の寿命を延ばしたと,いう指摘もある.


 ・バランサーであるがゆえに,なかなか抜本的な改革が出来なかった.清朝の旧態依然とした構造が保持されることになる.
 これは,宮廷内で排外勢力が台頭した際に,八カ国に宣戦布告することを止めることが出来なかったことにも繋がる.
 ・皇太后が政治を取るという非常事態を恒常化させてしまったこと,
 そのため,政治系統が複雑化し,彼女自身は引退したかったにも関わらず,自身の存在が不可欠になってしまい,死後の混迷の原因をつくった.

 ただし抜本的な近代化は,清朝が清朝でなくなる危険性のあるものだった.
 結果として,20世紀初めに実施された「新政」は,ソ連のペレストロイカと同じく,政権の屋台骨を崩してしまった.
 すなわち,清朝の最後の10年間に行われた,明治維新をモデルとした改革運動である「新政」により,中央への権力回収はかなりのレベルまで進展していた.
 後に皇帝を称する袁世凱は,改革の最大の推進者であった.
 しかし皮肉なことに,地方政府の力を弱めるという改革の成功のため,地方で発生した革命を抑えることができなくなってしまった.
 それが辛亥革命による清朝政府の瓦解へとつながることになる.

 この時代は,20世紀で最も日中関係が良好な時代であり,多くの軍人・学者達が日本に留学して教育を受けることになるが,日本をよく知る将校たちが,後に同窓の日本軍人と戦うことになるのも,皮肉で悲劇的なことである

 西太后観の変化について,日本語で読めるものとしては
スターリング・シーグレーブ著『ドラゴン・レディ』(サイマル出版,1994年)
加藤徹著『西太后』(中公新書,2005年)
等がある.
 西太后の評価は,今後の研究の進展により,さらに変化するものと思われる.

 ※中国の学会
 中華人民共和国では後久しく,革命の正当化が歴史学の最大の目的であり続けました
 しかし80〜90年代以降,「政治的に許された範囲」では,かなり自由に議論が出来るようになってきております.
 西太后再評価はこの流れから出てきたものです.
 ただし,研究者の間では西太后再評価について語ることはタブーでは有りませんが,公の場所で語ることには一定のリスクが伴います.
 一昨年放映された歴史ドラマ「走向共和」で,新説に基づき,西太后や袁世凱を新しい角度から描いた所,共産党からのクレームがつき,DVDが一版で絶版になってしまったことがありました

(軍事板)

 【質問】
 では,北洋艦隊の予算を西太后が食い潰したというのも,眉唾?

 【回答】
 西太后の悪徳で最も大きく取り上げられることの多い海軍経費流用についても,再検討の対象になっております
 流用自体は実際にあったことですが,従来は西太后の個人的欲望という(史料的裏づけの乏しい)要因に帰結させておりました.
 これは日清戦争という,清朝にとっての不の転換点となった敗戦の責任を,一人の「悪女」に負わせてしまおうという,後世の観点がありました.

 しかし,そのような議論自体に無理があったというのが再検討のきっかけです.
 その結果,当時の清朝の有する根本的な構造問題が背景にあったことが分かってきました
 この再検討はまだ結論が出ていない,現在進行形の状態ですが,そのなかからいくつかのポイントとなる観点を(記憶モードで)抽出してみます

 ・当時の清朝の財政は国税と地方税,各省庁間の税収の区分があまり無く,もともと各役人の権限の及ぶ所からの流用が構造上存在した
 ・西太后批判派の観点には,北洋海軍の最大の後援者であったのは西太后であったという事実が抜け落ちて いる.彼女の後援が無ければ北洋海軍自体が作られなかった.
 ・西太后は対外的には平和外交を指向する性格であり,海軍力をあまりに強くすることで国内の主戦派の強硬論が強くなるのを,抑える意図があった(これは史料的裏づけがまだ弱い論です).
 ・清朝の軍隊は統一的編成になっておらず,各部隊を統括する官庁,地方官にゆだねられ,軍事力が各派の政治権力にもなっていた.
 このような構造では,李鴻章の北洋海軍だけを特別に強化することは出来なかった.
 ・海軍の艦艇を購入することは,貴重な銀を国外に流出させることであり,国内の庭園修築に使用することにより内需拡大に繋がった.
 そしてそれは,政権の安定を国民に印象付ける政策でもあった(首都の庭園が丸焼けのままでは,政権の権威に関わる)

 これらの研究が進展することで,北洋艦隊予算流用についても従来の見方に修正が迫られております.

