「詩人」谷川俊太郎について / あをの過程 新聞を読んでいると、度々、「詩人」という言葉と行き当たる。書評欄では、評者や著者として「詩人」という言葉が書かれているし、文化面では、詩人が学校に行って子どもたちと言葉の勉強をした、とかいうことが書かれてある。さらに、一番目に付くのがコラム欄だ。「詩人誰それの言葉」として、「詩人」がもっともらしく登場する。 このような時に、ギクリとするようになったのは、いつからだろう。少なくとも、昔はこうではなかった。高校のある時期まで、僕はその「詩人」という言葉を、何と言うこともなく受け入れ、受け流していたのだ。この世のどこかには「詩人」と呼ばれる人がいて、とりあえず詩を書いていて、詩以外でもなんかしたり、なんかいいこと言ったりしているんだな、と、ぼんやり考えていた。小説家になることを一応の夢として抱き、詩のことを「(一般的に言って)大嫌い」と公言して憚らなかった当時の僕にとって、小説家・作家の人たちはどこまでもリアルで、「詩人」という存在はどこまでもぼんやりとしていた。 それが、なぜ今のようになったのか。簡単なことだ。自分自身が詩を割合多く読むようになり、さらには書くようにもなってしまって、詩がおかれている状況が、少しとはいえわかるようになってきたからだ。 「詩人」といっても、大体は大学の教授とか、評論家で、詩だけでご飯を食べている人なんて、本当に一握りである。むしろ、よっぽど有名な人が詩集を出す場合でも、他の本職(?)での稼ぎからいくらか拠出しなければ、出版もできないような状況なのだ。さらに、主婦とかそこら辺のおっちゃんでも、詩集の作者として、「詩人」と呼ばれていたりする。逆に言えば、こう言うこともできるだろう。つまり、職業区分として、人間を社会的地位において分けるカテゴリとして、「詩人」というものは独立しては存在しないのである。 しかし、新聞はそのようには載せない。新聞の書きっぷりは、まるで作家(これも、今の時代では相当怪しいものになっているが)や歌手、コピーライターとかと同じように、「詩人」という職種が存在しているかのようなのである。この、偽装というか不実な概念の定立というかに、僕はいつもギクリとするのだ。「おい待てよ。新聞が「詩人」なんてもっともらしく書いちゃっていいの?」と。 ところが、である。このような状況下で、奇跡的に、詩人でありえている人がいる。それが、谷川俊太郎だ。彼は、実際、文句の付けどころなく詩人である。そして何より、小学校の教室にいようと、シンポジウムで偉い人と一緒に語っていようと、学者や評論家ではなく、やっぱり詩人として見えてしまうのがすごい。この、「詩人」が一般的に言って排外されている社会の網の目の中で、谷川俊太郎は「詩人」として、これ以上なく落ち着きのいい場所を得ている。 もちろん、本人は自分が詩人ではない、少なくともなくなってきている、ということを言うようにはなってきている。あまりにも有名な「鳥羽T」の一節、「本当の事を云おうか/詩人のふりはしているが/私は詩人ではない」にしろ、あるいは、次のような言葉にしろ。 だから、もう詩人じゃなくなりつつあるというところがおれのうまい転身の仕方だと思うね。いま芸人になってるんだもの。活字に頼らないで声に頼っていやっているわけでしょう。(『日本語を生きる 21世紀文学の創造別巻』 岩波書店 2003年) しかし、そのようなことを言っていても、やはり、新聞は谷川俊太郎を「詩人」と書かざるを得ないだろう。そして僕らは、「詩人とは何か」とややこしく考え込まずに読む分には、その「詩人」に納得してしまう。一体これは、なぜだろうか。 それは、何よりもまず、彼がこの消費社会の中で、自分の場所を獲得できたからであろう。本人もことあるごとに、自分のやっているのは「受注生産」だ、ということを述べている。今日いわゆるアーティストよろしく、彼は消費社会の中に組み込まれえた詩人なのだ。しかし、「受注生産」は、そもそも受注があってこそ成り立つもの。