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「じゃ、遠慮なくどうぞ」
促されるままに、私はそのドアをくぐった。靴を脱いでから揃えると、黒川の用意してくれたスリッパを履いた。そう、つまり私は今、黒川の住むマンションに来ているわけだ。
昼休み、私と黒川との間で交わされた遣り取りで、黒川は誰にも言わないとは言った。しかし私は不安を拭いきれなかった。いや、その時は確かにそう思っていた。
だから、黒川ともう一度話をしようと思い、一方で、その切り出し形も切り出す機会も見出せないまま学校が終わり、私は自分でも分からないうちに黒川の後を付けていたりした。
それがどうして部屋に招かれたりしたかというと、尾行があっさりバレたからだ。角を曲がったところで姿を見失ったと思ったら、いきなり後ろから声を掛けられた。「今朝の件は、済んだんじゃないのか」と。
振り向いたそこに黒川の姿を認めたとき、私は本当はどうすべきだったのだろう。
おそらく、一目散に逃げ出すのが最良の手段だったはずだ。
それなのに、私はこう言っていたのだ。
「もう一度、2人切りで落ち着いた場所で話したい」と。
ちょっとその辺で、とは言わなかった。
2人切りで、とそう言った。
何故、そのように言ったのか、その時点でもまだ、私は理解していなかった。
しかし黒川が、「じゃあ、俺の家に来るか」と言ったとき、私はようやく私自身を理解することが出来た。
そこにこそ、私の望みがあったのだと。それに気付いた私に、もはや戸惑いも躊躇いもなかった。導かれるままに黒川の後に続き、招かれるままに黒川の家へ上がり込んだ。
そして、リビングのソファに身を沈めている今の私がいる、というわけだ。
「何か飲み物でもいるか?」
台所から聞こえてきた黒川の声に、私はジュースなら何でも、と答えておいた。
そうしながら、部屋の中を見回してみたが、実に良く片付けられていた。掃除も行き届いているようだ。
黒川の話では、彼はこのマンションに大学生の親戚と2人で暮らしているらしい。父親は仕事で滅多に帰ってこないため、下宿先兼黒川のお目付役として、その親戚が越してきたそうだ。その親戚も、夕方遅くにならないと帰ってこないと言うことだ。ちなみに、母親は早くに亡くなったと付け加えられもした。
さて、今はまだ4時過ぎだ。時間は充分にある。
私が部屋の中を眺め回していると、トレイにジュースの入ったグラスを乗せた黒川が入ってきた。制服は着替えていて、かなりくだけた感じがする。そんな黒川はトレイをテーブルに置くと、自分はフローリングの床に座り込んだ。
「話ってのは?」
私にグラスを手渡した黒川が、さっそく尋ねてきた。
グラスに満たされたグレープフルーツジュースを一口飲んだ私は、自分でも意外なほどに落ち着いた声で、その決定的な一言を言葉にしていた。
「黒川、アンタ、私と、SEXしない?」
さすがに、その一言は効いたようだった。
今まで私に対してずっと冷静に対処してきた黒川が、私の顔をじっと見つめてきたのだから。
それも、ちゃんと驚いた表情で。
黒川は聞き返しもせず、黙って私の顔を見つめていた。
私は黒川を驚かせられたことに気を良くしながら、告白を続けた。
「実を言えばね、電車でのことだけど、昼休みにアンタに指摘されたとおり合意の上での行為なわけ」
決して人に言うことの出来なかったその秘密。
それを今私は、クラスメートという以外にはよく知りもしない相手に告白していた。
そして私は、それを喜びと感じていたのだ。
告白すること自体が、ではない。
黒川に聞いてもらうことが、なぜだか嬉しかった。
それはあるいは、この告白の後に続くであろうSEXへの期待なのだろうか。
とにかく私は、嬉しさを必死に押し殺し、表向きはあくまで平静に告白を続けた。
「自分でも、変態だとは思うよ。痴漢されて歓ぶなんて。でも、仕方ないじゃん」
私は自分の歪んだ性欲を、仕方ないの一言で片付けてしまった。今までどれだけ自己嫌悪に陥っていたか分からないと言うのに。けれども、そう告白する今の私の心に、何の曇りもなかった。
そこへ、黒川がため息と共に言葉を漏らした。