軍事板

砲艦鎮辺


 【質問】
 明治日本が朝鮮進出を指向したのは何故か?

 【回答】
 対ロシア戦略のため.

 明治政府の指導者達は,大国ロシアは必ずや中国東北部(「満州」)を侵略し,朝鮮半島にも進出する,そうなれば日本の独立も危ういとの危機感を持った.
 そして,ロシアの南下に備えて日本の「主権線」(国境線)を守るためには,ロシアが「満州」を占領して朝鮮半島に出てくる前に,先手を打って日本が朝鮮半島を「利益線」(勢力圏)として確保する,という「過剰防衛」=積極膨張戦略を採ったのである.

 「主権線」を守るためには,その外側にある「利益線」を確保防衛しなければならぬ,というこの戦略論は,山形有朋などの明治国家指導者に共通に見られるものである.
 1871年(明治4年)12月,当時,兵部大輔(ひょうぶたいふ,後の次官)であった山形は,兵部少輔の川村純義・西郷従道と共に「軍備意見書」を政府に提出,
「外に備ふるの目途(もくと)既に立ち措置其宜(そのよろし)きを得は内事は憂ふるに足らす」
と,このとき早くも外向きの軍隊建設を主張している(大山梓編「山形有朋意見書」p.43-46).

(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,p.12,抜粋要約)


 【質問】
 日清戦争における清国側の勝利条件は何だったのでしょうか?

 【回答】
 清は,朝鮮に於けるその宗主権を認めさせることが最大の目的でした.
 元々,数度の事変によって,日本軍は敗北とは言わないまでも,清国軍相手に撤退を繰り返していました.
 このため,清としては,この際はっきりと領有権を主張し,清による朝鮮半島の領有を実現するというのが最終目標でした(英国もロシアの南下を阻止するために,清国に期待していた節もありますし).

(眠い人◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 明治時代の陸軍の軍服は黒っぽい色ですが,日清戦争や日露戦争では目立たなかったんですか?

 【回答】
 目立った.
 特に日露戦争では濃い色の軍服で,敵の目視されやすいことが指摘された.
 当時は今と違って制服=戦闘服だったので,低視認性の制服が求められ,後にご存知の薄茶色の軍服になった.

 20世紀初め頃まで,どこの国の軍服もわりと派手だった.敵味方の識別を重視したためだ.
 19世紀後半までは小銃の射程が短かったから,少々目立つ服装でも,あまり問題にならなかった.
 19世紀後半,ライフル銃が一般化したことで,派手な軍服はデメリットの方が大きくなった.
 カーキ色の軍服は1848年,インド駐留英軍が採用したのが最初.ただしこのときは,指揮官の個人的な思いつきによるもので,正式なものではなかった.
 1898年,カナダ軍を除く在外英軍の軍服として制式採用,1902年に本国軍・カナダ軍でも採用,という流れだそうで.
 第2次ボーア戦争が1899年から1902年なので,全面採用にはボーア戦争の戦訓が取り入れられていると思われるけれど,植民地軍での採用はインドでの運用実績が良好だったからのようだ.
 日露戦争中は,ロシア軍も水色軍服で,かなり目立っていたようだ.
 フランス軍なんか第一次大戦の時まで赤ズボンだったので,機関銃のいい的になった.

 したがって日露戦争中,日本陸軍ではまだ紺色の軍服は使われていた.
 ただしその間に何度も軍服の改変が行われ,カーキ色のも使われたが.カーキ色に統一されるのは,日露戦争が終わる明治38年から,翌39年ごろ.
 改変直後は余っていた旧生地を使った新型制服もあったようだ.


 【質問】
 旅順虐殺って実際にあったんですか?

 【回答】
 事実です.
 日本の外交文書にしっかり,「旅順口虐殺事件」という名称で書かれ,英米でも,"Port Arthur Atrocities"あるいは,"Port Arthur Massacre"と呼ばれています.
 後,「参謀本部歴史草案十七」には,この虐殺の経緯と第二軍の弁明が掲載されています.

