イラスト:約8秒で画像が切り替わります【第2回】 となめ
  となめ”ってのも、訳すと、原語の意義も味わいも泡のように消えゆくことばである。どういうふうに使うかというと、初代神武天皇が、“区宇(あめのした)”を平定し、国を巡行したとき、丘の上から国の様子を見て、こう言った。
「ああいい国を得たなぁ。本当に狭い国ではあるけれど、まるでトンボが“臀(となめ)”しているみたいだな」
“是に由りて”と、『日本書紀』はいう。
「初めて“秋津洲(あきづしま)”という号が生じたのである」
 “秋津”とはトンボのこと。秋津洲ははじめ大和の一地方の名だったが、やがて大和の意となり、国号となった。要するに我が国は「トンボ島」なのである。その由来が、国の形状をトンボの“となめ”にたとえた、このエピソードなのだ。
 で、“となめ”って何かというと、「互いに尾を口に含みあう」ってこと。はっきり言ってトンボの交尾である。トンボは交尾するとき、互いの尾を口に含みあって輪っかになる。その形に似ているからトンボ島。和歌では“秋津洲”は“大和”の枕詞ともなっている。
 古典の授業で初めてそれを知ったとき、私は軽いショックを受けたものだ。
 国の別名って、もっとカッチョいいものだと思ってた。フィンランドの別名のスオミなんて「美しい湖」を意味するそうではないか。それが我が国は虫の交尾の形・・・。“秋津洲”のほうは字面は綺麗な響きだけれど、要するに交尾するトンボの島・・・
 と、このように、“秋津洲”も“となめ”もそのままにしておけばいいものを、訳してしまうから、身も蓋もないことになるのだ。

 トンボは秋の精霊で、「五穀豊穰の秋の島であることを含めた表現」でもあると、新編日本古典文学全集の註にはある。しかも交尾は子孫を増やすから豊穰につながるし。
 が、そもそもこれは今で言うなら公的な場での「おことば」だ。「おことば」が「トンボの交尾」もとい「尾を含み合っている形に似ている」ですよ。これって、よく考えると凄いことではないか。
 一国の王が国の形を虫の交尾にたとえ、それが『日本書紀』という正史に記されて、そのたとえが国の別名にまでなってしまうという展開。その背景には、現代人には、はかりしれない、男女の性愛に関する古代人ならではの思想が潜んでいると私は思う。
 たとえば出雲大社などにあるぶっといしめ縄。あれはヘビの交尾を表しているという説を聞いたことがある。吉野裕子の『蛇 日本の蛇信仰』が引用する『ハブ捕り物語』(中本英一)によると、「ハブの交尾は濃厚で、二十六時間かかることがある」といい、写真を見ると、ほんとにしめ縄のように雌雄がぴっちり編んだように絡み合っている。そんな蛇を古代人は信仰していて、縄文土器にも蛇の造形は見えるし、古代、「神」の代名詞でもあった三輪の神様も蛇で、女と“まぐはひ”して妊娠させる説話が残されている。
 『愛とまぐはひの古事記』でも書いたが、そもそも日本は神の“まぐはひ”で生まれた。イザナキとイザナミという男女神が“みとのまぐはひ”をして、次々と島々を生んでいって出来た国土が日本であり、日本の神々だ。それが“となめ”が出てくるのと同じ『日本書紀』にも、『古事記』にも堂々と書いてある。
 “みと”は「寝所」説と「性器」説の二説あって、今は寝所説が有力。
 “まぐはひ”は「性交」と言いたいところだが、これがどうも日本神話を読んでいると、単なる性交とは思えないのである。詳しくは前著に書いたが、私の考えを要約すると、“まぐはひ”は単なる性交ではなく、目と目を合わせ、見つめ合い、愛の言葉を交わすことから始まって、愛撫挿入後戯といった性交全般を表しつつ、結婚までを含んだ幅広い意味をもつことばだったと思う。生殖だけとか恋愛だけとか結婚だけとか分けられない、カップルの一連の行為全般をさすのであって、セックスとか性交といった、口にするのは恥ずかしいようなことばとはかなりニュアンスが違っていたと思うのだ。で、“まぐはひ”の語を含む物語は、交際&性交中の男女特有の、他を寄せつけない圧倒的なパワーの源として、また豊穰や繁殖につながるものとして、祈りの場だとか祭の場などで、好んで語られていたのではないか。あくまで想像に過ぎないけど。
 “まぐはひ”はイコールセックスではない。“となめ”もまた、単なるトンボの交尾ではなく、輪っかという永遠に途切れぬ形といい、互いの尾を口に含むという、睦み合いやら美やら儀式的なものさえ感じさせる行為といい、核が猛スピードで分裂を繰り返し増殖するような、性愛のもつ豊穰を表しつつ、情緒をも表す言葉だったと思うのだ。
 だから、さかしらに訳しちゃいけない。あくまでのんびりと、かつ威厳を以て、
「おお、トンボが“となめ”をしているような形だなぁ」
と、まだ国が小さかった頃の天皇が、丘の上で発する「おことば」に、ふさわしいものとして、そっと大事に取っておかなければいけないんだよ、となめは。


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