「それが、どうして俺とSEXするっていう話に進むんだよ?」
黒川の声は、呆れ果てたと言った感じだった。興奮や緊張とは無縁の声だった。それでこそ、望むところと言うものだ。SEXと聞いて、すぐに欲情するような奴は願い下げだ。あるいは緊張で固まってしまわれても困る。私は、SEXを楽しみたいのだから。
私は、黒川とのSEXという目的に向かって邁進を続けた。
「もちろん、保険としてよ。あなたが私の今の告白を秘密にしてくれるなら、好きなだけ私を抱いていい」
「俺は、誰にも言わないって言わなかったっけか?」
不満そうに言う黒川に、私はにっこり微笑んで見せた。
「あなたと私がSEXすれば、きっと学校でも、そういう雰囲気を出してしまうと思うの。あの2人は付き合ってるんじゃないかってね」
脈絡のないように見える私の説明に興味を引かれたのか、不満の色を引っ込めた黒川は無言で先を促した。
「そうなってしまえば私のものよ。仮にあなたが私のことをどう言おうと、それはあなた自身を貶めるだけだわ」
私は自信たっぷりに断言した。
黒川は大げさに肩をすくめて見せたが、反論してこなかった。私の意図を理解してくれたのだろう。
学校では、私は優等生の明るく活発な女の子だ。対して黒川は、まるで目立たない存在。そんな2人がくっついたというのは噂話にもってこいだが、それはそれとして、黒川がそういう話をしたとしても、それこそ黒川が自分の評判を地に落とす結果にしかならないはずだ。
「そういうわけで、あなたには私とSEXをして欲しいの」
黒川が大きくため息を付いた。
「それを聞かされて、俺がハイそうですかって応じると思うのか?」
「思うわ」
「どうして?」
「あなただから」
呆れかえる黒川に、私は即答していた。
そう、黒川なら分かるはずだ。私の本心が。
実際、こんな茶番は必要ないのだ。黒川が何を言おうと、彼の言葉を真に受ける者はいないはずなのだ。学校での私と黒川の力関係は、明らかに私が上だから。
それでも、私はわざわざ言い訳を用意した。言い訳を用意してまで、黒川にSEXを申し出た。
言い換えればそれは、それほどまでにSEXがしたいという意味に他ならない。
黒川なら、そんな私の思いを見抜いているに違いないと、私は確信していた。
そして、いや、だからこそか、黒川なら、私の望む形で私を抱いてくれるだろうとも信じていた。根拠も何もない直感に過ぎなかったが、私は自分の考えが正しいと疑わなかった。
黒川は、ほんの数秒、何かを言い淀むようにしていたが、結局出てきたのはため息だった。
そしてついに、私の望む答えを口にした。
「OK。俺だってSEXは好きだからな」
その時、ガッツポーズをしなかった自分を、私は誉めてやりたかった。
「ただし、だ」
「ただし?」
何か条件を付けるつもりなのだろうか?
いきなりSMチックなことを言われても困るのだが……。いや、いきなりでなければいい、というのでもないけど……。
黒川の条件は、私の馬鹿な妄想を、ある意味越えたモノだった。
「時間と場所は、お前が決めてくれ」
「……え?」
「だから、いつ、どこでSEXをするか、それはお前が決めてくれと、そう言った」
…………。
つまり、私は自分から積極的に、黒川を求めないといけない、と?
いや、確かに私は黒川とSEXをしてみたいんだけど、確かに今回は自分から誘ったんだけど、毎回そうしろと?
それは、さすがに、何というか……。
私が悩んでいると、黒川が追い打ちをかけてきた。
「で、どうする?」
「どうするって、何がよ?」
「今、ここで、SEXをするのかってことだよ。決定権はそっちにあるんだぜ?」
あぁ、まったくっ!
YESと答える以外にどうしろと言うつもりなんだろう、こいつは。
弄ばれているような悔しさに歯噛みしたものの、すぐに私は気を取り直した。
ようするに、黒川が私に夢中になればいいだけなのだ。黒川から、積極的に私を求めるように仕向ければいいんだ。そのためには、今回は私が黒川を激しく求めてやればいいわけだ。
私は、極上の笑みで黒川に答えた。
「もちろん、今、ここで、よ」
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