 但し,中国側見解の2万人虐殺は眉唾物というのが,現在の史学上の一般的な見解で,実際には2,000名程度と言うのが妥当な数字と言われています.

 数字の真贋論争については,軍事上の問題ではありませんから,政治板なりで御願いします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


◆◆海軍関連

 【質問】
 日本一国なのに、どうして連合艦隊なのですか?

 【回答】
 時は明治27年。いよいよ風雲急を告げる日清関係を前にして、当時の最新鋭艦をもって編成されていた「常備艦隊」と、2線級の艦艇をもって編成されていた「西海艦隊」をもって、日本海軍最初の連合艦隊が編成されたのが,その起原。
 初代司令長官は伊藤祐亨中将。

↓の「聯合艦隊」の項参照
http://homepage2.nifty.com/nishidah/t_xa9.htm

 【日露戦争後の連合艦隊解散の辞】

 百発百中の一砲能(よ)く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば,我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。
 惟ふに武人の一生は連綿不断の戦争にして時の平戦に依り其責務に軽重あるの理無し。
 事有らば武力を発揮し、事無かれば之を修養し、終始一貫其本分を尽さんのみ。
 過去一年有半彼の風濤と戦い、寒暑に抗し、しばし頑敵と対して生死の間に出入せし事、固より容易の業ならざりし、観ずれば是亦長期の一大演習にして之に参加し幾多啓発するを得たる武人の幸福比するに物有らず。

 神明は唯平素の鍛練に力め、戦はずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると同時に一勝に満足して治平に安ずる者より直に之を奪ふ。

 古人曰く「勝て兜の緒を締めよ」と

 明治三十八年十二月二十一日
 連合艦隊司令長官 東郷平八郎


 【質問】
 戊辰戦争で榎本武揚が艦隊を率いて脱走した際の旧幕府の海軍力について,よく「東洋一」と表現されているのですが,明治政府の海軍力は清より劣っていて,日清戦争当時でも劣勢だったとも言われています.
 これはどういうことなのでしょうか?
 清が1870〜80年代にかけて急速に,海軍力で日本を凌駕したということですか?

 【回答】
 まったくその通り.
 清国には李鴻章という人物がいて,彼によって清国の海軍は建設されたといっていい.
 彼が1870年に直隷総督と北洋大臣(北の海の海軍大臣)に任命されてから,関税収入を利用して北洋海軍を急速に拡張している.
 特に1885年に購入して北洋艦隊に配備された戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻は,世界的にも大艦と呼んでもいい立派な戦艦で,日本海軍にとって脅威だった.

軍事板

 ただ,清朝の対日海軍増強策は後手後手に回って,予算要求に対して支払いが追いついていません.
 対日艦隊である北洋水師は確かに最新最強の軍艦で固めてはいますが,ほかにも南洋水師・広東水師・福建水師も並行して増強せねばなりませんから,とりあえず北洋水師を増強しつつ,型が古くなったら他の艦隊にお下がりする形式で増強をしました.

 明治7年に沖縄の漁民が台湾の原住民に虐殺された征台の役において,日本は即座に日進・筑波・孟春・龍驤を派遣しましたが,当時の清朝は対抗艦を持ちませんでした.
 そこで翌年に,龍驤・虎威・飛霆・掣電の4隻をアームストロングから購入しますが,これは機動力のある日本砲艦とは正反対に,固定砲のレンデル砲艦でした.
 レンデル砲艦は主砲が旋回しないので,多数の船がないと使い物になりません.
 しょうがなく,明治12年に鎮東・鎮南・鎮西・鎮北,14年に鎮中・鎮辺・海鏡清を購入して糊口をしのぐ形になります.
 ようやく明治14年に念願の定遠・鎮遠を購入して形勢逆転となるわけですが,予算不足で3隻目の甲鉄艦は断念して巡洋艦済遠で我慢しなければなりませんでした.
 今度は来遠・靖遠・致遠などの巡洋艦,平遠・超勇・揚威などの本格的砲艦の整備に時間がかかりまして,
日清戦争勃発時には,広東水師から広甲・広乙・広丙などをレンタルして補充するなどしているので,やっぱ足りてないと判断できるんではなかろうかと….