受注が簡単に手に入るなら、僕だって大喜びで「受注生産」をやっている。では、なぜ谷川氏は受注を獲得できたのだろう。そこにこそ、谷川氏の独特さが現れていると思う。 『戦後名詩選 T』(野村喜和夫、城戸朱理編 思潮社 2000年)を紐解いてみれば、面白いことがわかる。吉岡実を「戦後最高の詩人」、田村隆一を「(戦後)最大の詩人」とするこの本において、谷川俊太郎はどのように書かれているか。「戦後ただ一人の国民詩人」、これである。彼は、国民的に詩を歌った。その詩は、素朴なものから実験的なものまで、どこまでも谷川俊太郎の詩であり、つまり戦後詩とか現代詩とかの歴史性を超えて、ただ「日本語の詩」であったのだ。 『ことばあそびうた』などをみると、その日本語詩人としての一つの極点が見えるし、「なんでもおまんこ」というタイトルを、シュールレアリスムやそこら辺のものに繋げるのではなく、そのものとしてことば世界の中でまぶしく解放してしまえるのも、この詩人ならではの偉業だ。「ああたまんねえ/風が吹いてくるよお/風とはもうやってるも同然だよ」「どうしてくれるんだよお/おれのからだ/おれの気持ち/溶けてなくなっちゃいそうだよ」 また、その没歴史性の方も、たとえば「芝生」の次の詩行などに、如実に現れている。 そして私はいつか どこかから来て 不意にこの芝生の上に立っていた なすべきことはすべて 私の細胞が記憶していた だから私は人間の形をし 幸せについて語りさえしたのだ このような、谷川俊太郎のありかたは、同じ時期に詩人として詩壇に現れた大岡信あたりが、評論や実践で詩壇を引っ張って行った(らしい)のとは、好対照である。谷川氏は、詩壇にいるようで、でも、詩壇にはいない。少なくとも、詩壇にずっと立ち止まっているのではない。教室にいたり、新聞にいたり、結局、彼は社会の中にいるのだ。(「詩はいないもん、観客が。」という平田俊子さんの言葉に対して)「私はいますよ。目の前にいるもんね、何百人か。」(『日本語を生きる』) これらのようなことが、詩壇と、あるいは詩自体ともつながりを失ってしまった各方面から、彼が受注を獲得でき、かつ、その期待に応えられた要因ではないだろうか。 もちろん、いつか遠い未来から見たら、「谷川俊太郎」もまたこの時代だからこそ生まれえた詩人だ、という風に映るかもしれない。しかし、彼は少なくとも今見る限り、そのような時代性を軽く超越して詩人であり、日本語の過去でも未来でもあって、でもやっぱりどうしようもないくらいに現在(脱歴史的な意味での現在。すなわち、いつの時代においても現在)であるしかなくって、いくら「私は詩人ではない」と言ってみても、やっぱり詩人として日本語の中に、そして社会の中に戻ってくるしかないのだ。たぶん。 さて。おりしも、2003年は鉄腕アトムの生誕年とされた年である。知らない人もいるようだが、あの有名な主題歌の歌詞は、谷川さんが作ったものだ。最近、新たにテレビ放映されている鉄腕アトム(フジテレビ系列 『ASTRO BOY 鉄腕アトム』)をワケあって時々観ているのだが、その時、思ったことがあった。アトムのあのつるんとした顔。その無邪気ななめらかさとどこか切ないまぶしさは、なんとなく、谷川さんの顔に似ている気がする。(「空の彼方」に消えようが、「海の底」に潜ろうが、やっぱりどこでも「みんなの友達」であるしかない、そういう自分に戻ってくるしかない、ロボットとしての彼。) 人里離れた湖の岸辺でアトムは夕日を見ている 百三歳になったが顔は生まれたときのままだ (谷川俊太郎 「百三歳になったアトム」より。ほんとは もっと引用したかったけど、悪いので二行でやめます。 ぜひ、この詩は最後まで読んでみて下さい。) ※今回、「鳥羽」「芝生」『ことばあそびうた』は『谷川俊太郎詩集』(ねじめ正一編 角川春樹事務所 1998年)を、「なんでもおまんこ」「百三歳になったアトム」は2003年11月16日現在の最新詩集『夜のミッキーマウス』(谷川俊太郎 新潮社 2003年)を参考にいたしました。 |