喜劇王チャプリンは親日家としても知られていた。戦前戦後に四度も来日しており、初めて日本の地を踏んだのは七十六年前の一九三二年五月十四日だった。
前年の一月から始めた世界旅行は欧州から東南アジアを経て海路、神戸港に着き、その日の夜には東京に入った。岡山市出身の犬養毅(号・木堂)首相が青年将校の凶弾に倒れた五・一五事件の前日である。
翌十五日朝、宿泊先のホテルで、その夜の首相官邸での歓迎会の打ち合わせが進められた。しかし、気まぐれなチャプリンが大相撲見物を望んだことで急きょ、延期となった。青年将校たちが官邸を襲ったのは夕刻。まさに運命の分かれ目だった。
難を逃れたものの、相当な衝撃を受けたようで、十七日朝には首相官邸を弔問に訪れている。以上の経緯は「チャップリン暗殺」(大野裕之著)に詳しい。
チャプリンの二度目の来日は四年後の三月。今度は陸軍青年将校によるクーデター、二・二六事件の直後である。その二年後、全体主義を痛烈に批判した映画「独裁者」の製作にかかる。ファシズムの台頭する欧州や日本での見聞が、映画製作に影響したことは間違いない。
それにしても、世界の喜劇王が、五・一五事件と極めて近い接点を持っていたことにあらためて驚く。歴史の奥は深い。