「花まつり」の難しさ
今回の「法話ライブツアー」は、お釈迦様の誕生日をお祝いする「花まつり」という行事(法要)に招かれたものだった。
しかし、実は、「花まつり」に招かれ法話をする場合、いつも少しヤッカイに感じる部分がある。
お釈迦様の誕生にまつわる有名なエピソードとして、以下の話がある。
産み月になったマーヤー夫人が故郷へ里帰りしようと向かう途中のルンビニーという場所で休憩をとった際、無憂樹という木に手を伸ばした母の右脇から赤ちゃんが生まれ落ちた。その赤ちゃんこそがのちのお釈迦様である。すぐに七歩あるいて、天と地を指さしながら「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と叫んだ。その誕生を祝い、天からは甘露の雨が降り注いだ・・・・
この「天にも地にも我独り尊し」という解釈がヤッカイなのだ。もちろん、あくまでも伝説であり、赤ちゃんが生まれてすぐ歩くなど、嘘である。
仏教系の学校や、お寺の「お説教」でよくされる解釈は、
「唯我独尊とは今日では、独善的とか、ひとりよがり、という悪い意味でとらえられているが、本来の意味はそうではなく、私のいのちも、あなたのいのちも、みんな独りの人間存在として尊いのだ、だから、これは見失っているいのちの大切さを教える言葉であり、お釈迦様が生涯かけて教えられた内容のダイジェストであり、お釈迦様の誕生のエピソードからそれを学ぶのが、花まつりという行事なのですよ・・・・」
僕も、仏教系の高校に通ったので当時そう聞いたし、その後もそんなふうに学んできた。
また、自分が高校などで「法話ライブ」をする際に、以上のような「骨組み」で話す内容をまとめることができれば、カッチョよくまとまるのである。
しかし、
本当の「天上天下唯我独尊」の意味は違うのだ・・・・。
35歳で真理を覚ったお釈迦様は、その覚りの内容を伝えるのを躊躇していた。やがて、インドの神々の代表として梵天(最高神ブラフマー)が、お釈迦様に「どうかその覚った内容をみんなに伝えてください」とお願いをする(梵天勧請)エピソードを経て、世の人に覚りの内容を伝える事(説法)を決意し旅に出た。その途中で、お釈迦様は、アージヴィカ教徒のウパカに出会う。お釈迦様の清らかな姿を見たウパカは、「あなたは誰を師匠としているの?」と質問する。すると、お釈迦様はこう答える。「自分はすべてを知る者であり、誰をも師匠とせず自力で究極の覚りを獲得した。神々を含めて、この世で自分に匹敵するものはいない。私は、目覚めたる者(覚者)である!!」
これこそが、「天上天下唯我独尊」の本来の意味なのである。もちろん赤ちゃんの時の言葉ではない。後代の仏伝作者が、35歳のお釈迦様のこの宣言を、生まれた時から偉大だったという意味をこめて、赤ちゃんのお釈迦さまに語らせた、という訳である。
うん、やはりこの「唯我独尊」という言葉の意味は、「私(の覚った事)は(それまでの)他とは違ってエライのだ!!」という宣言なのだ。そういうと聞こえは悪いけど、「輪廻転生」という永遠に止まらない「差別的構造」の連鎖の続くそれまでのインドの中にあって、お釈迦様が覚ったこと、引いてはお釈迦様が誕生されたということは、そういったそれまでの「輪廻的生存」という「構造」をはじめて打ち破った大きな意味があった、ということになる。
なので、「すべてのいのちの大切さ、人間の尊厳を謳ったもの」という解釈は(結論として導き出される仏教的な結論かもしれないが)、学問的にこの言葉自体の解釈としては「珍解釈」ということになる。
そのあたりを専門的に学んでいない僕は、色んなインド哲学の諸先生方の本で読んだ「受け売り」を語ることしかできない。しかし、曲がりなりにも大学で「インド哲学」を学んだ者としては、いくら聞こえがよくても「珍解釈」と呼ばれるものを自分の「法話ライブ」でお伝えする訳にはいきません。
お釈迦様の「天上天下唯我独尊」という宣言は、独善・ひとりよがりという意味ではなく、
「差別に歪む世界の中で、私は最初に真実に目覚めた者である。そして、目覚めた者として、あらゆる苦悩に苦しむ人々に安らぎを与えたいのだ!」
というように、
「一切衆生の救済をお釈迦様自身の存在意義(出世本懐)とした」
というふうに解釈し、
さて、それじゃ、この僕自身という「存在意義」ってなんだろう?
誰にも変わってもらえない、一度きりの、限りのある命で、色んなつながり関わり合いの中に存在している僕自身の「人生」の意味って何だろう??
単なる自分自身のせまい「枠組み」「物差し」だけで推し量るのではなく、お釈迦様の教えから学んでみる。
「花まつり」とは、
お釈迦様の誕生のエピソードを入り口に、その生涯を学びながら、そして、覚った内容である「縁起」というルール(法則)から照らし出されたこの私の「心の構造」(悩み・苦しみを生み出す仕組み)を知り、「自己点検」を試み、自分自身をまるごと受け取れる人間を目指すこと・・・・。
そう解釈しての「花まつり・法話ライブツアー」でした。
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