鷂 ◆Kr61cmWkkQ


 【質問】
 中国の今の国旗は五星紅旗ですが,日清戦争時代の清国海軍は,軍艦にどんな旗印をつけていたのでしょうか?

 【回答】
 1863年の海軍創設時は,皇帝の権威を表示するため,船首旗には黄地に青龍を置くことになっていましたが,紆余曲折があり,緑地に黄色い聖アンドリュー十字が描かれ,中心部に三角の中に青龍が描かれる海軍旗が制定されています.
 ちなみに,緑地に黄色い聖アンドリュー十字は,海軍司令官に就任した英国人Charles Gordonの一門に伝わる色だったり.
 1872年11月10日に,この旗が清朝の公式海上用官用旗,海軍旗となりますが,1890年からは,中央の紋章部分のみが取り出されて,矩形となり,黄地に青龍が描かれるだけの旗(下画像)となりました.
 これが,1912年の清朝崩壊まで続きます.

 蛇足ながら,緑地に黄色の聖アンドリュー十字の旗は,中央に描かれた青龍が除かれ,海事税関旗となりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 あちらの大学の必須科目「中国革命史」の教科書にはこんな記述があるらしいけど、日本海軍はこんな卑怯なことをしたのか?

「9月17日,中国海軍提督 丁汝昌が率いる北洋艦隊が,鴨緑江口大東溝海上で日本艦隊と大規模な海戦を展開した。これが『黄海大戦』である。
 この海戦で 日本艦は初め米国国旗を掲揚して中国艦隊に接近し,突如 日章旗を掲げて北洋艦隊を攻撃した。
 5時間に及ぶ『黄海海戦』で中国艦は沈没5艘、日本艦は大破6艘であった。
 中国の主力艦隊は,李鴻章の命令で威海衛に退却したが,後に全滅した」

http://www.threeweb.ad.jp/logos/dcc2/akasia2/akasia34.htm

 【回答】
 黄海海戦戦闘模様
http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Circuit/2971/shipping1.html
 当時の日本海軍が米国旗を掲げて偽装するなんて考えにくいんだが

 それに,まともな海軍であれば、敵対する敵の艦影くらいは記憶させるだろう。
 日本艦艇はフランス製やイギリス製が主で、アメリカのものはない。
 それを考えれば見分けがつくはずだが、、
 もしつかなかったとすれば、だまされた方が悪いとしか言うしかないな。

 ただし黄海海戦は,三景艦の役立たず舶来30cm砲と、近代海戦への素人童貞な混乱のせいで、日本海軍艦艇もかなりの打撃をうけた‘辛勝’なんだな。
 黄海では北洋水師主力艦隊の無力化を図った上で撤退するのが精一杯。
 砲艦「赤城」と仮装巡洋艦「西京丸」などは,沈まなかったのは幸運としか言いようが無い.
 こんな低速でか弱い船2隻が巡洋艦3隻と距離800メートルで撃ち合えば、普通なら助からん.
 事実,赤城は艦長坂元少佐以下死傷者28名 西京丸も30サンチ砲弾その他を満身に受け大破.
 この2艦が狂ったように撃ちまくるのと,清国の巡洋艦が低練度&低士気だったのが幸いした.

 定遠・鎮遠が実際に無力化されのは後日の威海衛戦で、しかも沈んだ定遠は自沈・自爆だし。

 敵の海上戦力を無力化し海上交通路を確保するという戦略企図は達成できたから、完璧に勝ちは勝ち。

黄海海戦(日清戦争:1894年9月17日)経過@本日、天気晴朗なれど
http://www.high-sea-fleet.com/naval_txt/YaLu.html

定遠の主砲弾(和歌山/有田・須佐神社)@帝国陸海軍現存兵器一覧
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/sonota/teien/teien.html

 なお,上述の砲艦「赤城」は非常な幸運艦であったらしい
 この黄海海戦で沈まなかったのみならず、除籍後は運送船「赤城丸」として長らく使用された.
 そして太平洋戦争も生き延び、戦後二回沈没するが浮揚して復帰(一度は台風で浸水沈没 二回目は触雷沈没).
 艦齢,実に62年に及び、昭和28年に老朽化により解体された.

