ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>関西>関西を楽しむ>魅知との遭遇> 記事 (40)大阪府立狭山池博物館 大阪府大阪狭山市防災1400年 堤防は育つ 安藤忠雄氏が設計した斬新な建物は、これを収納するために建てられたと言っても過言ではない。高さ約15メートル、幅約62メートルの巨大な「赤富士」、いや「黄富士」か。その正体は、狭山池(大阪府大阪狭山市)の堤防の断面標本。マーブルケーキのような土層の重なりに、7世紀前半に築かれた「ダム」が、かさ上げと改修を繰り返してきた歴史が刻まれている。
01年にオープンした大阪府立狭山池博物館の中心に鎮座する。近くで見ると、その大きさは圧倒的だ。「見学される方には『奈良の大仏と同じぐらいの高さ』と説明しています」と学芸員の山田隆一さんはいう。 狭山池が造られたのはいつか。20年ほど前まで「古事記」や「日本書紀」の記述から4〜7世紀ごろに国家事業として造られたと推定されていたが、絞り込む決め手がなかった。 歴史が明らかになったきっかけは、82年に発生した豪雨災害だった。池から流れている西除川(にしよけがわ)があふれて、下流の3千戸が浸水。大阪府は狭山池の堤防を治水ダムとして改造し、豪雨に備えることを決めた。その工事に先だって堤防を発掘したところ、最も下の層から木製の樋(ひ)が出土。年輪から年代を読み取る手法で材木の切られた年を調べると、616年に伐採されたことが分かった。聖徳太子や蘇我馬子が活躍した時代にこの池はつくられたらしい。 堤防の断面には、1400年間の改修の歴史が、土の色の違いとして記録されていた。飛鳥時代に築かれた堤防は高さ約6メートル。強度を増すために木の葉を敷き、上に土を盛る「敷葉(しきは)工法」で築かれていた。断面に近づいてよく見ると、あちこちに枝や葉が顔をのぞかせている。その堤防を約60センチかさ上げしたのは、奈良時代に各地で民衆のための土木事業を指揮したという僧・行基だ。彼の伝記によれば、731年のことだった。 さらに762年には、堤を一気に3メートルも高くし、貯水量を倍にする大改造がなされた。鎌倉時代には東大寺の僧・重源、江戸時代初めには武将・片桐且元による工事の記録がある。こうした改修の痕跡も、断面の調査で確認できたという。 日本の土木技術の発展が分かる貴重な資料として、大阪府は94年から、堤の一部を「スライス」して保存する事業を進めた。幅3メートル、高さ1.5メートル、厚さ50センチのブロック、101個に切り分けて運び出し、液状の樹脂に2年間つけて強化。その保存処理のために巨大な水槽を持つ仮設建物まで造られた。博物館の建物内に組み立てる際には、地震が起きてもバッタリと倒れないよう、免震ゴムを挟み込んだ土台の上に立てられた。 この博物館に投じられた建設費は53億円。財政難で予算の大幅削減を打ち出した新知事は、入館無料の同館を府が運営し続けることに消極的だという。 しかし、1400年という歴史の積み重ねを、言葉や理屈ではなく、目で見て実感できる博物館なんて、全国でもそう多くはないだろう。ここまで巨大な「展示物」を作ってしまった関係者の情熱に、素直に敬意を表したい。
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