2008-05-07
意味よりも納得。
生きる意味はあるか? - 星の旅 左記より引用
生きるの主語、誰にとって、これから先の人生に意味があるのか? なのか、今までの人生に意味があったか? ということなのか。
(中略)
「なんでいきてるんだろ」とか「生きる意味あるかな」って思っちゃうのは、どこか、人生に参加できてないとか、しなくてもいいんじゃないか、と思ってしまうところにあると思うので、自分で決めるという行動をしたら、その質問自体思い浮かばなくなるのではないかと思われる。代わりに、この行動で正しいか? とか、この行動をすることは自分の目的に沿っているだろうか? というものになるのではないだろうか?
延命治療とか尊厳死の問題も含めて考えると複雑になるので、今回のエントリでは「自殺」に含まないことにしますね。私の場合、紆余曲折を経て、「あ、自分の人生で自殺って手段は放棄しよう」と決めました。だから、意味があってもなくても、寿命が尽きるまで自分の生を生きなければなりません。この立場から発言していますので、人生に意味があることは自明だと考えています。
ただし、価値観は千差万別ですから、私にとって意味があっても、どなたかにとっては意味がないこともたくさんあります。その逆もあります。ですから、意味があるかどうかよりも、生きている人が自らの人生をどう決めるか、どう納得するかの方が、重要で、そうした手続きを繰り返して生きていくこと自体も「生きる意味」に含まれるのではないかと私は考えています。
こうした見方をすると、これまで過ごした時間に意味があるかどうか、これから先の人生に意味があるかどうかという設問(あるいは区切り)はあまり意味をなしません。いつ決めたのか、どう納得したのかを重視するのですから。過去も現在も未来も一続きのものとして扱っています。
ただし、もう一カ所引用させていただいた部分は非常に鋭い指摘だと感じました。話していると作業する手が止まるように、考えると足が止まることがあるし、足が止まるから考えることもありますよね。「どう決めるのか」「どう納得するのか」という立場は、生きることと平行して行えますのであまり足は止まらないと思います。ただ、「生きることに意味はあるのか」と懊悩することは、場合によっては人生に参加しにくい状態にあるかもしれないですね。答えが出ない設問であっても、命を失うのでなければ、その設問を抱えて生きた分だけその人をタフにしてくれると信じていますので、あまり心配はしませんが、考え込んで答えが出ない時は、一旦保留して、少し歩いてみるのも知恵かもしれないですね。
生きることに意味があるのか? あるに決まってるじゃん。 理由は? なきゃ困る。
ちょっと砕けすぎかもしれないですが、結局何を選び何を信じるかという話に行き着くと思うので、本来信仰が担当していた領域なのかもしれませんね。
私は自殺を放棄し、人生の意味よりも、「どう人生に納得するか」を優先させることを選びました。他の方は、どうされているのでしょう。きっと、様々な知恵をみなさんお持ちのことと思います。