(軍事板)

現在は「高橋幸宏」として活躍中の丁汝昌


 【質問】
 黄海海戦では,装甲のある軍艦は日本海軍に何隻あったか?

 【回答】
 海人社の「日本巡洋艦史」をめくってみましたが,黄海海戦参加の日本艦の内,
舷側装甲があったと言えるのは,
千代田(92mm)
比叡(137mm,ただし鋳鉄)
扶桑
のみです.

 扶桑は鋼船で,しかも水線全体に渡って装甲帯を持ちます。
 この艦のタイプシップは、1870年に建造された英国の中央砲郭艦Iron Dukeを小型化したChileのAlmirante Cochraneです。

 一方の比叡は(同型艦,金剛も)舷側装甲を持ちますが、これは船体中央部にのみ施されており、船体は鉄骨木皮構造です。
 こちらのタイプシップは、RussiaのGeneral Admiral、英国のGem級巡洋艦になります。

 千代田の舷側装甲も中央部のみでした.

 他の艦は,いわゆる防護巡洋艦と呼ばれるもので,舷側装甲はなく,水平線付近の中甲板の全面に2〜3インチの装甲を張っていました.

 したがって,もしも清国海軍が,当初の予定通りに速射砲を多数配備していたなら,日本艦も被害続出だったのではないかと言われています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2
消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)


 【質問】
 防護巡洋艦とは?

 【回答】
 防護巡洋艦は,近代的な巡洋艦発展直前までの艦種で,
「舷側に装甲板を持たず、多くの場合、喫水線よりやや上方の中甲板に薄い装甲をはって防御甲板となし,その下に機関部、弾薬庫など重要区画を収めた方式の巡洋艦」(日本の軍艦「重巡T」)
となってます。


 【質問】
 黄海海戦時に負傷した伏見宮元帥は,実は敵弾で傷を負ったのではなく,トウ発事故によるものだというのは本当ですか?

 【回答】
 その可能性もある,という話.

 長面の宮の負傷に関しては野村實氏が「天皇・伏見宮と日本海軍」でとりあげているが,主に黛治夫の調査によるもの.
 この事故は俗に「第3砲塔の砲塔長だった伏見宮が砲塔付近で炸裂した敵弾により負傷した」と言われているが,
・戦後多数のインタビューや資料をまとめ刊行された博恭王の公式伝記によると,「敵弾が砲塔に命中し,右砲砲身を切断,吹き飛ばした」とされていること
・強固な構造の30センチ砲身が,敵弾の命中により切断される事例・公算は極めて少ないこと
・1937年にかつて三笠砲術長だった加藤寛治に,砲術学校教官だった黛治夫が,この件を問い合わせたところ,事故であったことを認めたこと
・戦後,伏見宮負傷後第3砲塔の指揮に当たった三笠分隊士が黛の質問に応じ,トウ発事故であったことを認めた
・博恭王の伝記で,砲塔内勤務だった一水兵の記述に一連の事象を「珍事」としていること
など

 ソースが隔たっていますし,どこまで信じるかは微妙だが,「実戦の参加者・負傷者」であることが一つの伏見宮が権勢を誇った一因なわけで,これが事実で当時周知のことであったら歴史に影響はあったのかしら・・・など考えてしまう.


 【質問】
 日清戦争で清軍がクロスボウを使っていたというのは本当か?

 【回答】
 連射弩が使われました.

 マール社の「武器」105ページには,
「1894〜1895年の日清戦争まで使用された。
 大抵は防御の際に用いられ、一方の手で照準を定め、もう一方で弓を操作できる様に、壁の上に固定できる様になっていた。
 使用する矢は羽のない短い太矢で、予備の矢は柄の上の箱に収納される。
 発射する手順は、
  1.柄の上のレバーを前に倒すと、弦が溝に嵌る。
  2.同じくレバーを手前に引くと弦が引っ張られ、
  3.更に手前に引くと弦が留め金に押されて溝を飛出し矢を弾く」
と書かれています。

http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-211-2p.html
このページにある連弩(れんど)といわれるものがそれです。
 NHKでこれを撃っている映像を見たことがありますが、80〜100発/分位の発射速度だったと記憶しています。
 威力は畳に矢が半分まで突き刺さる程度でした。至近距離で。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2,極東の名無し三等兵 in FAQ BBS)


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